それからは折をみて、両親から詳しくこの世界の話を聞いた。
世界地図が違った。教わった文字は世界共通語だった。魔獣がいた。
淡々と語る様子に、両親にとっては全てが当たり前の事柄なのだと理解してしまう。一々驚く俺の方がおかしいのだと理解してしまう。
話を聞く度に心が折れそうになった。けれど頑張れたのは、家族がいたからだ。変な質問にも、決して笑わず答えてくれる両親。そして辛い時は傍にいて、分からないながらも一生懸命に話を聞こうとしてくれる妹。
充分じゃないか。
だって、俺は一度死んだんだ。もがき苦しんで、これ以上ないってくらいの痛みと絶望を味わって、確かに死んだんだ。
前の世界と繋がる事が出来ないのは辛いけれど、悲しいけれど、奇跡を求めて足掻きたくなるけれど。都合の良い救いなんて存在しないということを、俺は知っている。
同じように人が生き、集まって国を作り、長い歴史が存在する。そして日本と似た国が存在する、そんな世界。何より、たとえ世界が違おうと今の俺がもつ唯一の小さな世界、家族は変わらない。
それで、充分。繰り返し自分に言い聞かせて納得させて、そうして小さな自我を保つことに漸く成功した頃合い。
その小さな世界にヒビが入った。
話がある。重い口調で父さんがそう切り出したのは、俺とアリスの八歳の誕生日の夜のことだった。
小さな机を四人で囲む。最近は益々貧乏になって、椅子は手放したから地べたに直座り。けれど普段は食べられない甘い物、プリンが夕飯の後誕生日ケーキの代わりに出されたからか、アリスはご機嫌だ。にこにこ朗らかな笑みを浮かべながら父さんを見詰めている。
父さんはそんなアリスの視線から逃れるように俯く。そんならしくない仕草に疑問を持った俺の耳に、低い声が届いた。
「実はな、俺はお前達の父親じゃない」
横でアリスが息を呑む。こくんというその音がいやに響いた気がした。
こちらの衝撃を無視して父さんの告白は続く。
「本当の父親はお前達が産まれる前に死んだ。俺はそいつにお前達のことを頼まれただけだ。今までは許していたが、これからは俺を父さんと呼ぶ事を禁止する。良いな」
勝手に言い放ち、勝手に席を立つ。そのまま寝室へと消える後ろ姿を、呆然と眺める事しか出来なかった。
「うそ」
高くか細い声が横で上がる。
「うそだ!」
「嘘じゃないの」
そこで初めて発言したことで、漸く母さんの存在を思い出す。ぎくしゃくと機械的な動きで首を回して視界に入れた母さんは、心持ち俯きぎゅっと拳に力を入れて何かを必死に耐えていた。
罪悪感、なのだろうか。
「ごめんね。母さんが悪いの。母さんと本当の父さんが。ヘンデスさんはただ私達を助けてくれただけなの」
何か事情があるのだろう。母さんだって辛かったのだろう。思い至ってしまい、沈黙を選択した俺。
「ばか! 母さんもうそつきなんだ! 母さんなんてきらい! 父さんもきらい! みんなみんなどっか消えちゃえ!」
裏切られた。その思いのまま癇癪を起こし、泣き出す妹。
きっと皆正しい。
よく分からないけれど、父さん、じゃなくてヘンデスさんは俺達の父親の代わりに父親役を演じてくれた。母さんはヘンデスさんの好意に甘えた。けれどヘンデスさんは最後まで嘘を突き通す気はなくて、物心つく頃には真実を話す気だった。それが今だったっていうだけ。
びゃかーと発音が怪しくなりながらも罵倒を尽くし泣き続けるアリスの頭を抱き締め、その背をさする。
「本当に、ごめんなさい」
断罪される事を前提とした謝罪の声は、ひどく暗く重重しい。
溜め息を吐きたくなった。実際吐いた。けれど胸の内に溜まる澱みはちっとも動こうとせず、その存在を主張し続けるだけ。
そこに至って漸く気付いた。俺も傷付いているんだな、と。
子供にとって家族とはすなわち世界だ。特に我が家のようなあまり外と交流のない家では。
それが偽りだった。ヘンデスさんがもう父と呼ぶなと宣言した。それは家族ごっこを続けるつもりはないという意思表示でもある。始めから、偽りの家族だったのだ。
その事実に傷付いているということは、俺は自分で思っていたよりずっと家族に依存していたということだ。この第二の家族を俺の一部として受け入れ、精神の支えとしていた。悟った時には既に失っているあたり、救えないのだが。
自分の心を再確認している間にアリスは泣き疲れたらしい。肩に重みがかかり、全体重をかけてきた。寝息も聞こえる。
「ねえ、母さん」
アリスを抱え直して体勢を整える。ちょっと重かったので早々に諦め、その頭を膝に乗せる事で妥協してみた。ついでに正座していた足を伸ばして長時間話せる姿勢をつくる。
「騙してた事、まだ許せない。だからさ、話してくれないかな? 母さん達の事情。全部。母さん達が何から逃げているのか、っていうのも含めて」
色々、頃合いだったのだろう。俺が平穏の為に今まで敢えて目を瞑っていたこと。きっと今回のことに繋がっている。
しかし尚も言い淀む母さんの背をそっと押した。
「大丈夫。俺ただの八歳じゃないから。前世の"俺"は母さんより歳上だったよ」
そんなことを言いながら普通の八歳児程度には家族に依存している矛盾には気付いている。だからこその気恥ずかしさを滲ませた台詞だったのだが、空気を和ますという効果はあったらしい。
母さんは気が抜けたように笑いを溢して。
「そうだったわね。うちのルークは中身おじちゃんだったわ」
せめて大人と言って、なんて不満に思いつつ、口には出さなかった。多分、安心したから。いつもの天然入った能天気な物言いに、そしてその明け透けな笑顔に。
「どこから話そうかしら」
そんな定番ともいえる語り出しから始まった語り話。
母さんは終始穏やかな様子を崩さず、そして俺もただじっと聞き耳を立てていた。
ずっとアリスの頭を重しとしていたせいで若干痺れている膝を酷使して向かったのは両親の寝室、ではなくて母さんとヘンデスさんの寝室。母さんは子供達の寝室でもある居間でアリスの寝顔を眺めているから、二人きり。
「ルークか」
電気も付けず真っ暗闇の中、ヘンデスさんは此方に背を向けて座禅を組んでいた。
「全部聞いた、ヘンデスさん」
そろそろと彼の背後に近寄り、正座する。そして上体を曲げ、頭を床につけた。
「有難うございます。今まで赤の他人である俺達を守ってくれて」
ヘンデスさんは、本当に赤の他人だった。母さんともあまり関係はない。ただ、本当の父親との約束を守ってくれているだけだった。
母さんと父親は恋愛関係にあった。そして俺達を身籠った。そこまではごくありふれた話。
違ったのは母さんと父親の職場。二人共、さる暗殺一家の執事として育ち、その生き方に疑問を持ちながらも仕事をこなしていた。流されるように命令に従い惰性で生きてきて、二人だけの時はそれでも我慢できたのだという。お互いに苦しみを共有する事で愛も深まった、と。
契機は、俺達ができたこと。
その暗殺一家では執事の恋愛は禁止されていた。子供を産むどころか、子供ができたことが知られれば両親は即始末されるような環境にあった。
結果、暗殺一家からの逃亡を二人は選ぶ。
それは、父親の死という犠牲を払って成された。
ヘンデスさんはその暗殺一家の門番として雇われていた使用人だった。並の執事、母さんよりも強く、そして父親とは不思議と仲が良かったらしい。本当の弟のように可愛がっていたと、母さんは言っていた。
そして逃亡計画に反対した人でもある。両親の計画を察したヘンデスさんは父親を説得した、らしい。けれど父親は譲らなかった。
そこら辺の詳細を、母さんは知らない。
だが、結果としてかけおちの待ち合わせ場所に現れたのはヘンデスさんで、父親の死を母さんは告げられた。そして引き返そうとする母さんを強引に連れて逃亡したのもヘンデスさん。
父親との約束だ、ヘンデスさんはそれだけを繰り返し、今もあるか分からない暗殺一家の報復から俺達三人を守り続けている。
全てを聞いて、母さんを怒鳴りつけたくなった。ヘンデスさんという他人を巻き込んで、俺とアリスを逃亡生活に巻き込んで。
全ては両親の自己満足に過ぎないのではないか。そんな思いをぶつけようと息を吸い込んだのだけれど。
無理だった。出来なかった。
俺とアリスとヘンデスさんに謝罪を繰り返し、俺達を愛しているのだと訴えて、産まれてきてくれて有難うと感謝する。
そんな母さんの自分勝手な言葉に、納得なんて出来やしない。許せやしない。アリスが羨ましいという気持ちだってある。感情のままに泣き叫び、自分の痛みを表現できるアリスが。
だけど、俺は知っていた。自分勝手で傲慢で独りよがりだけれど、確かな愛情があった。前世の記憶があるなんていう変な子供達を受け入れてくれた。守ろうと、必死に頑張ってくれていた。あまり良い母ではなかった前世の母親を知っているから、それだけは断言できる。
そして、ヘンデスさんの愛情も偽りではない。
だからこそ、それが分かるからこそ、俺は母さんを責めないし、ヘンデスさんに対して心から感謝を口にする。
「礼は言うな」
ひどく突き放した冷たい口調。自然と口許が緩む。
やっぱり俺、この人好きだ。
「言わせてよ。もう父さんとは呼ばないから。代わりに礼くらい言わせて下さい」
返事は何となく分かってる。
「約束だから守ってるだけだ。お前達の為じゃない」
予想通り。
敢えて指摘はしないが、小さい俺達が父さんと呼んで返事をしていたのは、父親代わりになってくれていたのは、約束には入っていないと思う。つまり、それはやっぱり俺達の為にした行為であり、愛情だと思うんだ。
「うん、分かった」
背中が向けられている事を良いことに、遠慮なくにやけ崩れながら口先でヘンデスさんの言葉を肯定する。
そしてもう一度深く頭を下げた。
俺はこの人を尊敬する。
母さんの話だと、母さんに対して愛情を持ってはいないのだろう。ただ男同士の約束を守る為、それだけの為に腹に子がいる母さんを連れて逃げ、その後も放り出さず面倒をみてくれている。責任なんて欠片もないのに。
「父親の事、聞きたいか?」
背中を向けたままなのでヘンデスさんの表情は伺えない。いつも通りの無表情を、少し緩めてくれていれば良い。そんな事を考えながら首を振った。
「ううん。聞かない」
聞く必要はなかった。
たとえ偽りであっても、自分勝手な思いでも、それでも父親といって顔が浮かぶのはヘンデスさんだと思ったから。