殺意



「ヘンデスさん!」

 アリスの不在を知って、眠気は吹き飛んだ。慌てて寝間着のまま居間に飛び込めば、悠々と椅子に腰掛け、煙草をふかすヘンデスさんが目に入る。

「騒々しい」
「そんな事よりアリス知らない!?」

 煙を吐き出し、煙草を灰皿に押し付ける。そんな余裕ぶった仕草に焦燥だけが募った。ゆっくりと視線が俺に移り、眉をしかめたヘンデスさん。

「棒はどうした。いつも背負っていろと言ったはずだ」
「そんな事どうでも良いからアリスが!」
「どうでも良くねえ! 今ゾルディックが襲ってきたらどうすんだっ! それが甘いって言ってんのが分かんねえのか糞餓鬼が!」

 気迫のこもった一喝だった。負けずに俺も怒鳴り返す。

「甘くて悪いか! アリスがいない事の方が重要なんだよ! どうせまたヘンデスさんが余計な事言ったんだろ!」

 それしか考えられなかった。
 だから、ヘンデスさんが発した言葉の意味が理解出来なかった。

「アリスは売った」

 泥棒で手に入れた品物を売り捌いた時のような、何の気負いもない口調だった。

「売った?」

 興奮が嘘のように冷めていく。把握しきれない現状を、上手く受け止められなかった。理解出来ないから、戸惑うしかない。

「ああ、売った。良い値で売れた」

 平坦な声。良い値って、アリスは物じゃないのに。
 ゆっくりと、少しずつ頭の中で事実が形を成していく。併せて腹の底から沸々と、静かに、着実に、冷たい怒りが溜まっていく。

「何で?」

 もう声は震えていなかった。ただ、正面からしっかりとその黒い瞳を見詰め返した。どんな嘘も誤魔化しも許さない、そんな強い意思をこめて。
 ヘンデスさんは端から誤魔化す気もなかったのか、淡々と理由を口にする。

「もうすぐゾルディックが来るだろうからアリスを逃がしたかった。まあ一時凌ぎにしかならんだろうが、俺の元にいるより長生き出来るだろう」
「アリスは俺が守る」
「ゾルディックを甘く見るな」

 甘く見ているつもりはなかった。だって俺は未だヘンデスさんに勝ててもいない。そのヘンデスさんが使用人をやっていた暗殺一家の一員。俺が平和な八年を過ごしていた間、ずっと訓練をしていたのだろう。子供だから、なんて理由で侮れない。

「でも、俺だって少しは強くなった。念も覚えたし」
「アリスはまだ精孔さえ開けていない」

 ぐっと奥歯を噛み締める。ならば無理矢理にでも精孔を開くべきだったのか。あんなに苦しい思いをアリスにも味合わせるべきだったのか。そうすれば、今もアリスは俺の横にいてくれたのだろうか。
 どうすれば良かったというのだろう。俺は、選択を間違えた?
 ともすれば際限なく自己嫌悪に陥りそうな思考を、ある考えが吹き飛ばす。

「最初から、そのつもりだった?」
「どういう意味だ?」

 俺と比べてアリスの訓練は緩やかだった。少しずつ強くはなっていたが、その速度は無理のないもの。アリスの精孔を無理矢理開くことに反対すれば、渋ったもののヘンデスさんは俺の我が儘をきいてくれた。

「いつから、アリスを売ろうと考えてたの?」

 ふむ、と顎を撫でて思案するヘンデスさん。あまり時間はかからなかったと思う。不意に視線を上げて、口を開いた。

「アリスの精孔の開き方を決めた頃合いだな。半年で最低限念を覚えなければ、ゾルディックから逃れることは不可能だろうから売るつもりだった」

 やっぱり、そんな諦念と共に言いがかりをつけたくなる。

「最初からそれを言ってくれれば」

 そしたら、無理矢理にでもアリスに念能力を教え込んだのに。そしたら、こんな後悔をしなくて済んだ。

「だが、その分お前のやる気が上がった」

 思い起こせば、確かにその通りだった。アリスの分も頑張らねば、その一心で一層辛くなった訓練を耐え抜いた。けれども、無理だった。納得なんて出来るはずがなかった。

「ヘンデスさんはさ、何でそういっつも」

 一旦視線を伏せる。分からない。確かに底知れない怒りが渦巻いているのに、何故涙が出てきそうになっているのか、分からなかった。
 大きく息を吸い込み、溢れ出そうな涙を引っ込める。代わりに出てきたのは、渇いた笑いだった。自分の感情の流れが、うまく掴めない。

「俺に何も言ってくれないの? 相談くらい、してよ。そしたら俺だって色々解決策、考えたよ?」

 いつもいつも、ヘンデスさんはいつだって自分が最善だと信じた道を迷わず選ぶ。そこに俺やアリスの判断なんて欠片も含まれない上に、俺たちの感情を利用する。だから、俺はヘンデスさんが無性に憎くてたまらなくなるんだ。

「アリスの許可は得ている」

 堂々とした返答に、時が止まった気がした。頭は動揺しているのに、反射的に発した声はしっかりとしたものだった。

「いつ? どういう説明したの?」
「一ヶ月前。アンが死んだ事を告げた時に。細かい事情は話していない。ただ、生き抜く為に必要なことだと」

 そんな説明で果たしてアリスは頷いたのか。
 声なき疑問に、ヘンデスさんは答えを与えてくれた。

「ルーク。お前が絶対に迎えに行くと言えば、アリスはすんなり頷いたぞ?」

 脳裏に浮かんだのは、公園で交わした約束。妙に明るい表情で、真剣な瞳で、アリスは俺に迎えに来いと言っていたではないか。何故俺はあの時におかしいと思わなかった。突然言い出すにしては、不自然ではなかったか。
 ああ、思えば昨日だって予兆があった。ヘンデスさんが買ってきたケーキ。いつになく饒舌だったアリス。俺にずっとくっついていたのは、別れを惜しんでいたのか。
 全てが一つに繋がる。だが、今更気付いても遅いことばかりだ。深く息を吐き出す。苦しくて辛くて溜まらないのに、不思議と聞くべき事柄だけはしっかりと認識していた。

「そっか。それでアリスを何処に売ったの?」

 結局どうでも良かったんだ、アリスを売った理由なんて。たとえどんな理由でも納得出来ないんだから。

「聞いてどうする気だ?」
「迎えに行く」

 何故そんな当たり前の事を聞くのだろう、と疑問が浮かぶ。

「駄目だ」
「ヘンデスさんには関係ない」

 冷たい口調になった。
 だって、もういいんだ。もう、ヘンデスさんと共には居られない。それが分かったから、もういい。
 多分、信じたかったんだと思う。一欠片の良心。悪い人だけれど、同じ人間なのだから理解出来る部分もあるのだと信じたかった。時折見せる優しさが、温かい感情の表れなのだと信じたかった。俺やアリスに少しでも愛情があると、細い細い一筋の絆があるのだと、信じていたかった。
 けれど、もう無理だ。人を売るなんて絶対に受け入れられない。アリスを物みたいに扱うなんて、耐えられない。

「もういいよ、ヘンデスさん。父親との約束なんて守ってくれなくていい。アリスの居場所だけ教えて」

 アリスと一緒ならば死ぬのも怖くはないかな、なんてぼんやり考えた。アリスが売られた先でどんな目に合うのか分からず不安に苛まれるくらいなら、一緒に死んだ方がきっと良い。アリスがいないと、多分俺は駄目なんだ。
 ヘンデスさんは深く息を吐き出し、新しい煙草に火を付けた。

「生き残れたら教えてやる」

 ああ、何も伝わってないんだな。そう悟ってしまった。やっぱりこの人にとって重要なのは約束で、俺の感情なんてどうでもいいんだ。ただ、生を保障すれば良いと思っている。
 ふと、ある考えが浮かんだ。きっと合っているだろう、と根拠もなく思う。それを口に出したのは、確認の為でなく、彼の無慈悲さを言葉で表したかったからだ。

「アリスの生の可能性がほんの僅か高まる。俺もアリスを迎えに行く為に今より必死に生き残ろうと努力する。お金も手に入る。一石三鳥を狙ったってところなのかな?」

 諺の意味を理解出来なかったのか、ヘンデスさんは不思議そうに少し首を傾げながらも頷いた。

「まあ、そんなところだ」

 少しずつ量を増した感情が、胸の内に形を成した気がした。何物にも動じない、揺らがない、凍てついた怒り。それに新たな名を付けるとしたら。

「どうしよう、ヘンデスさん」

 口端が醜く歪む。ちっとも面白くなんてないのに、大声で笑い出したい気分だ。少しだけ、アリスを傷付けたあの少年の奇異さを理解する。彼も、こんな気持ちだったのだろうか。頭の中はかつてない程冷静なのに、気分だけが高揚している。

「俺、あんたを殺してやりたい」

 わきだした殺意を言葉にして認めてやれば、かつてない心地好さを感じられた。この世界に生を受け、殺意を覚えたのは二度目のこと。初めては母さんを殺した少年に。あの時は一時的なものだった。勿論母さんを殺されたことへの恨み辛みは一生消えることはないだろう。けれど、あの時はアリスがいた。アリスを守るという使命感の方が大きくて、そしてまだヘンデスさんを信じていられた。
 今は違う。信じていたかったヘンデスさんがアリスを売った。裏切られた、と感じてしまう。勝手に期待して、勝手に傷付いて、馬鹿みたいだ。それでも、信じていたかった。

「良い傾向だ」

 殺意をこめた眼差しに、ヘンデスさんは満足そうな笑みを見せる。再び勢いを増し渦巻く殺意に、際限はないのだと悟る。

「さっきの話にもう一つ付け加えるなら、お前の甘さを払拭したかった。今のお前は人を殺せない。その甘さは確実に死に繋がるだろう」

 まるで俺の為に全てをしてやったかのような言い種だった。まあ、ある意味合ってるんだろうけれど。ただ俺の望む手法と違ったってだけで。

「一ヶ月前、あの子を殺してたら何か変わった?」

 殺したか、と尋ねたヘンデスさん。否定した俺に、落胆していたのかもしれない。

「かもな」

 煙を吐き出しながら、気のなさそうな素振りで言葉を返してくる。どうでもいいんだろうな、そんなこと。既に終わったことだから。
 ここにきて、ヘンデスさんの忠告に従わなかったことを一つ、後悔する。何故俺はさっき素直に凶器を取りに戻らなかったのだろう、と。まあでもあれを持ってたらスピード落ちるから素手で良いか、と結論付けた。空の両手を開いて握り絞め、それを数回繰り返して意思の通り動くことを確認する。大丈夫。きちんと動く。きちんと殺せる。血を流しぴくりとも動かないヘンデスさんを脳裏に思い浮かべながら、左足で地面を強く蹴り付けた。


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