今日もアリスは不機嫌継続中だ。
「アリス、ご飯の時間」
夕飯になっても寝室のクローゼットに籠ったままの幼い妹に声をかける。が、返事はない。
ヘンデスさんの告白から一月が経った。にも関わらずあれからずっとアリスはヘンデスさんと母さんを無視したままだ。
俺とは多少話していたのだが、俺が二人の味方をしていると感じたらしく、無視の対象にめでたく仲間入り。
正直ここまで手強いとは思っていなかった。
気持ちは分からないでもないんだけれど、どうしても俺はヘンデスさんの味方をしてしまう。無関心を装いながらもアリスの暴挙に心痛めているのを感じるから。
そんな俺の気持ちをアリスも敏感に感じ取っているのだろう。八歳児といえど侮れない。
途方に暮れながら、声をかけ続けていたら、クローゼットの扉の隙間からすっと何かが出てきた。
無視されて以来アリスの番で止まっていた交換日記。
読むよ、と一声かけてから開いたそれにはみっちりと日本語が書き込まれていた。
余談だが、アリスの文字はすごく達筆だ。お手本が俺の字とは思えないくらい。やはり前世の記憶が影響しているのだろう。そして一日中家の中で過ごして他にやる事がないせいか漢字の習得率も中々のもの。
アリスの日記を要約するとこうだ。
嘘をついていたヘンデスさんと母さんを許せない。二人の肩を持つばかりかヘンデスさんになつく俺も許せない。ヘンデスさんは家族ではないのだからもう話さない。ヘンデスさんと話す母さんとも俺とも話さない。でも一人は寂しいから母さんと俺はもうヘンデスさんと話すな。そしたら許してやる。
読みきって出るのは溜め息。
あの後話し合ってアリスには真実を話さないと決めた。少なくとも妹がもう少し大きくなるまでは。まだ妹は幼すぎる。大人の事情とやらを理解出来るとは思えない。
しかしそうなってくると、真実を知らないアリスの主張は至極真っ当なものになってしまう。彼女の中でヘンデスさんは加害者、自分は被害者、という構図が出来上がっているのは明白だ。
本当は、ヘンデスさんが一番の被害者のようなものなのに。
俺と母さんはヘンデスさんにどうしても負い目というものを感じてしまい、アリスの絶対的な味方にはなれない。
可哀想だな、とは思う。大人の都合に巻き込まれて。孤独な戦いを強いられて。
「アリス」
アリスの気持ちが詰まった日記を隙間からそっと押し返した。
ごめん。
心の中で謝罪し、けれど別の言葉を口にする。
「俺も母さんも、それから勿論ヘンデスさんも、皆アリスの事を愛してるんだ。それだけは分かってくれ」
クローゼットの扉をどんっと強く叩く音。それが返事だった。
「ご飯、冷める前に早く来いよ」
頃合いだな、と感じ腰を上げる。これ以上はお互い意固地になるだけだ。
「アリスはどう?」
不安気な母さんに首を振る。それだけで充分だった。
「頂きます」
前世の影響で俺だけ日本式の習慣を口にして、食事は始まった。
三人共無言で食事を進める。アリスが引きこもってから我が家の空気は一気に重くなった。俺とヘンデスさんはもっぱら聞き役だし、いつも喧しい程に話題を提供するアリスはいない。母さんもあの日から上の空だ。いつもの毒舌入った天然発言が恋しい。
「ごめんなさい」
ふと顔を上げれば、母さんは食事の手を止めて俯いていた。
「母さん?」
「貴方達の為、なんて言いながら結局色々嫌な思いさせちゃってるわ。ヘンデスさんにも。ごめんなさい。貴方が昔言った通りね。逃げたって普通の暮らしが出来る訳じゃない。分かっていたつもりなんだけれど」
確かにな、そう心中で思いっきり同意してしまった。
駆け落ち。響きだけは格好良いかもしれない。けれど、何もかも捨てた事でゼロからのスタートになるわけではない。逃げた時点で精算仕切れていないマイナスのものを抱えてのスタート。過去はいつか自分の足を引っ張ることになる。
それを、やっと母さんは実感したのだろう。
普通の生活なんて出来やしない。いつ報復されるのかと神経を尖らせる生活はそう遠くない未来破綻する。
「あいつは、お前の能天気な笑顔が好きだと言っていた」
唐突に響きわたる低い声。二人の視線を集めたヘンデスさんは、食事の手を休めないまま言葉を続けた。
「あそこではお前は笑えなかったんだろう? だから外へ出た。なら笑う事はお前の義務だ。あいつの死を想うならば苦しくても笑え。子供に落ち込んだ顔を見せるな。謝るな」
落ち着いた声音だった。感情がこもっていないようでもあり、叱咤するようでもあり、また励ますようでもある。受け取り手次第でどうとでも取れる、深く染み入る声。
不思議と俺は安心してしまった。
「ルーク、お前はお前の感じるまま行動しろ。アリスはお前の娘じゃない。親はちゃんといる」
敵わないな、と思う。この人は父親ではないけれど、家族を支える人なんだな、と思う。そうしたら自然と肩の力が抜けた。この一月ずっと緊張でこり固まっていた身体が解れていく。
「俺の事は気にするな。お前はアリスの母親なんだろう?」
母さんに向かい、アリスの事を第一に考えろと挑発的に吐き捨てたヘンデスさん。好きだな、と心から思う。
「ヘンデスさんの言う通りだよ、母さん。母さんはアリスの味方をしてやって。寂しがってる。因みに俺はヘンデスさんの味方するから」
「ルーク」
たしなめるように低く渋い声がかかるが、そっぽを向く。子供らしい仕草だな、と少し自分に笑みがもれた。
でも、二人の前では子供っぽくても良いのかな、なんて都合の良い事を考えてしまうんだ。
「ヘンデスさんが言ったんだよ? 俺の思うように行動しろって」
感情に素直になれば、俺はヘンデスさん寄り。それはやっぱり変わらない。
諦めたようにヘンデスさんが溜め息を吐き、吹っ切れたように母さんが笑顔を見せて。
「有難う。ルーク、ヘンデスさん」
あとは我が妹がいれば完璧。
同様に思ったのだろう。すっと立ち上がった母さんが寝室へと向かう。
多分、もうすぐ四人が揃う。そんな安心感に満ちた余裕が出来て、自然と口許が綻んだその時だった。
「アリス!?」
甲高い叫び声。ヘンデスさんが眉をしかめて立ち上がったのを視界の端に収めながら、俺も母さんの元へと急いだ。
狭い家故すぐに母さんの小柄な後ろ姿が目に入る。横に並び立ち、ようやっと異変の正体を悟った。
「アリスは外か」
すぐ背後からかけられた声は確信に満ちている。
その言葉が指す通り、アリスがこもっていたはずのクローゼットは藻抜けの空だった。自然と目がいったのは寝室の窓。アリスの身体なら充分出られるサイズの小さなそれは開け放たれていて、冷たい風が身体を撫でる。
鳥肌が立った。全身が凍りついたように動いてくれない。
「ルーク」
肩を叩かれ、漸く時が動き出す。あまりにも優しい掌の温もりに、すがりたいのを必死で堪えて振り向いた。
「ヘンデスさん」
助けて欲しい。その身勝手な言葉を何とか喉元で堪える。
散々ヘンデスさんに悪態を吐いたアリスを助けて欲しいだなんて、あまりにも失礼だ。
「俺、アリスを探しに行くから。だからヘンデスさんは」
家にいて、とは最後まで口に出来なかった。
肩を掴む手に力が込められる。痛む程の強い力。見上げれば、ひどく険しい眼差しが注がれていた。
「俺が行く。外は危険だ。ルーク、お前は弱い。力不足だって分かるな?」
端的に事実を指摘され、唇を噛み締める。
悔しくて、惨めで、とても覚えのある感情が胸を占めた。魂に染み付いた、前世の最期の記憶。無力な自分はもう嫌だと、こんな思いを味わうのはあの時で充分だと、そう心に決めたはずなのに。結局、俺は何も変わっていない。
口の中に錆びついた味が広がる。
違う。こんなんじゃなかった。前世の最期の時は、もっと苦しかった。身体中から込み上げる血で呼吸困難になる程の量だった。
手に意識を向ければ、ぎゅっと強く拳を握っていた。試しに右手を上げれば簡単に持ち上がる。
なんだ、動くじゃん。
口許に笑みが浮かぶ。まだまだ絶望するのは早いと言い聞かせる。
だって、俺は生きている。
おし、と自分に気合を入れて視線を上げれば、既にヘンデスさんは玄関を出ようとしていた。
急いでそちらに向かう。一回こけそうになったけれど、見ないふり。
「ヘンデスさん!俺も行く!」
扉に手をかけていたヘンデスさんが振り向き、そして俺を視界に入れて、分かりにくいけれど笑った気がした。無表情ながらも、口端が僅かに上がっている。目が若干細まる。
その常にない反応に戸惑っている俺の頭を、ヘンデスさんはぐしゃぐしゃに掻き混ぜた。
久しぶりの触れ合い。彼が父親でないと告白して以来、こういう事をしてくれなくなったのに。
「アリスは必ず連れ帰る。家の事は頼んだ、ルーク」
一方的に言い放ち、ヘンデスさんはもう此方を振り向きもせず出て行った。
その後ろ姿は、とても頼もしく。ヘンデスさんに任せればもう大丈夫だと。助けてくれる人がいるのだと。頼っても良いのだと。そう安心したら、何故か泣きたくなった。
アリス、もう大丈夫。ヘンデスさんはお前の味方だ。
そう心の中でアリスに呼び掛けた。