独りきり



 母さんが殺されたのは突然だった。何の予兆もなく、何も出来なかった。
 同じ様に、彼は突然やって来た。

 その時は念能力の訓練をしていた。応用技の一つ、周。物体の周りにオーラを纏わせ、強度を上げる。俺は棒にオーラを纏わせながら、一連の型をなぞっていた。
 先に気付いたのはヘンデスさんだった。同じ部屋で壁に背を預けていた彼が玄関に視線を向けて。次の瞬間空気が変わった。

「逃げろ」

 短い指示に、けれど身体は動かなかった。気付いてしまったから。扉一枚挟んだ向こうにいる、圧倒的強者の存在に。
 鳥肌が立つ。汗が止まらない。足がすくむ。
 敵わない。
 悟ってしまい、死を予感してしまい、ただただ扉を凝視していた俺を動かしたのは、ヘンデスさんの一喝だった。

「ルーク!」

 その大声に肩が震える。そしてやっと自分を取り戻すことが出来た。すっかり周が解け、オーラを纏わない唯の棒となったそれを握り直す。俺の相棒。罪の象徴。不思議とこれがあると思うだけで、頭が落ち着いていく。

「何ぼさっとしてやがる! さっさと逃げろ!」

 一歩一歩此方に近付いて来る気配。恐怖はどんどん増しているけれど、もう手足の震えは止まっていた。
 けどさ、ヘンデスさん。このまま逃げるなんて出来ないよ。

「アリスを売ったところ教えて」

 これを聞かなきゃ、逃げられない。
 ヘンデスさんは呆気に取られたように少し間を置き、やがて小さく笑った。

「上着の裾に縫い付けてある。さっさと行け」

 ヘンデスさんの台詞とほぼ同時に、何かが勢い良く扉に突き刺さる音がした。とんとんとんと連続してそれは響く。一瞬の静寂。足が地面を蹴り付け、一足飛びに窓へと跳躍して手を枠にかけた時だった。ふわりと背後から風が吹く。
 振り返ってしまった。背を見せたら殺られると思ってしまった。
 長方形に切り取られた扉から悠々と現れたのは、あの少年だった。
 俺と同じくらいの背丈、髪はおかっぱくらいまで伸びている。そう、成長は確かに見られるのに、不思議と印象は全く変わらなかった。大きな黒目。感情を宿さないそれが、同一人物だと知らしめている。

「早く行け、ルーク」

 無理だって、そう心の中で返事をする。視線は少年から外せない。凝をして目にオーラを溜めなくても、分かってしまう。俺なんか比べ物にならない。ヘンデスさんより、遥かに力強いそのオーラ。たった二年で。念を知った時期は俺と半年しか変わらないはずなのに。そんな悔しさを感じる余裕が無い程、目の前の脅威に圧倒されてしまった。敵わない。逃げられない。諦めが思考を支配する。

「ルーク。お前は何が何でも生き残って、アリスを迎えに行くんだろう?」

 そこに、ヘンデスさんが少年に全神経を集中させながらも声をかけてきた。
 そうだ、アリスと約束した。逃げなければ。生きなければ。強い意思が湧き上がる。そうして全気力を振り絞って足に力を込めた時。

「逃げるんなら早く逃げれば?」

 淡々とした、変声期前の高めの声だった。一瞬置いて、少年が発したのだと理解する。侮られた、と怒りが湧き上がる。

「逃げてもすぐ捕まえるって?」

 恐怖を怒りにすり替え、何とか発した嫌味だった。嫌味のはずだった。
 少年は不思議そうにこてんと首を傾げる。機械的な動きが不気味で鳥肌が立った。

「何で?」

 疑問で返され、場が硬直する。俺の頭も混乱して、考えて、考えて、出た結論。
 つまり、捕まえる必要がないとか、そんなことが有り得るのか。

「子供は、暗殺対象に入っていないのですか?」

 不自然としか思えない丁寧な口調でその疑問を発したのは、ヘンデスさんだった。

「うん」

 何の気負いもなく、いっそ無邪気といってもおかしくない程に軽く、本当に軽く少年は肯定した。
 ぐるぐる回る。思考が空回る。つまり、俺とアリスはゾルディックの暗殺対象に入ってなくて、じゃあ逃げる必要なんて欠片もなくて、強くなる必要もなくて、何の為に俺は悪いことをして、それで何の為にアリスは売られたんだ。

「二年前、ルークを狙ったのは何故です?」
「ルーク?」

 ぼんやりと会話が耳に入ってくる。少年は、俺の名前も知らなかったらしい。名前に反応して視線を上げれば、無機質な瞳と目が合う。母さんを殺した少年。ヘンデスさんを殺す為にこの場にいる少年。
 何故だろう。心にぽっかり穴が空いてしまったように、感情の在処を忘れてしまったようだった。だってあんなに憎かったのに怖かったのに、憎悪も恐怖もわいてこない。それでも、母さんの心臓を手に握り締めたあの姿は、鮮明に脳裏に浮かんできた。必死に思い出す。記憶と目の前の少年を重ね合わせる。憎め、と命令する。こいつが悪いんだ、と言い聞かせる。でなければ、自分を保っていられなかった。

「ああ。あの時は逃げる隙を作りたかったから攻撃しただけ。びっくりしたよ。仕事始めてから敵わないって思ったの、初めてだったから」
「そうだったんですか」
「うん。でももう念を覚えたから負けないよ」
「はい」

 安心したように相槌を打つ彼は、俺の知らない男のようだった。知らない。知らない。そんな穏やかな顔で、満足そうに微笑む男、俺は知らない。

「良かった。これで約束を守れます」

 勝手なことを言うな、そんな憤りが生まれる。感情が、生まれてしまう。感情の源泉を、目を背けたいそれを、直視してしまう。

「ルーク。何をしても生き抜けよ」

 それは遺言だった。死ぬ気なのだと分かってしまった。一人だけ、勝手に満足して、死ぬ気なのだと。
 爆発しそうになる。アリスがいなくなって以来、何処かに行ってしまった涙腺が刺激される。怒りでも、涙って出るんだな。

「ふざけるな」

 押し殺したような低い声が出た。もう、限界をとっくに越えていた。

「全部全部あんたのせいじゃないか」

 違う。頭では分かっているのに、口から出る言葉は全く別のものだった。

「置いていってくれれば良かったんだ。初めから、生まれてすぐ孤児院にでも捨ててくれれば良かったんだ。そしたらこんなっ」

 母さんの死に目を見ずに済んだ。アリスと離れ離れにならずに済んだ。きっと俺は"普通"でいられた。

「そうかもな」

 違う。分かっているけれど、ヘンデスさんのせいにしなければやってられなかった。そうでなければ、この二年間が全て。

「だが、俺は満足だ」
「もう、良い?」

 挟まれた高めの声は、やはり何の感情も含んでいなかった。

「駄目」

 咄嗟に待ったをかければ、少年は悩んだ風に少し間をおき、けれど一歩下がって譲歩を見せた。
 そのすんなりと退いた様に、力が抜けてしまった。窓に手をかけたままへたりこむ。

「はは」

 何故か笑いがもれた。涙が目尻に滲んでいる。
 どうでも良いのだと分かってしまったのだ。少年にとって、俺のことなど本当にどうでも良い、何の価値もない人間なのだと。二年前に敵として現れておいて、いつだって脅威として俺の頭の隅っこを占拠していた癖に。
 気付いてしまう。正面から認めてしまう。全身から力が抜ける。
 少年を警戒する事を止めたのか、此方に向き直ったヘンデスさんを真っ直ぐ見詰めた。

「全部、無意味だったの?」

 言葉にしたくなんてなかった。肯定して欲しくなんてなかった。ただ、理解して欲しかっただけだ。このやるせなさを。生を確約されたことで得た絶望を。

「そうかもな」

 けろりと肯定され、唇をかみ締める。

「まあ、なんにせよ物事に意味を与えることが出来るのは自分だけだ」

 最もらしい言葉を吐きやがって、そう心の中で毒づく。けれど、口から出たのは別の疑問だった。

「あんたには、意味があったのかよ」

 約束の前提が崩れた癖に、満足そうな彼の真意を尋ねたかった。

「ああ」

 目を細めて、やっぱり彼は満足気に頷いた。

「お前の父親が最期に何を思っていたか、分かった気がする」

 自殺した父親を持ち出され、一瞬怯んだ。

「ルーク」

 真っ直ぐな視線。そこに慈愛が込められていると感じたのは、俺の気のせいなのだろうか。

「ざまあみろ、俺は満足だ。悔しかったら何をしても生き延びてみやがれ」

 口端を持ち上げ悪どい笑みを見せたヘンデスさんは、少年に向かって一礼して。いつの間にか右手に握っていた銃をこめかめに当て。

「ふあ」

 発砲音のあと、少年の発した欠伸がいやに耳に残った。

「終わったよね。うん、死んでる」

 すたすたと淀みない足取りで倒れ伏した男に近付き、その死を確定した少年。機械的な流れだった。そこには何の情も含まれていなかった。
 ヘンデスさん。あんたが心酔していたらしいゾルディックの人間は、こんなに薄情だよ。そう嫌味を言いたいのに、相手の耳はもう機能していない。
 呆気なかった。実に呆気なさ過ぎる幕切れに、唖然と死に様を見詰めるしかなかった。分かっていたはずじゃないか。人は簡単に死ぬっていうこと。分かっていたはずなのに、上手く事実を飲み込めないのは何故なのだろう。

「あ、もしもし。うん。終わったよ」

 短い通話を終えて携帯をしまう少年を、ぼんやりと見詰める。そうか、終わったのか、と理解する。こんなにあっさりと終わってしまったのだと。
 そのままくるりと背を向ける少年にそれでも声をかけたのは、何でも良いから引き留めたかったからだ。終わりなのだと理解していても、まだ何一つとして納得していなかったからだ。

「今更現れたのは、何で?」

 少年は、調子が抜ける程すらすらと答えをくれた。

「忘れてた」

 更なるやるせなさを刺激する答えを。

「金にならない仕事だから後回しにしてたら親父に怒られちゃったよ」

 夏休みの宿題をぎりぎりまで残しておいた子供のような言い種だった。そんな理由で、と拳を握り締める。
 もっと早く来てくれていたら、せめてアリスが売られる前に。そしたらヘンデスさがん一人で死んで終わりになったのに。
 そう、自分に言い聞かせた。本当の気持ちを直視したくなかった。
 なら、一生来なくて良かったのに。
 そんな思いを持ってしまった自分を許せなかった。ヘンデスさんの死を僅かでも惜しんでいる自分を認めたくなかった。
 だって、酷い。自殺とか酷過ぎる。殺されたのなら、この少年を憎むことで少しは救われる。俺が殺したのなら、達成感と共に事実を受け入れることが出来ただろう。けれど自殺なんてされてしまえば、死を惜しむ自分が馬鹿みたいで、そしてこの二年の間に積み上げた怒りや殺意を何処に向ければ良いというのだ。

「もういい?」

 力無く顔を上げる。母さんを殺した少年。その行為について、俺は憎しみを抱いて良いはずだった。けれども復讐してやろうとか殺してやりたいとか、そういう気持ちは不思議とわいてこなかった。だって、もう理解していたから。彼の行為に感情など僅かも含まれていないんだっていうことを。ヘンデスさんと同じ。こういう人達に感情を訴えたって意味がないことを、痛い程に理解していた。

「もう、いいよ」

 そう告げることしか出来なかった。
 少年は頷くと、未練なんてあるはずがなくあっさりと部屋を出て行った。
 この死体、どうすれば良いんだろうな。そんなどうでも良いことが頭に浮かぶ。
 濃厚な血の臭い。死体と同じ部屋に二人きり。何かを考えることさえ億劫になり、未だ窓枠にかけていた右手を床に落とす。棒を握り締めたまま左手も床に落とす。背を壁に押し付ける。つんと目頭が熱くなる気配がしたから、上を向いてそれを堪えた。

「なんだったんだろうな」

 答えがないことを承知で口にした。口にしたら、笑えてきた。馬鹿だな、と思ったのだ。この二年間無意味なことに必死になった自分は馬鹿だな、と。
 視線を下に向ければ、こんな状態だというのに綺麗に身体を纏うオーラが視界に入った。念能力を身に付けたことだって無意味だった。左手に視線を移せば棒が視界に映る。泥棒をして人を殴って、殺したことだって無意味だった。全て、全てが無意味だった。
 視線を前方にずらせば、死体を捉えた。無意味な約束に縛られた男。それでも、満足そうな最期を迎えたことが理解出来なかった。
 ずりずりと棒を引き摺りながら移動し、死体へと近付いたのは、確かめたかったからだ。その死に顔に、一欠片でも無念さや苦痛を見付けたかった。そうしたら、少しは納得出来る気がした。恐る恐る、その俯せに倒れ伏して臓器や血にまみれた頭を持ち上げ、傾ける。

「う、そだあ」

 強引に横向かせた顔面。上半分がぐちゃぐちゃになりながらも、口許は綺麗な弧を描いていた。最期に見た、悪どい笑みが脳裏に浮かぶ。その時の口許と寸分違わぬ形を認めてしまった。

「勘弁してよ」

 頭を抱えて呻く。本当にやってられない。理解出来ない。

「ムカつく」

 一人で満足しやがって。こっちは何一つとして納得出来ていないっていうのに。
 思考がぐちゃぐちゃになっている。悲しくて辛くてどうしようもなくて、怒りも悔しさも何に向けて発散して良いのか分からない。ごちゃごちゃした感情を宥めたいのに、その方法が分からない。

「独りになっちゃったよ、アリス」

 いつものように妹に語りかけて、それから思い出した。
 上着を脱ぎ捨て、裾を切り裂く。内側からはらりと落ちてきた紙片を、大事に大事に受け止めた。

「約束、守らなきゃ」

 ただ一つ、今の俺に残されたもの。書かれた住所を目にやきつける。
 ヘンデスさんの死も、狙われていなかったという真相が今更知れたことも、自分の中で処理しきれなかった。けれど、それらを無理矢理どうでもいい事に分類する。
 アリスを迎えに行くこと。約束を守ること。俺の中に存在するのは、それだけで良い。
 ゆっくりと立ち上がる。最後、彼の死体を一目見てから背を向けた。何も考えたくなかったから。それが逃避であると気付いていたけれど、この場に留まることは出来なかった。自殺した男の死を惜しみたくなどない。それに死体に怒りをぶつけても虚しいだけだって分かっていたから。


 棒は布で包んで背負い、必要な物の入ったリュックを肩に引っ掛けて、一番近くの駅まで走っていった。ヘンデスさんみたいに車を運転出来れば良いのだけれど。身長の問題で難しいから移動手段は列車と飛行船だ。
 アリスが売られた場所とは国が違うから、結構金もかかる。幸いヘンデスさんが貯めていたらしい金が部屋にあったからそれを貰ってきた。俺が使わなければどうせ盗まれるのだし有効活用させてもらう。
 そうして列車に乗ろうとしたのだが、憎たらしいことに前世の嫌な記憶を思い出してしまい、結局飛行船の乗り場まで走ることにした。幸い体力はあるし、地図は読める。途中ご飯を食べるなど休憩を入れ、辿り着いた時には夜になっていた。そうして切符を買おうと売り場に行った時だった。

「君、迷子かい?」

 何処で買えば良いのか勝手が分からず視線をさ迷わせていたのが悪かったのか。振り返れば、制服を着た若い男が中腰で視線を合わせてきた。

「いえ」
「ご両親は何処にいるの?」

 穏やかな声だった。久しぶりに与えられた、何の見返りもない優しさ。喉奥から何かが込み上げる気配を感じ、咄嗟に俯く。

「親は、いないです」

 気力を振り絞って、その事実を言葉にした。親と問われ、頭に浮かんだ男女の姿を、首を軽く振ることで打ち消す。
 不思議だった。今、思い浮かんだ二人が仲良く寄り添っていたから。願望だとしたら、自分が気持ち悪い。

「そっか。何処まで行くの?」

 小さな声で行き先を告げれば、相手は優し気に頷いて指さした。

「ちょうど今夜出発の便があるよ。あそこで切符が買える。一人で行ける?」

 少し、戸惑う。一人で行ける。それは確実だった。けれど素直に頷けなかったのは、久しぶりだったからだ。久しぶりに触れた温かさに、欲が出た。独りきりになったという現実に、心が揺らいでいた。

「あの」

 心臓の鼓動が速まる。緊張で声が震える。それでも、希望を求めたかった。

「助けて、下さい」

 もっと早く気付くべきだった。ヘンデスさんなんかに助けを求めず、見知らぬ他人に頼るべきだった。俺自身は確かに無力だったけれど、助けを求めることくらいは出来たはずだった。

「妹が、売られて。俺、妹を迎えに行くんです。だから、その。助けて下さい!」

 頭に血が昇って、上手く言葉になってくれなかった。自分で言ってて支離滅裂だと分かる。それでも、助けて欲しかった。

「僕、あんまり大人をからかっちゃいけないよ」

 穏やかな声だった。困惑したような表情で、優しくたしなめられた。

「ごめんなさい。でも、妹を迎えに行くのは本当」

 応えるように、唇は悪戯っぽく孤を描く。苦笑され、それを合図に切符売り場へと身体を向けた。

「一人で行けるから大丈夫。有難う、優しいお兄さん」

 手を振り、背を向けた。その瞬間、表情が消えた。

 冷静になれば分かることだった。いきなり事情を聞かされたら、荒唐無稽な内容だということ。自分でも笑えるくらい、現実味のない人生だ。暗殺一家の執事の子供で、両親が駆け落ちしたせいで命を狙われ、妹は逃亡生活中に父親代わりに売られましたとさ。
 分かっていたはずだった。それでも、助けを求めたかった。求める声に、応えてくれる人がいるはずだと信じていたかった。
 小さな笑いがもれる。いまだに救いを求めている愚かな自分に。魂に刻み付けられた記憶を思い起こせば、簡単に分かったはずなのに。
 助けを求めたって意味がない。そう世の中に絶望し、死んだ前世の自分。忘れていた己が愚かしい。

「自分で、迎えに行く」

 小声で決意を口に出す。何も出来ない自分が嫌だった。だから強くなった。だからアリスを迎えに行ける。無意味な二年間に、意味を見出だせば、少しだけ救われたような気がした。


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