精神集中。座禅を組み、背筋を伸ばす。身体の周りにオーラを留めるイメージ。頭で考えなくても、最近は身体が覚えたのか自然に纏を出来るようになってきた。
横で身動ぎする気配に、視線を向ける。
「アリス」
「つまんない」
狭い室内ゆえ、小さな声でも意外と響く。ヘンデスさんがいる部屋に続く扉に視線をやって、来る気配がないことを確認してからアリスに向き直った。
「ほら、アリス。"前の時"奈良とかに行った事なかったか? その時見たでっかい大仏の真似っこだよ」
必死に説得するのには訳がある。
あの後ヘンデスさんは身体がもう少し出来上がればアリスの精孔もこじ開けると主張した。でも、頷けるわけがない。あんな、死ぬかもしれない方法をアリスに試すなんて冗談じゃない。他に方法はないのかと詰め寄り、渋るヘンデスさんから無理矢理聞き出したのがこの瞑想。座禅でも何でも良い。ひたすら精神を集中し、身体から流れるオーラを感じ取り、ゆっくり精孔を開けていく。
そんな方法があるのなら初めからやってくれ、あんな苦しい思いさせるな、という憤りがなかったわけではない。だが、時間制限がある、あの少年がいつ再び現れるか分からない、そう告げられればそれ以上強くは言えず。
ただ、アリスだけはと頼みこんだ。アリスの強さは程々で良い。その分俺が強くなれば良い。そう宣言してから、俺が日常生活を送る際に身に付ける重しは500kgに増えた。訓練中も両腕両脚に10kgの重しを付けられ、以前と比べれば段違いに辛い生活だけれど、何とかこなせている。悪い事をするわけでもない。アリスの為だ。そう考えれば、頑張れる。
とはいっても、アリスにもオーラを感じて念を使えるようになって欲しいという一点に関しては、俺もヘンデスさんと同じ考えだ。無理はさせたくないけれど、強くなって欲しい。矛盾した思い。だけど、死んで欲しくない。
「ナラなんて知らないもん。お兄ちゃんに前言ったの覚えてないの? 私"前の時"はトーキョーにいたんだよ?」
拗ねたように唇を尖らせるアリス。可愛らしいその姿にそうだよな、と同意するしかなかった。
"前の時"、アリスは前世をそう呼んでいる。そして、未だに全てを思い出す気配はない。多分修学旅行か何かで京都と奈良辺りには行っていると思うが、その響きに聞き覚えはないようだ。もしかしたら前世ではその年齢に達していなかったのかもしれない。
「折角お兄ちゃんと一緒なんだもん。お話しよ?」
膝でにじり寄ってくるアリスを、拒否したくない。最近とみにアリスと一緒の時間が減ったから。訓練は基本別メニュー。シャワーはアリスが恥ずかしがって一緒に入ってくれなくなった。ご飯の時はヘンデスさんがいるから二人きりではない。未だに交換日記は続けているが、このすれ違い生活への不満は募るばかりなのだろう。そこに一日二時間の座禅の時間。アリスが食い付くわけだ。
「仕方ないな。じゃあちょっとだけ」
な、と続くはずだった音は扉を開く音にかき消された。
「真面目にやれ」
溜め息を隠して振り返れば、誤魔化しの効かない硬直な視線で射抜かれていた。
「はい」
むっつりと頬を膨らませたアリスの分も答える。頭をそっと撫で、戻ろうと促せば、渋々従ってくれた。
ヘンデスさんは扉の前に立ち、動く気配はない。このまま見張るつもりなのだろう。
「アリス、コツは掴めたか?」
「わかんないよ。オーラを感じとれとか頭おかしいんじゃないの」
ヘンデスさんに向けたアリスの率直な言葉が俺の胸に突き刺さった。
そうだよな、オーラとか頭おかしいよな。俺も前世でそんな事を言われたら、怪しい宗教勧誘を疑っていたと思う。が、残念ながら精孔をこじ開けられてから見えるようになってしまったのだ。ヘンデスさんのいうオーラが。
ヘンデスさんが身に纏うオーラは洗練されていて揺るがない。見ていて気持ち良いくらいだ。そしてアリスのオーラは言葉通り垂れ流し状態。座禅を開始した直後は集中しているせいか少しオーラの出が規則的になり、流れが心持ち綺麗になる気がする。そして今は全く集中出来ていないのか、身を流れるオーラは勢いが良くなったりゆっくりになったりと随分乱れている。気が散っているのだろう。
本当にこのオーラという存在は厄介だ。今まで見えなかったことが見えてくる。おぼろげながら他人の状況を把握出来てしまう。今後、ゾルディックから逃げる事が出来たとして、その後アリスはどんな職業に付くのだろう。目前の脅威があまりにも大き過ぎて未だ将来は具体的には見えて来ない。だが、"普通"の、オーラが見えない人々に混じった生活を送る事が出来るのだろうか。
見えないものが見える。それは異質なものとして他人の目には映ってしまう。
前世、幽霊が見えると言い出すクラスメートがいた。当時の俺は何言ってるんだよこいつ、と内心で嘲っていた気がする。
それと同じ状況に、アリスが置かれるのだと思うと不安でならない。隠せば良いのだろうか。けれど、一生隠し続けるなんて精神的に相当の負担になるのではないだろうか。
そしてもう一つ。直接的であり致命的な不安。精孔を開き、オーラを身体に留める纏という状態。これだけで、"普通"の人には脅威だ。俺は鎧をイメージしたけれど、鎧なんてものじゃない。
この前ヘンデスさんに廃屋に連れて行かれて、纏をした状態で壁を殴ってみた。軽く、という注文があったので本当に軽く、ちょっと叩くくらいの力加減で。それでも壁にひびが入った。もし全力で殴っていたら壁が崩れたことは楽に想像出来る。
オーラを纏うとは、それ程の力があるのだ。そんな状態で"普通"の人々に混じり日常生活を送る事は果たして可能なのか。
不安をあげればきりがない。だからこそ、普段はそれに目を瞑っている。今はまだ夢を見る段階ではない。厳しい現実を生き抜く事が最優先だからと自分に言い聞かせる。
「つべこべ言わずにやれ、アリス。ルークも集中しろ」
ヘンデスさんの声で現実に引き戻された。集中、集中、と心中で呟き、再びオーラに意識を傾ける。俺の纏はヘンデスさんに言わせればまだ未熟らしい。こうして座禅の時間を設けること一ヶ月。少しずつ良くなってはいるみたいだが、正直なところどのくらい上達したのか自分ではよく分からない。
集中していれば、時間が経つのを忘れてしまう。ヘンデスさんの乱入から三十分くらい経った頃だろうか。うなじにちりっとした感覚が走り、産毛が逆立った。反射的に身体が動いたのは奇跡としか言いようがない。
横で座禅を組んでいたアリスの方へと伸ばした腕に、焼けつくような痛みが走る。遅れて視覚がそれを捉えた。腕に突き刺さっていたのは、小振りのナイフ。黒い柄に、赤い血が一筋垂れる。
「ふえ?」
空気の流れが変わった事に気付いたアリスが声を上げた。居眠りしていたのか、気の抜けた声だった。
流れ出る血を、突き刺さったナイフを、アリスの視界から隠すように身に引き寄せてヘンデスさんを睨み付ける。
「何で?」
アリスに悟られないよう短くした疑問。ヘンデスさんはその続きが分かっているはずだ。
「真剣味が足りていない」
アリスに向けて真っ直ぐ投げられたナイフ。そこに込められていたのは警告。居眠りしてしまったアリスへの注意。分かるけれど、目的は理解出来るんだけれど、その手段を許してはいけない。
「ここまでする事?」
「あー!」
アリスが気付いてしまった。顔面から血の気が引いている。泣きそうに顔を歪めて、それでも泣き出す前にアリスはさっと動き出した。
「ごめんなさい! まだ抜かないで! そのまま待ってて!」
素早く立ち上がり、部屋の隅に常備されている応急セットを手に帰ってきた。すぐ横に座り込み、気を遣ってか優しい手つきで腕を取られる。
「太い血管は無事だから。大丈夫だよね? 抜くからね」
ヘンデスさんに確認してからアリスは必死に、それこそアリスが怪我したみたいに歯を食い縛りながらナイフを抜いた。
抜いた瞬間激痛が走ったけれど、何とか唇を噛み締めて堪える。血が出たのか口の中でどろっと嫌な味が広がった。
その間もアリスは血が自分の服に付くのを気にも止めず、ちょうど怪我をしたところに包帯を巻き付けて止血をする。そこまでやって安心したのか、涙がぼろぼろ溢れ落ちて血の滲んだ包帯に落下した。
「ごめんね、お兄ちゃん。私のせいで」
いつもならヘンデスさんに真っ先にくらいつく場面で、けれどアリスが口に出したのは謝罪だった。アリスを庇って怪我するのなら、俺にとって何でもないことだから気にしなくて良いのに。
「大丈夫だよ、アリス。このくらいならすぐ治る」
怪我を負っていない左手で涙をすくいあげる。涙はまだ止まる気配を見せなかったけれど、くすぐったそうに小さく笑みをみせたアリスに安心する。
「これで懲りたなら今後は集中するんだな」
低い声にその存在を思い出した。
「ヘンデスさん」
唸るような低い声が勝手に飛び出す。
「ナイフなんて危ない物今度から使わないで」
「あの少年が飛び道具を使わない保証があるのか?」
ぐっと詰まる。正論だった。
曖昧な記憶の中、残っている。ヘンデスさんが助けてくれた時、最後に何かが俺目掛けて飛んできて、あの時は確かに死んだと思った。ヘンデスさんが助けてくれなければ、きっと死んでいた。
「誰のこと?」
不意を突かれ、弾かれたようにアリスを見た。訝しげな視線が突き刺さる。
「ねえ。二人とも私にかくし事してるよね?」
薄々察しているだろうな、とは思っていた。アリスは馬鹿ではない。歳相応の思考力がある。おかしいと思われる点はいくらでもあった。逃亡生活であるのと定期的に盗みを働いているから、以前より引っ越しの回数は多い。それにどんどん厳しさを増す訓練。何を目的に強くなるのか、アリスには知らせていない。
「ああ。隠し事は沢山ある」
アリスの疑問に答えたのはヘンデスさんだった。何を言い出すのかと警戒する。
そんな俺に構わず、ヘンデスさんはアリスを真っ直ぐ見詰めて悠然と言い放った。
「だが約束だからお前には秘密だ」
約束。アリスには夢を。それを、ヘンデスさんは守ってくれた。
「だが、そうだな。オーラを感じ取れるようになれば、教えてやらなくもない」
「何それ! ひどい! おうぼう!」
「集中出来なきゃまたナイフを投げる。そしたらまたルークが庇う。アリス、お前はそれで良いのか?」
巧みに話の論点をずらすヘンデスさんに、アリスはすっかりのせられた。意気消沈して俺の腕を眺めて、それからぽつりともらす。
「ちゃんとやるもん」
話を反らしてくれたことは有難いのだが、元気のないアリスは見たくない。
「気にするな、アリス。俺の訓練にもなるから」
それでもアリスの顔色は晴れず、そして次の日早速この台詞を後悔する事となった。
見事、不意を突いたナイフ投げが訓練メニューに仲間入り。日常生活も気の抜けない時間となってしまった。