その日は、起きてからまず手を合わせて黙祷を捧げた。
母さん、俺はまだ生きてます。アリスもきっと生きてる。絶対に迎えに行くから、それまでアリスを見守っていて下さい。
心の中でそう祈った。
今日は、母さんの二回目の命日だ。
アリスが売られてしまった九歳の誕生日から一年と少しが経った。俺は十歳になり、少し背が伸びた。
棒術も少しは上達している。1トンの重さのあるそれを、楽々と扱えるようになった。ヘンデスさんのスピードにも付いていけている。最近はヘンデスさんに手加減されないようになってきて、大きな怪我が増えたけれど、やっぱり嬉しい。
そして念能力の方は必殺技である発が完成した。まだまだ付加能力は発展途上ではあるが、初めてそれを具現化出来た時は本当に嬉しかった。早くアリスにも見せてやりたい。きっと我がことのように喜んでくれるだろう。不思議とアリスを思い出す時に浮かぶ彼女はいつも笑顔だ。早く、今すぐにでも会いたい。
だが、未だにゾルディックの少年は姿を現さない。早く来て欲しいと焦れる気持ちがある。同様に、まだ強さが足りないからもう少し待ってくれという気持ちもある。アリスを迎えに行くことと、生き抜くこと。どちらがより大事かなんて比べられないし、生き抜くことが大前提である事は重々承知しているのだが。それでも、最近は焦燥の方が大きい。もうゾルディックは俺達のことを諦めたんじゃないだろうか。そんな都合の良い考えが浮かぶのに、一年という月日は充分な長さを持っていた。
「ねえ」
母さんへの黙祷を終え、居間に行く。
どんな場所に引越しても居間の椅子はヘンデスさんの定位置だ。そこが玄関からの侵入者に最も狙われ易い場所だから。母さんを殺しに来た少年も玄関から入って来たことだし、ヘンデスさんが警戒しているのはいつも玄関だし、ゾルディックの人間は殺しに行く時は正々堂々玄関から、なんて掟があるのかと疑問に思う。
「なんだ?」
愛用の銃の手入れをしながら億劫そうに返事をするヘンデスさんを横目で眺めながら、台所の床に纏めてある袋からジュースの缶を取り出す。蓋を開け、何気ない口調を心掛けながら僅かな希望を口にした。
「ゾルディックもさ、諦めたんじゃないの? もうあれから二年経つし」
母さんが死んでから二年。疑念を表に出すには、丁度良い日だと思えた。それでも反応が怖くて、明確な答えを聞いて希望を失うのが恐ろしくて、そんな弱気な自分を誤魔化す為にジュースを口に含む。
「それは無いな」
簡潔な返答に、やはりな、と諦める自分を認めてしまった。本当は分かっていた。ただ、都合の良い妄想をしてしまっただけだ。溜め息と一緒に愚かな考えを吹き飛ばそうと努力する。
「ゾルディックが獲物を逃がすことは有り得ない」
淡々とした語り口だったのに、見てしまった。遠いところに視線を飛ばし、どこか誇らし気に口元を綻ばせるその姿を。
「二年前は逃げられた」
何故か悔しくなり、ヘンデスさんの方があの子より強かったじゃないか、と暗に口にする。
「俺は所詮捨て駒さ。ゾルディック家の次期当主になるかもしれない方に念能力の存在を教えさせる為の。念を覚えた彼には到底及ばない」
念押しのように告げられた台詞に、心にさざ波が立った。
その言い方じゃあ、まるでヘンデスさんがゾルディックに敬意を持ってるみたいじゃないか。確かにヘンデスさんはゾルディック家の元使用人だけれど、あそこが居場所のような言葉を聞いたこともあるけれど。そこを捨て、俺達を選んでくれたんじゃなかったのか。
うまれた憤りを、ジュースをもう一口含むことで何とか押さえ込む。ヘンデスさんの感情なんかどうでも良いことじゃないか、そう言い聞かせる。
「へえ。捨て駒か。ゾルディックってかなり残酷なんだね。逃げた使用人すぐに殺さず利用してその挙げ句に殺す、なんてさ」
けれども嫌味な台詞が出てきたのは、やはり許せなかったからだ。ゾルディックを憎んでいない様子のヘンデスさんが。
「彼らにとって我々など気にかける存在でもないさ」
それが当然であるかのような口調だった。批判すべきことでもないかのような言い種だった。
無性に悔しさが襲ってくる。それならば、何故あんたは。
「それでもゾルディックが憎くないの?」
激昂することはなかった。アリスがいなくなってから、激しい感情が胸に渦巻いても、それを表に出すことはない。ただ、静かに、表情が凍り付いていくだけ。
「何故だ?」
予想もつかなかったと言いた気な、本心から不思議そうな声音だった。その反応に此方が呆気に取られながらも、何かがおかしいと感じ始める。俺は、もしかして勘違いをしているんじゃないか。そんな不安が頭をもたげてくる。
「母さんを殺した、し。あ、母さんはどうでも良いかもしれないけどさ。父さんのことは大切に思ってたんでしょう?」
「誰に聞いたんだ、そんな話」
はっきりと眉をしかめるその姿に、疑念が深まる。ヘンデスさんは父親を可愛がっていたんじゃ、そこまで思い出して気付いてしまった。恐る恐るその単語を口にする。
「母さんに、だけど。違うの?」
耳に届いたのは大きな溜め息だった。
「アンに嘘吹き込みやがって。あいつは本当に」
どうしようもない奴だ、そう呟きながらもいつになく穏やかな表情を浮かべるヘンデスさん。混乱が深まっていく。
「話はした方だと思うがな。あいつが何を考えていたのたか、俺のことをどう思っていたのかさえ何も知らないな」
肩をすくませながら吐き捨てる様子に、正体の掴めないもやもやが溜まっていく。
「なら何で約束したの?」
「ムカついたからだな」
返された内容は、予想とは全く違うものだった。もっと心温まる話を期待していたのだと思う。せめて父親に関しては人間らしい感情があって欲しかったのだと思う。それを否定されたと感じる反面で、確かにヘンデスさんは父親と繋がりがあったのだと、その事実を嬉しく思う自分もいた。
相反する感情がせめぎ合う中、ヘンデスさんは少し間を置き、やがてそれを口にした。
「あいつは俺に全部託して勝手に死にやがった」
ヘンデスさんの顔色を伺おうにも、僅かに反らされた顔は振り返る気配をみせない。正面に回り込むことも躊躇われて、結局突っ立ったまま疑問を口にした。
「ヘンデスさんが殺したんじゃなかったの?」
漠然と、そう考えていた。駆け落ちを反対したヘンデスさんは、ゾルディック家への忠義で父親を殺し、父親への情から母さんを逃がしてくれたのだと。はっきりと言葉にした事は無かったが、母さんも同様に考えているようだった。いや、そう考える母さんの話しか聞いてないから同じような結論に至るのか。真偽は分からないが、その考えが間違っていたことだけは確かであるようだった。
「いや。自殺する気概があるなら自分で家族守れって話なんだが。腰抜けにゃ無理な話だったんだろうな。あいつに比べりゃアンはよっぽど上等だ。現実を見てなかったが、親としての役目は果たそうと努力してた」
自殺。はっきりと言葉にされ、流石に言葉に詰まる。
「な、んで。自殺なんて」
父親の考えが欠片も理解出来ない。何を思って死を願ったというのか。子供達には生を願っておきながら、何故自分だけ。
「あいつはあそこで執事として育てられ、外の世界を殆ど知らなかった。結局アンと二人で子供守りながら外で生きていけるなんて欠片も思ってなかったんだろうよ」
「なら何で駆け落ちなんかしようとしたんだよ」
「本当にな」
深く嘆息する気配。
分からない。欠片も分からない。見た事もない父親の考えが。
「だが、いつも適当に生きていたあいつが、女の為に命懸けて一生に一度だけもがいてみせたのは確かだ」
「それが自殺? 約束はしなかったの?」
「約束さ。奴が勝手に約束しやがって、俺の返事も聞かず勝手に一人で満足して死にやがった」
最低じゃないか。そんな感想が頭に浮かぶ。
「で、全部ヘンデスさんに放り出して死んじゃったんだ。随分信頼されてたんだね」
皮肉を言わなきゃやってられなかった。そうしなければ、胸の内にわきあがる嫌悪感に囚われてしまいそうだった。
止めて欲しい。父親だけは、汚されたくなかった。良い人だと思っていたかった。誤解したままでいたかった。そんな都合の良い考えを持ってしまう自分への嫌悪感。結局俺はそんな最低な人間の息子なんだ。無意識に父親をこき下ろし、責任を押し付けたくなる自分への嫌悪感。本当、嫌になる。
「『あんたに任せたら安心だから。俺、満足して死ねるよ』」
ヘンデスさんらしかぬ口調に、視線を上げる。
「そんで本当に死んじまった。ムカついたな、あの時は。俺なんかを信用して、勝手に約束押し付けやがって」
不思議だった。それでも、約束を守ろうとしてくれるヘンデスさんが。
「何で、そんな人の子供守ってくれてるの?」
「言っただろう? ムカついたからだって」
それ以上、ヘンデスさんは口を開こうとせず。結局真相は聞けず終いだった。