約束



「ただいま」

 息を切らせながら飛び込んだ室内は夕方だというのに明かりも付けておらず、夕日の橙色に染まっていた。静けさに気まずさを感じ、足音を忍ばせながら足を踏み入れる。
 まだアリスは寝ているかもしれない。起こさないように、未だ合格点をもらえていない絶をしながら忍び足。

「帰ったか」

 突然かけられた声がいやに響き、肩を震わせる。アリスが寝ている部屋から出てきたヘンデスさんを睨み付けた。

「静かにしてよ。アリスが起きる」

 さっき自分が発した声は棚上げして、小声で注意する。肩を軽くすくませるだけで、ヘンデスさんは椅子に腰掛けた。

「で、殺したか?」

 軽い口調で、何気なく発せられた台詞に眉をしかめる。

「ヘンデスさんじゃないから殺さないよ」

 殺すと思われていたことに苛立ちを感じ、嫌味混じりに答えた。
 と同時に、先程殺しても良いと最後思ってしまった自分に、大きな嫌悪感がわきあがる。それじゃあ、本当にヘンデスさんと同じだ。あんな変な子供にもきっと家族がいるはずで、無事を祈っている人がいるはずで、死んだら悲しむ人がいるはずだ。だから、簡単に人を殺しても良いなんて思ってはいけない。そう、自分を戒める。
 固く目を瞑り、俯いていたからヘンデスさんがどんな表情をしていたか、分からなかった。ただ、俺の嫌味なんて全くその心には届いていないことだけは理解していた。

「そうか」

 かちっとライターの音がして、遅れて煙が届く。

「アリスの様子見てくる」

 これ以上意味のない、いや、不快になるだけのやり取りをすることに嫌気がさして足の方向を変えた時、静かな声に止められた。

「待て」
「何?」

 顔だけで振り返る。ヘンデスさんの後ろ姿を眺めながら続きを待つ。

「アリスは家出したからそこには居ない」
「は?」

 理解出来なくて聞き返し、一拍置いて漸くその意味が、重さがじわじわと頭に染みこんできた。

「何で家出? 今ゾルディックが来たらどうするの? ただでさえアリス強くないのに今怪我してるんだよ? 何で止めなかったの!」

 掴みかかる勢いでまくし立てた。ヘンデスさんは振り向きもしなくて、また苛立ちが募る。

「何考えてんだよあんた!」
「アンの事を伝えた」

 一瞬頭が真っ白になった。激情がさあっと引き、代わりに焦りが押し寄せてくる。どうやってそれを受け止めれば良いのか分からない。手先ががくがくと震える。冷や汗が全身から噴き出す。

「な、んで」
「限界だ。アリスも勘付いてはいた。それを否定したかっただけだ」

 違う。そんなはずない。
 即座に浮かんだ反論を、口には出せなかった。だって、アリスは必死だった。必死に嘘を、現実を否定したくてあんな怪我を負った。負けたくなかったと悔し涙を流した。
 それでも、頷きたくない。

「でも、アリスには夢を与えるって」

 約束してくれたじゃん、と口ごもる。不用意に口を開いたら泣きそうだった。でも、泣きたくはなかった。今はそんな時では、悲観している場合ではないから。

「それは、お前の夢だろう?」

 冷静な声に弱さを否定される。
 今度こそ言葉に詰まった。確かにその通りだった。母さんが生きていると信じるアリスを求めたのは、俺の身勝手。アリスにだけは、現実を見て欲しくなかったんだ。

「アリスに夢を与えるのは、俺でもアンでもない。お前だ、ルーク」
「お、れ?」

 鸚鵡返し。力強い声に縋りたくなる。答えを、救いを求めたくなる。
 ヘンデスさんはゆっくりと振り返り、俺を真っ直ぐ見据えて口を開いた。

「アリスはお前に迎えに来て欲しいそうだ。早く行ってやれ」

 答えになっているようで、全く答えになっていない。もっと問い詰めたいのに、確かに今はアリスの方が大事で。

「帰ったら色々言いたい事あるから!」

 叫んでヘンデスさんに背を向け、家を飛び出した。

 段々と暗くなってきた路地を走り回る。今日は厄日に違いない。
 途中絡んでくる大人達は全て無視した。何処からか聞こえてくる悲鳴も、アリスのじゃないと判断したら全て聞き流す。転がっている死体を踏みつけた気がしたけれど、気にしない。さっき倒した少年が寝転がっていた場所も通ったけれど、誰もいなかったから多分無事に家に帰ったのだろう。もしまたアリスに絡んでたら今度こそぶちのめしてやる。

 ひたすら走って走って息も絶え絶えになってきた時、公園を見付けた。脳裏にあの時の事が思い浮かぶ。母さんが殺された日、家出したアリスは、独り公園で俺達を待っていた。
 入り口で一旦足を止め、息を整える。棒を括り付けていた紐が緩んでいたのでしっかり巻き直し、体勢を整える。そうして頭の中を落ち着かせてから、既に日が落ちて暗くなった公園に足を踏み入れた。

「アリス?」

 虫の鳴き声と風の音に負けないくらいの声で呼びかければ、がさっと近くの草が揺れた。遊具で寝泊りしている男達に睨まれるのを無視してそちらに近寄る。

「アリス。迎えに来たよ」

 植木を掻き分ければ茶色の髪が視界に入り、心の底から安堵する。やっと見付けられた。無事だった。

「お兄ちゃん?」

 ゆっくりと顔を上げたアリスに、手を差し伸べた。泣き暮らしていたとはっきり分かる腫れた瞼が痛々しい。

「うん。ほら、怪我してるんだから無理するな。家に帰ろう?」
「でも、母さんいないの」

 ぽつりと漏らされた言葉に、鼓動が速まる。それを気付かれないよう、恐る恐る言葉を発した。

「ああ。母さんは迎えに来ない」

 その言葉を吐き出すのにすごく勇気が必要で、本当は言いたくなくて仕方なかったはずなのに、何故か吐き出してみれば、楽に息が吸えた。一つ、重荷を背中から下ろせたことに対する安堵だったのかもしれない。

「お兄ちゃん、うそついた?」

 それでも、アリスの真っ直ぐな言葉が胸に突き刺さる。

「うん、嘘ついた」
「そっか」

 アリスらしくない、静かな低い声だった。そうだったんだ、と繰り返す声は平坦で、感情が読めない。そのことに不安が掻きたてられる。

「母さん、死んじゃったんだ」

 独り言のように呟き、アリスは俯きがちだった顔を上げた。震える唇の両端を持ち上げ、笑みらしきものを浮かべる。

「お兄ちゃん、うそついちゃいけないよ。うそつきは泥棒の始まりなんだよ」

 胸を掴まれたように呼吸が苦しくなった。前世の時の諺。俺は嘘つきで、泥棒もしていて、本当に救えない。だけど、アリスにそこまで明かすつもりはなかった。

「ごめん、アリス。もう嘘つかないって約束する」
「絶対だよ?」
「分かった。絶対嘘つかない」

 怪我をしていない方の小指を差し出され、少し戸惑った。指きりげんまん知らないの、と問いかけてくるアリスにかろうじて笑みを浮かべる。
 諺といい、指きりといい、もしかしたらアリスの前世の時の記憶はかなり戻っているのではないだろうか、と不安が生まれたのだ。もしそうだったら、アリスが今よりもっと物を考えられるようになったら、母さんが殺されたことも、俺達が逃亡生活を送っていることも、俺が悪事を働いて金を稼いでいることにも近い内に気付かれてしまうのではないだろうか。そんな不安を、今は静かに押し込める。

「嘘つかないよ。約束な」
「あともう一つね、あるの」

 明るい笑みを浮かべながらアリスは続けた。

「私がいなくなったら絶対お兄ちゃんが迎えに来てね。あいつは嫌だよ。絶対お兄ちゃんが迎えに来るの。約束」

 明るい声で、けれど真剣な瞳に見据えられ、慎重に頷いた。

「分かった。アリスが何処にいようと絶対迎えに行く。だからそれまでちゃんと待っててな」
「うん! 私良い子で待ってる」

 そっと差し出された小指と小指を絡めて二人で約束した。
 そのまま折れている腕に気を使いながらゆっくりとアリスを立ち上がらせる。ぶんぶん繋いだ手を揺らしながら歩き出すアリスは、先程までの消沈が嘘のようにご機嫌だった。微笑ましくも、また無理をしてるんじゃないかと不安が募る。

「今朝の子」

 俯きながら発せられた言葉。表情が読めないから、どんな反応を返せば良いか咄嗟の判断が掴めなかった。結局、必要最小限を口にする。

「倒したよ」
「そっか。さすがお兄ちゃん」

 無理やり弾ませたような声。
 それからは二人共無言で歩き、その話は終わりになった。もうあの子を嘘つき呼ばわりなんて出来ないことを、理解していたから。


 次の日、すぐに引っ越した。名前はもう忘れたが、あの少年と再び会うのは危険だとヘンデスさんに訴えればすんなり許可を得られた。
 そして移り住んだ十二番目の仮宿。アリスは怪我が治るまで静養中。これを言い出したのは、意外にもヘンデスさんだった。あの日、アリスを伴って帰った後俺の非難を全て聞き流していたのだが、流石に母さんのことを告げてアリスを傷付けたことに思うところがあったのだろうか。未だに一欠片の良心を期待してしまう俺は、そう思い込む事にした。
 俺の念能力についての訓練はあれから、今までの停滞が何だったのかと思う程上手く進んでいる。体内でオーラを練り上げ、一気に精孔を開き外に放出する練。アリスに怪我を負わせた少年への怒りを覚えた時の感覚を思い起こせば、今までと段違いの速さでオーラを練り上げる事が出来るようになったのだ。そして最大限に練り上げたところで、一気に放出。それが初めて出来た時の開放感は凄まじいものがあった。
 それまでずっと纏の訓練は怠らなかった為、スムーズに爆発的に膨れ上がったオーラを身に纏う事も出来た。この状態は堅というらしい。念能力の応用技である。更にもう一つの応用技に凝がある。練で膨れ上がったオーラを一ヶ所に集約する技だ。ナイフを受け取る訓練中、手にオーラを集約していたのだが、その容量でやればこれもすんなり習得出来た。普通凝といえば、目にオーラを溜めることであり、これをやればオーラを見易くなるとのこと。試しにヘンデスさんに絶で気配を消してもらったところ、楽にそのオーラを捉えることが出来てしまった。
 一ヶ月弱で一気に基本の練から応用技を二つ習得した俺に課せられたのは、発という俺だけの技の開発だった。
 まずは系統を調べる。これは、水の入ったコップに向けて練をして判別する水見式という方法を取った。現れた変化は、具現化。小さな小さな埃のようなものがコップに浮かんだのだ。無から有を生み出してしまう不思議を問うたところ、無ではなくオーラを物体として生み出す具現化系特有の力だとの答え。
 本当は放出系が良かった。逃亡生活という事を考えれば、移動系の能力が一番良い。が、残念ながら俺は放出系と相性が悪く、取得するのにかなりの時間と労力がかかると言われれば諦めるしかない。仕方なく具現化系という能力の範囲内で発のイメージが出来上がった頃だった。

 俺とアリスの九回目の誕生日がやって来た。

「うそ?」

 午後から外出していたヘンデスさんが帰宅した。甘い匂いをまとい、その手には世界的に有名なお菓子屋さんの名が入った大きな箱を持って。あまりに似合わないその姿に、喜ぶより先に疑念が浮かんでしまった。

「本当にヘンデスさん?」
「どういう意味だ、ルーク」

 練をした状態で身構えた俺に、ヘンデスさんは溜め息を落とす。

「姿形を変えられる念能力者がいてもおかしくない」
「まあ、そうだな。だが、甘い」

 目で追いきれない動きで拳が振り上げられる。次いで頭頂部に拳骨が落とされた。練をしていたから痛くはないが、気分的に頭をさする。

「わーい! ケーキだ」

 隣のがらんどうの部屋で瞑想していたアリスが飛び出してきた。無邪気にヘンデスさんの手から箱を奪い取り、机に置いて蓋を開ける様子に、思わず出るのは苦笑い。
 どんな意図かは分からないし、ケーキを買った金の出所が気になるけれど、喜んでも良いよな。母さんが生きていた頃皆で食べたいと話していたお菓子屋さんのケーキだし。それに今日は誕生日。こんな日にヘンデスさんと言い合いなんてしたくない。
 高い声を上げてはしゃぐ妹をもう一度眺めてからヘンデスさんを見上げた。

「疑ってごめんなさい。ケーキ、有難う」

 多分、自然に笑顔が出ていたと思う。素直に感謝の意を示したことが妙に気恥ずかしく、そのまま小さく頭を下げてすぐアリスの元に走った。

「お兄ちゃん! 見て見て。苺のショートケーキ!」
「うわ、本当だ」

 箱にはホールで苺のショートケーキが収まっていた。甘い匂いが食欲を刺激する。
 前世では、こんなの"普通"だったのに。そんな感慨が知らず湧き出て苦笑い。当たり前の幸福を、二度目の人生でしっかりと噛み締めた。

 普段より少し具が多めのスープに、パン。それからなんと骨付き肉が夕食に出てきて、普段よりアリスが興奮していた。珍しく自分からヘンデスさんに話しかけ、ヘンデスさんの方も無表情ながら場を壊すような冷たい返答は避けている。
 そんないつになく和やかな晩餐を終えて三人でホールのケーキを分け合った。アリスはその間ずっと笑顔を絶やさず、俺もつられてずっと笑っていた。
 しかし、楽しい時間程過ぎるのは早いもの。一年分の笑いの余韻に浸りながらアリスと一緒に布団に入れば、久々の満腹感故か、それとも幸福感故か、すぐに俺は眠りについた。

 そして、次の日。目を覚ませば、隣にいるはずのアリスが、忽然とその姿を消していた。


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