殺人



「ここだ」

 同じ地区の、一番治安の悪い辺りに位置するぼろアパートを下から見上げる。
 散々傷めつけられた割りに、手足は自由に動いた。まだまだ手加減されていたのだろう。それが分かるからこそ怒りは増し、腹の底でたゆたう殺意は未だ消えないままだ。けれど表向き従順に動くのも、未だヘンデスさんに敵わないと力で知らしめられたから。
 それでもいい。ヘンデスさんに付いて行き、生き残り、アリスを迎えに行ってやる。ヘンデスさんを殺すのはそれからでいい。消えてくれないどろどろとしたおぞましい決意が、身体を突き動かす。

「本当に賞金首なんだよね?」

 それでも確認しておきたかった。
 今回の課題は、人を殺すこと。相手も人殺しで、公的機関に引き渡せば金を貰える賞金首らしい。逃亡生活中、足がつく可能性が高いから金は手に入らない。けれど、相手が悪人の方が俺の抵抗も幾らかは減る。

「ああ。四階の一番奥の部屋だ。家にいるはずだから行って来い」

 まるで近所にお使いを頼むかのような、軽い口調だった。目を合わせる事すら億劫で、小さく頷き歩を進める。
 気配を消せる絶はしない。相手は念能力を知らないただの犯罪者だと聞いたから。此方が念をつかう必要もないだろう。
 背に負った棒を手に持ちかえ、空いた片手でこつんと軽くドアを叩く。

「すみません!」

 声を張り上げれば、ドアの奥から足音が近付いてきた。
 準備をしなくては。妙に冷静な思考に従い、棒を持った左手を背中に回す。深く息を吐き出す。これから行うべきことをイメージする。

「誰だあ?」

 妙に間延びした口調で発せられただみ声。覗き穴がないって犯罪者に都合が良いな、と思いつつ口を開く。

「猫が逃げちゃったんです。この部屋のベランダにいないか確かめても良いですか?」

 すらすらと、動揺なく嘘をつけた自分に感心した。今なら詐欺師になれるかもしれない。そんな場違いな考えを巡らせている内に、ゆっくりとドアが開く。残念ながらチェーンは付いていたらしい。少しだけ開いた隙間から姿を見せた男は髭を生やした黒髪の男だった。特徴が一致したことを確認して、笑みを作る。朗らかに、いかにも無害そうな、アリスみたいな笑みをイメージして。

「本当にすみません。ちょっとだけ、良いですか? すぐ出て行きますから」

 男は油断なく視線を周囲に飛ばして他に人がいない事を確認したようだった。
 緊張で唇がからからに乾いている。脳みそが沸騰したかのように、血が昇っている。
 もし駄目だったらどうしよう。ドアを破壊する、は駄目だ。音が大きすぎてもし誰かの注意を引いたらまずい。ドアを閉められる前にチェーンを千切る。これが良い気がした。ドアを簡単には閉められないよう、ストッパーにするべく右足を出す心の準備をする。まるで悪徳商法だ、そんな事を考えて思わず笑みがもれた。悪徳商法の方がましだったから。俺は、今からこの人を殺すんだ。
 ちょっと悩むように部屋の奥をちらっと振り返った男は、おもむろにチェーンを外しドアを開けた。

「ほらよ」

 声を掛けられるまで放心していた。放心していることにも気付かなかった。

「あ、有難うございます」

 吃りそうになりながらも礼を述べ、恐る恐る一歩踏み出す。
 上手くいって欲しいと思っていた。それなのに、何でだろうな。実際上手くいったら、恐怖がわいてきた。ちらりと見せられた信用が、此方の決意をじわじわと溶かそうとしているようで、すごく怖い。やめて、と叫びたくなる。俺はあんたを殺そうとしてるんだ、と告白したくなる。犯罪者なら他人をすんなり部屋なんかに入れるな、と勝手に憤りを感じてしまう。

「どうした?」

 掛けられた声に、心拍数がかつてない程に上昇した。笑みを作ろうと努力しながら見詰めた先、男は不思議そうに首を傾げている。

「あ、の。さっき他の人は話も聞いてくれなかったから」

 背中に隠し持った棒を握る左手に汗が溜まり、危うく落としそうになった。身長より少し短いくらいのそれは、身動ぎすればすぐに男に見咎められるだろう。気付かれないよう、慎重に握り直す。
 そもそも、左手を後ろに隠すという行為は怪しくはないだろうか。そんな今更な疑問がわいた。もっと警戒しても良さそうなものなのに。確かに俺だってあんまり距離を詰めないように、背中に隠した物を見られないように気を使ってはいるけれど。
 もしかしたら全て知られてしまっているのかもしれない、そんな危惧が持ち上がる。今すぐ危害を加えられるのではないか、と恐れが生まれる。
 おずおずと反応を伺えば、賞金首の男は黄ばんだ歯を見せて笑った。

「そうかそうか。この辺の奴らは皆気が荒いからな。坊主も気付けろよ」

 悪意の欠片もない、自然な笑みだった。

「なん、で」

 そんな風に明るく笑うのか。俺を警戒しないのか。
 男は考える様子もなく、軽く答えた。

「猫好きに悪い奴はいねえのよ」

 軽く頭が混乱した。
 そんな理由で他人を信じてしまうのか。犯罪者なのに。本当にこの人は人殺しなのだろうか。
 疑問がぐるぐる回り、一瞬にして気付いてしまった。この男は確かに殺人者かもしれないけれど、俺はこの人に危害を加えられたわけではないっていう当たり前のことに。お互い、一つの情報以外何も知らない。俺は、彼が殺人者だという情報。彼は、俺が猫好きだという嘘の情報。そのたった一つの情報で、彼は俺を信用した。なら、何故俺は彼を殺そうとしているのだろう。
 ヘンデスさんに命じられたから。なら何故従う。人を殺す覚悟をもち、暗殺一家の追っ手から生き抜き、アリスの居場所を聞き出す為に。果たしてそんな理由で人の命を奪って良いのだろうか。俺にとっては軽い理由ではないけれど、それは人殺しを正当化するに足る価値があるのか。
 全てが揺らぐ。さっきまでヘンデスさんへの殺意で興奮していた頭が、冷静さを取り戻してしまう。無理だ、と悟ってしまう。
 俺は、この人を殺せない。

「ごめんなさい」

 咄嗟に口をついたのは、謝罪だった。次いで既視感に襲われる。こんな場面を俺は以前にも経験した。初めて盗みに入った家。帰って来た住人に見付かり、謝罪をして。

「ああ、と」

 短い謝罪に此方の正体を察したらしい賞金首の男は、殴りかかっては来なかった。代わりにぼさぼさの頭を掻く。

「坊主は俺の事、知ってんのか?」

 のんびりとした口調だった。小さく頷く。

「猫の話は嘘か?」

 また、頷いた。俺は猫を飼っていないし、特に好きでもない。けれど猫の話を利用したのは。

「妹が、猫好きなんだ」

 アリスが好きだった。前世で飼っていたらしい。不思議とアリスは飼い猫の事だけはよく覚えていた。白に茶毛の混じった雑種の猫。今は飼えないけれど、いつか飼いたいと目を輝かせて語っていた。

「アリスに会いたい」

 ぽつりと溢してしまった呟きに、男は目を見張る。

「俺がお前の妹を殺したのか?」

 思いもかけなかった疑問に、反射的に首を振った。

「アリスは、生きてる」

 答えながらも頭の中では別の考えが巡っていた。考えになかったけれど、当たり前のことだ。殺人者の前に現れた怪しい人物。それは復讐者であってもおかしくない。そして俺がもしこの人を殺したら、誰かを殺したら、その人を大切に思う誰かが俺を殺しに来るかもしれない。そんな当たり前のことに漸く気付き、恐怖が増していく。人殺しは嫌だという当たり前の感情が戻ってくる。
 男はふむと顎を撫でて、だよな俺最近殺してねえし子供は殺んねえし、と人殺しを肯定するような台詞を呟く。やっぱりこの人犯罪者なんだ。それなら殺されても因果応報なんじゃないか。感情が揺れ動く。

「じゃあ俺を殺せば坊主は妹に会えるのか?」

 男の出した結論に、ちょっと悩んだ。別に殺せば会えるわけではない。人を殺す覚悟を持てば、少し生き残る確率が増えるだけ。けれど僅かでも確率を上げなければ、永遠にアリスに会えない。約束を、守れない。
 迷いながら頷けば、男は片手で頭をぐしゃぐしゃに掻き回してからおもむろに頷いた。

「しゃあねえな」

 真っ直ぐな視線に射抜かれる。

「じゃあ、殺し合いだな」

 朗らかに笑いながら、ポケットからナイフを取り出す。空気が変わったことを、肌で感じ取る。もう後戻り出来ないのだと知る。

「今俺が此処から消えたら、全て丸く収まらない?」

 それでも足掻いたのは、殺す覚悟が既に揺らいでいたからだ。戦えば、俺が勝つ。彼を、殺す。結果が分かっているからこそ、戸惑いが消えてくれない。俺はこの人を殺したくない。人殺しになりたくない。
 男は不機嫌そうに眉をしかめて口を開いた。

「ああ? お前が妹に会いたいってえ気持ちはその程度なんか? ならとっとと帰れ」
「違う!」

 反射的に上げた声に、男は満足そうに笑みを浮かべる。

「なら良いじゃねえか。生憎と俺も殺される気はねえからな。やるんなら全力で殺るぜ?」

 何故だろう、と思う。何故彼はこんなにも人らしいのだろう。もっと人でなしならば良かった。感情のない暗殺者の少年のように、頭のいかれたあの少年のように、ヘンデスさんのように、人でなしならばこんなに罪悪感を覚えることはなかった。そんな、身勝手過ぎる憤りを抱きながら、背に隠す意味の無くなった凶器を胸の前に構えた。ともすれば震えそうになる腕に力を込め、視線を上げる。
 何で俺は、この人を殺そうとしているのだろう。
 疑問を持ちながらも、迫ってくる刃物に反応した身体は勝手に動いた。棒の真ん中を持った左手を少しだけずらす。右手で支えながら長い方を右上空に振りかぶった。部屋の中だから、あまり振り回せない。そんな不便さからヘンデスさんには素手でいけと言われたのだが、譲れなかった。
 一瞬の内に懐まで飛び込んで来た男の頭目掛けて、罪の象徴を斜めに振り下ろす。直線的な動きだけれど、俺と彼の間には圧倒的な力の差があって、スピードを付ければ避けられない。刃物が此方に刺さる前に振りぬく。
 一瞬のことだった。手に走る確かな感触。1トンの重さを受け、ぐちゃりと脳みそが弾け飛ぶ。上から降って来た肉の塊をもろに被る。つい先ほどまで喋って動いていた人が、肉の塊に変化する。重い鈍器で頭を叩いただけ。それだけで、彼は死んでしまった。

「こんな、簡単なんだ」

 呆気ない生の終わりに、唖然とする。自らが成した行為の結果に、恐れが沸き上がる。
 証明してしまったのだ。俺は軽々と人を殺せる強さを持っているのだと。必要なのは、足りなかったのは殺す意思だけだった。そこに覚悟なんて必要ないのだと知る。覚悟とは、罪悪感に押し潰されそうになった時に、自分を支える為に必要なものだ。殺すだけなら、その意思があるのなら、きっと誰にだって出来る。

「もう、無理だ」

 いつだって胸の内に抱えていたもやもやが、はっきりと形を成す。盗みを働いた時点で分かっていたことを、ここにきて再確認した。俺はもう、二度と"普通"には戻れない。戻ることは許されない。俺が許さない。

「アリス」

 無性に悲しくなって、すがるようにその名を口にした。

「会いたいよ、アリス」

 傍にいて欲しかった。人殺しだと罵られても構わない。嫌われてもいい。ただ、その存在を感じなければ、自分が人でなくなってしまう気がした。

 屍はそのままに、勝手に拝借したタオルで顔と凶器を綺麗にしてからヘンデスさんの元へと戻った。アパートの入り口近くの壁に背を預けていた彼は、俺に気付き小さく笑みを溢す。

「良い面になったな」

 それで褒めているつもりならば、神経を疑う。

「殺ったよ」

 短い報告。服に付いた血痕から、俺の態度から察していたのだろう。軽く頷かれて、それで終わった。人を殺したというのに、それだけだった。
 問い掛けたかった。本当に人を殺す必要があったのか。いつかのように犯罪を目撃されたわけでもない。ただ、甘さを削ぎ落とす為。そんな理由で人を殺して良かったのだろうか。口に出さなかったのは、もう遅いから。殺してしまったから。
 今更震え出しそうになる手足を押さえ付け、ただヘンデスさんの後を追う。吐き気が襲ってきたけれど、無理をして平静を装った。ヘンデスさんの前で取り乱したりなどしたくなかったから。ただ、その後ろ姿を殺気をこめて睨み付ける。
 一つ、気付いた。甘さが無くなかったどうかは分からない。けれど、きっと俺は人として大事な感情を無くしてしまった。だって人を殺してしまったというのに、殺す前はあんなに戸惑いを感じていたのに、罪悪感が沸かないのだ。悲しくて辛いけれど、何処か遠いことのように感じている自分がいる。悲しいのに辛いのに、涙が出る気配は無い。ただヘンデスさんへの殺意だけが、確かなものだった。

 暗い部屋に帰り付き、すぐに荷物を纏めるよう言われた。いつも寝ている部屋に行く。今更気付いたが、アリスの服が全て無くなっていた。髪をとめるゴムも、気に入っていたタオルも、僅かなアリスの私物は全て。
 たった一つ、残っていたアリスと俺を繋ぐもの。今朝気付かなかったのが嘘のように、それは存在感を持って床に落ちていた。ちょうど、俺が寝ていた場所。頭の上辺り。
 そっと拾い上げてページを捲る。新しいノートに入ったばかりだった為、すぐに目的のページを探し出せた。
 交換日記は、ちょうどアリスの番だった。

『お兄ちゃんへ
今日はすっごくすっごく楽しかったよ。私ね、お兄ちゃんのこと大大大好き! だからね、ちょっとはなれても気持ちは変わらないからね。お兄ちゃんも私のこと忘れちゃダメだよ。ぜーったい迎えに来ること! 約束、信じてる。あいつに任せるのはすっごくムカつくけど、お兄ちゃんも元気でね。
あと、私もうそついた。ごめんなさい。ずっと一緒にいるって言ったのにごめんなさい。だから、お兄ちゃんがどんなうそついても許してあげる。迎えに来てくれたら、それからはずーっと一緒だからね。今度こそ約束!
じゃあ、またね。

アリス』


 読み終えて漸く、俺はヘンデスさんの言葉の意味を知った。アリスに夢を与えるのは、俺だと。夢とは、未来への約束のことだった。
 ならば、それならば、俺も夢を見て良いだろうか。アリスに与えられた約束を、夢見ても良いだろうか。アリスと共にある未来。それは、ひどく甘美で、永遠に手に入らない幻想のように思えた。


| |  

 

 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system