終わって始まる



 享年二十六歳。
 仲がさして良くない両親や姉は、それでも俺の死に涙したのかもしれない。営業のイロハを懇切丁寧に時折熱血指導を交えて教えてくれた先輩や、大きな失敗をした時に強引に飲みに連れて行って慰めてくれた同僚。彼らもきっと都合が合えば葬式くらいは顔を出してくれたんじゃないだろうか。小学校から高校まで同じだった幼馴染み、大学でのサークルやゼミの仲間。中々に変人が多かった気もするが、彼らだって一足どころか十歩以上早い旅立ちに色々な想いを巡らせてくれているはずだ。
 全ては願望妄想。
 だって、俺はもう死んでいる。幽霊になって皆を見守るとか無理です。不可能です。期待しないで下さい。
 けれど、死んだはずの俺がこうして思考出来る理由。魂だけの存在は思考出来るのか出来ないのか、そんな小難しい事は分からない。が、どうやら魂と身体は別物だったらしい。そんな結論に至ってしまった。

 だって俺は、死んだはずの一人の男の記憶を持って、今生きている。

 確かに俺の身体は一度死んだ。電車が横転したのだ。何が原因か、そんな事を検討する意味はない。死んだ俺は、それを知り得ない。ただ、覚えている。

 ぺしゃんこになった電車の中、座席と何かに挟まれて、身動きが取れなかった。
 脇腹からどくどくと勢い良く生命を構成するのに必要な何かが流れていく。何処が痛いかも分からなくなる程全身が苦痛に苛まれ、血が足りていないのか頭の回転も鈍くなり、それでも助けを呼ぼうと口を開けば血が飛び出た。動けと命令しても四肢は勝手に痙攣を繰り返すばかり。視界が滲む。情報を得る事を諦めて瞼を閉じる。最後に残ったのは聴覚だった。

 助けて下さい助けて下さい助けて。
 ひきつった女性の声。生命がある事を主張するように激しく泣く赤ん坊の声。
 耳障りだなと、早く泣き止めよと、母親何してんだよと、普段なら罵りながら思ったのだろう。
 けれども真っ暗な視界には涙の予感。情けなかった。叫びたかった。苦しかった。全て本当で、でも一番強い想いは別のもの。

 助けたい。

 出来るものなら助けたい。ヒーローなんかじゃないけれど、そんな柄じゃないけれど、助けたいって思うこと自体は多分人として間違っていないし、俺だって最期くらいは格好付けたい。最期だって、分かっているからこそ。
 それでも奇跡は起きなくて。身体は微塵も言う事を聞いてくれなくて。痛みを段々感じなくなって。
 もう死ぬな、そんな予感がした。

 助け、て。
 それを最後に女性の声が聞こえなくなる。新たに男の呻き声が耳に届いたが、赤ん坊の泣き声にすぐかき消された。
 まだまだ勢いのある小さな命の叫びに胸が絞め付けられる。助かってくれ。そんな他力本願に走ってみた。だって仕方ないじゃないか。俺はもう無理だ。多分もうすぐ死ぬ。ああ、けれど。

 助けたかった。

 助けたくて、でも無力な自分を思い知って。助かりたくて、でも都合良く助けなんて来ない現実を噛み締めて。そんなどうしようもなく絶望に満ちた最期を、俺は確かに覚えている。


 目覚めた時には車の中で、膝枕をされていた。ぐすぐすと誰かがすすり泣く気配がする。誰だっけ、と混乱しながらゆるゆると瞼を上げれば、見慣れた女性が目に飛び込んできた。
 そうだ、これは母親だ。視界の隅でぐずついている少女は、俺の妹。運転席にいるのは俺の父親。彼らは今の、俺の家族。やっと現実を認識して、母親に視線を戻す。

「あら、起きたの?」

 心配そうに顔を覗きこまれ、小さく頷く。

「うん」

 一気に流れこんできた男の記憶の渦にのまれた頭はなかなか動いてくれない。何かを言わなくては、そう思うも頭痛が邪魔をする。

「まだ寝てて良いわよ」

 何も聞かずに頭を撫でてくれるその優しさに、睡魔が押し寄せてきた。抗わず、瞼を閉じる。
 そして再び、男の記憶を巡る旅に出た。

「起きた?」

 そして目覚めれば、枕元に母親が座っていた。栗色の髪をした、白人系で彫りの濃い美しい女性。
 そう、この人が今の母親。
 言い聞かせなければならない程に、まだ記憶が混乱していた。瞼の裏に浮かぶ黄色人種で黒髪の"母親"を、頭を軽く振ることで頭の隅に追いやる。途端に目眩に襲われベッドに逆戻りする羽目になった。

「大丈夫? ルーク。貴方、一日寝込んでたのよ」

 そう、俺はルーク。
 母さんと父さんの息子。姉じゃなくて、双子の妹がいる五歳の少年。記憶をすり合わせて、五年の人生を確認する。変な男の一生を詰め込んだ記憶の渦に飲み込まれそうな中、ルークという自己を保っていることに、ひどく安堵した。

「大丈夫、母さん。此処は?」

 母さんと、そう呼ぶことに違和感を抱いたことに眉をしかめる。きっとすぐに慣れる。そう思いたかった。

「新しいお家よ」

 額に手を当てながら、熱はなさそうね、と呟く母親。後ろめたさから視線を外せば、確かに見知らぬ部屋に寝かされているのだと漸く気付いた。
 段々と記憶が甦ってくる。
 今日は、いや昨日は、"お出掛け"をしたのだ。頻繁に行われる"お出掛け"は、引越しのこと。そんなものかと受け入れていたが、引き出された男の常識が変だと訴えかけてくる。五歳にもなるのに極力家の外に出ない生活も、大抵家にいる父親の職業が分からないことも、色々とおかしい。けれど、今はそれより重要なことがあった。
 思い出す。家族で荷物を抱えながら向かった駅。プラットホームに入ってきた列車。それを見て、俺は倒れた。
 一体何なのだろう。すごくリアリティーのある男の最期。その時々に抱いた感情さえ鮮やかに思い起こすことの出来る男の一生の記憶。俺はおかしくなってしまったのだろうか。電車で死んだ霊にとりつかれでもしたのだろうか。考えて、首を振る。だってこうして思考しているのはルークであり、そして死んだ男でもある。二十六年分生きた男も確かに俺だ、そんな確信があった。

「どうしたの?」

 かけられた声に母親の存在を思い出す。途端、喉に張り付いたかのように声が出なくなった。息だけで喘ぐ。
 自分が何者か断言できなかったのだ。五歳の少年なのか、それとも二十六歳の男なのか。本当に自分は、彼女の"息子"なのか。

「あらあら。まだ具合が悪そうね。もう少し眠れそう?」

 ふるふると弱く首を振り、俯きながら左手を持ち上げた。行き着く先は、女性の腕。服をぎゅっと掴み、正体不明の不安を訴える。
 横から嬉しそうに笑う気配がした。

「甘えん坊さんね、ルークは」

 ゆっくりと体重をかけないように覆い被さる柔らかい身体。抱き締められているのだと理解した瞬間、緊張がほどけていく。

「大丈夫よ。母さんが一緒にいるから。もう怖くないわ」

 穏やかな声が、温もりが、身体の芯まで染み入り思ってしまった。
 自分が何者かは分からない。けれど、多分母さんの息子であるという事実は、それだけは信じても良いのだと。

「母さん」
「何?」
「なんでもない」

 呼び掛けに答えてくれただけで、充分だった。こみあげそうになる涙の気配を誤魔化すため、温かな身体に身を預けて顔を埋める。ゆるゆると背を撫でてくれる母さんの優しさを全身で感じながら、再び襲いくる睡魔に従った。

 再度目を覚ませば、真っ暗な部屋。周囲から物音一つしないため、もう夜なのだろうと見当をつける。寝過ぎて重い頭をゆっくりと起こす。
 と、主に足に違和感を覚えて手を伸ばした。何かが絡みついている気がしたのだ。
 すぐに手はそれを捉えた。柔らかい、髪のような。

「ん」

 恐怖に駆られて叫びだす寸前、聞こえてきた吐息に安堵の息を吐き出す。

「アリスか」

 起こさないよう囁くように双子の妹の名を口にする。暗闇に目が慣れたのか、横に眠る少女をはっきりと認識できた。足どころか胴体にもがっしりと腕と足が巻き付いており、抱き枕状態。時々一緒に眠ることはあるものの、ここまで拘束されるのは初めてだ。

「お兄ちゃん?」

 抱きつく力が弛み、寝ぼけた声で呼び掛けられる。ちょうど良い位置にあった手で頭を撫でた。

「起こしちゃった? まだ寝てて良いから」

 するとアリスは一層身を寄せてくる。

「あのね、こわいゆめをみたの」
「どんな?」

 顔を此方に向ける気配。暗闇の中、うっすらと見えたアリスは目尻に涙を浮かべていた。

「"まえのとき"のゆめ。いたくてね、くるしいの。しんじゃったの。わたし、でんしゃきらい」

 頭を撫でる手が止まる。

「"前の時"?」
「うん」
「つまり前世?」
「うん?」

 前世の意味が分からなかったのか、首を傾げたアリス。手首に髪が当たってくすぐったい、じゃなくて。

「前世。前世か」
「うん? ぜんせ?」
「うわあ。なんかしっくりきた」

 そうなのだ。何故その可能性を考えつかなかったのかと不思議に思う程に納得してしまったのだ。

「うう」

 無視するなと不満気に唸り声をあげる妹の頭を宥めるように撫でつけながら、己に起きた不可思議な出来事に納得する。そして遅れてやってきた衝撃に再び手が固まった。

「え? アリスも前世の記憶あるの?」
「ええ? なに? お兄ちゃん」

 問いの意味が分からなかったのか、不思議そうな声をあげる。

「だからさ、アリスも一度死んで、生まれ変わったの?」
「うう?」

 やはり意味が分からなかったのか、軽く唸るその声は既に話題への興味を失っていた。

「それよりねむい」

 宣言されてしまえば、それ以上強要することは出来ない。

「分かったよ、アリス。また明日。お休み」
「うん、おやすみね」

 ぽんぽんと頭を叩けば、先程までのようにすり寄ってくる。そしてすぐに寝息が聞こえてきた。

「前世。生まれ変わり、か」

 吐息だけで呟く。
 輪廻転生でもしたかと思うも、前世でそこまで善行をした覚えもない。現状を把握しただけで、原因がさっぱり分からない。
 アリスにも明日詳しく話を聞かなくては。両親には今は黙っておこう。混乱は収まらないが、そう方針を定めたことで少しだけ落ち着きを取り戻し、目を閉じる。

 こうして、気付いた時には俺の人生はもう終わっていて、いつの間にか第二の人生の幕が上がりきっていたのだった。


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