ヘンデスさんがいなくなり、静けさが戻った。
深く息を吐けば、小さなはずのそれは狭い我が家に響き渡る。
「母さん」
未だクローゼットの前で微動だにしない母さんは、ゆっくりと振り返る。そして無表情でその手に握られた日記を差し出してきた。
「ルーク。これ、なんて書いてあるの?」
ひどく穏やかな声音で問われ、小さな罪悪感がわきあがる。
世界共通語も書けるアリスが敢えて日本語で書いた不満。それは見方を変えれば、母さんとヘンデスさんを拒んでいるということ。そして、分かり易い反抗の手段をアリスに与えたのは俺。
俺が直接悪いわけではないのだが、妙な居心地の悪さを感じながら受け取った日記。
感情の乱れが表れたかのように雑な筆跡で、大きく書かれていた。
「"私はこの家の子じゃない"」
言葉にするのは、かなりの気力が必要だった。ぷるぷると日記を持つ手が震えている。
「そう」
母さんの表情を見るのが怖くて俯いた先で、日記のページが濡れているのに気付いてしまった。色の濃くなった丸い点。
アリス、一人で泣いていたんだな。
クローゼットの中なんていう暗く狭い空間で一人うずまくりながら涙を溢すアリスの姿が、脳裏に鮮明に浮かんできてしまう。どんなに寂しかっただろう。どんなに心細かっただろう。想像するだけで、胸が締め付けられる。
「ルーク」
声をかけられ、母さんの存在を思い出した。
きっと母さんだって悲しんでる。慰めなくては、そう頭では考えるのに、上手い具合に言葉が浮かんでこない。結局俯いたまま、口を開いて、また閉じて。
そんなことをしていたら、唐突に温もりがふってきた。
「大丈夫よ、ルーク」
穏やかな声に、思い出す。俺が前世の最期を思い出して倒れた時も、母さんはこうして抱き締めて、大丈夫だと言ってくれた。
「貴方は何も悪くないから、そんな顔しなくて大丈夫」
でもさ、母さん。俺、悪いんだ。悪い子なんだ。
「夕飯の前、アリスが日記に自分の気持ち書いてくれたんだ。俺、それ突き返した」
きっと、あれは最後のSOSだった。無視されたと感じたから、アリスは家を出た。
「良いのよ、ルーク。本当は母さんがアリスの気持ち、聞かなくちゃいけなかったの。辛い役、させちゃってごめんね」
その台詞を聞いた瞬間、激情がわきあがった。
今更? それをこの場で言うのか?
辛かった。何で俺がアリスの機嫌を取らなくちゃならなくて、ヘンデスさんに申し訳ない気持ちを覚えているのか、途中からその苛立ちが母さんへ向きそうになるのを必死で堪えていた。俺は悪くない。母さんがかけおちなんてしたのが悪い。そう喚きたくなる時がこの一月一体何回あったか。
それを耐えて耐えて。表に出す気なんて、欠片もなかったのに。
「アリスもルークも、私の可愛い子供達だわ」
「馬鹿!」
労りに溢れた声に今までの努力を否定された気がして、反射的に吠えた。瞬間、不味い、と思ったのに。
「そうね。母さん馬鹿ね」
あんまりにも優しく肯定しながらぎゅっと強く抱き締めてくるから。
「そうだよ。馬鹿だよ。なんだよ暗殺一家の使用人って。そんな危なそうな所から逃げてくるなんて馬鹿げてる。ヘンデスさんまで巻き込んで」
爆発してしまった。ヘンデスさんの告白以来溜まっていたもやもやを、母さんにぶつけてしまった。
どんっと腹立ち混じりに母さんの背中を叩く。お返しとばかりに背中を温かな手で撫でられて、もっと強く叩いた。
「ルークは優しい子ね。大好きよ」
どんどん叩く力を強くするのに、母さんは微塵も動じてくれない。
「良いのよ、もっと責めて。子供は親を選べないんだもの。その代わりに、甘えて良いの」
そうだ。子供は親を選べない。俺は、こんな家に産まれたかったわけじゃ。
それ以上は、たとえ頭の中でも続ける事が出来なかった。
あまりにも優しい思い出に邪魔された、という要素もある。けれどもう一つ、思い至ってしまった。母さんは甘える親すらいなかったということに。
暗殺一家に使用人候補として連れて行かれたとき、母さんは既に家族がいなかったそうだ。父親には親がいたらしいが、裏切らないよう人質のような扱いをされていたということも聞いた。
家族に縁のなかった女が、受けたはずのない愛情を子供に注ぐ。見返りのないその行為の末、子供から否定される苦しみは果たしてどれほどのものだろう。想像したら、堪らなく母さんを哀れに思ってしまった。
再び行き場を失った感情をもてあまし、最後に一回母さんの背中を叩く。そしておずおずと呟いた。
「なんで母さんは暗殺一家の使用人なんてやってたんだよ」
本当は知っている。それは仕方のないことだった。
母さんが暗殺一家のもとに連れて行かれたのは、七歳の時だそうだ。今の俺よりも幼い少女に何ができるというのだろう。
考えなしの文句をぶつけたことが恥ずかしくなり、ちょうど良い位置にあった母さんの服をぎゅっと握る。
母さんはゆるゆると背中を撫でる手を止めないまま、穏やかに同意してくれた。
「そうね。お母さんもそう思う」
その言葉を最後に、再び沈黙が落ちた。
興奮のせいか火照った頬を隠すように、母さんの柔らかい身体に体重をかければ、心臓の音が耳に入ってくる。とくんとくん、と規則正しいそれに、ゆっくりと熱が冷めていくのを感じる。
「母さん」
「なに?」
ちょっと言い淀んで、でも一拍置いて、顔を母さんの胸に預けながら口を開いた。
「ごめんなさい」
色んな意味をこめた謝罪だった。
愚痴を吐いて、子供っぽい怒り方をして、母さんを責めて、全てにごめんなさい。
母さんは小さく笑った。
「たまにはこうして甘えなさい、ルーク。貴方がいくら大人びていても、私の可愛い息子だっていう事実は一生変わらないんだから」
頷きながら、嬉しさで口許がにやけるのを止められなかった。甘えを許してもらえたから、というのもある。けれど、それよりも。
いつもの母さんだった。元気で前向きな母さんだった。やっと、俺の家族が戻ってきた。そんな安堵が胸一杯に広がる。
「アリス、大丈夫かな」
明らかに照れ隠しの為に変えた話題。母さんは察しているだろう。それでも何も言わずにのってくれる。
「大丈夫。ヘンデスさんが必ず連れ帰ってくれるわ」
「そうだね。ヘンデスさんだし」
「そうよ。いけすかない男だけどすっごく強いのは確かだから」
ちょっとした疑問が頭をよぎる。もしかして、母さんとヘンデスさんはあまり仲が良くないのでは。
考えてみれば、簡単な話かもしれない。母さんからしたら、ヘンデスさんは愛する人の死の真相を教えてくれない人物で、ヘンデスさんからしたら、母さんは駆け落ちに巻き込んだ迷惑な人だ。
今まで仲が良いと信じきっていた夫婦像が崩れていく。
「あの人、約束は絶対守る人だから大丈夫。安心しなさい、ルーク」
けれど、母さんの声には確かな信頼がありありとのせられていた。
そっか、と納得する。母さんは守る人としてのヘンデスさんを信頼している。そしてヘンデスさんは母親としての母さんを信頼している。そこに愛はなくても、俺やアリスが夫婦だと錯覚する程の確固な絆が存在しているのだ。
願わくは、俺やアリスとヘンデスさんの間にも、親子と錯覚するような絆ができますように。
そう、祈った時だった。
母さんが素早く動く。
「母さ」
どんっと押され、寝室の床に転がる。耳が扉の音を捉える。頭を持ち上げ、視界に入ったのは母さんではなく、閉まった扉だった。
「ルーク」
扉越し、くぐもった声が届いた。
這うように扉まで進み、がちゃがちゃとノブを回す。内開きのそれを引こうとするのに、全く動いてくれない。
「母さん?」
アリスの不在を知った時よりも強い不安。
未知の状態の要因が掴めないことが、混乱を深めていく。
「愛してるわ」
状況にそぐわない台詞が、不安を掻き立てる。
「何言って」
「アリスにも愛してるって伝えてちょうだい」
自分で言えば良いじゃないか。その一言がどうしても言葉に出来なかった。どんな返事がくるか、予想が出来るからこそ、それを明らかにしたくない。
みっともない悪足掻きを嘲笑うかのように、見知らぬ声が響いた。
「アン・ヘルゲン?」
玄関が開く音はしなかった。それなのに高めの声は確かにすぐそこの居間から発せられ、そして母さんの名を口にした。
「すぐにヘンデスさんが来てくれるから、だいじょ」
質問を無視した母さんの声が途中で切れ、代わりに何かが空を切る音を拾った。
静まりかえる室内。
どくんどくんと心臓が鼓動を刻む音だけを感じる。
「かあ、さん?」
情けなくなるほど、上擦った声だった。
返事はない。
震えが止まらない手に力を籠める。恐る恐るノブを捻れば、先程までの抵抗が嘘のように扉は勝手に手前へと傾いた。ぎいと立て付けの悪い我が家らしい聞き馴染みのある音が響く。
そして、扉が開ききったと同時にどさっと温かい物体が倒れこんできた。
「母さん?」
穏やかな表情で瞼を閉じる母さん。尻餅をつきながら支えた身体から温もりが伝わってくる。傷付けられた様子は微塵もない。
寝てるのだろうか。
混乱気味の脳に間抜けな疑問が浮かぶ。
「綺麗に取れた」
その言葉に侵入者の存在を思い出す。
勢い良く上げた視線の先に映った光景は、俺の間抜けな疑問を否定していた。
居間に我が物顔で佇むのは、俺とあまり歳の変わらない少年。瞳が印象的だった。真っ黒な、感情のこもる余地がない無機質な光を宿した瞳。その瞳に映っているのは、少年が手に握るもの。
小さな手にもてあまし気味の、赤黒い、それ。
確かに脈打つ物体は。
「終わり」
簡潔な宣言と共に、ぐちゃりと潰れ、弾け。
その瞬間、血をまとった少年は僅かに笑んだ、そんな気がした。
ひゅうっと咽が鳴る。勝手に身体が痙攣し出す。
支えきれなくなった母さんがどさりと床に投げ出された。傷なんてないのに、温かいのに、ぴくりとも動かない身体。
さっき見た物体の正体を言語化することを脳が拒む。
「あ」
意味を成さない単なる音が勝手に飛び出す。反射的に手で口許を覆うが、その動作が逆に侵入者の注意を引いてしまった。
予備動作もなく、人形のように少年が此方を振り向く。薄気味悪いその眼球と、視線がかちりと合った瞬間だった。
ぞわりと全身に走った悪寒。がたがたと歯がかち合うのを止められない。早く逃げろ、そう脳が指令を下すのに、神経が麻痺したように力が入らない。
殺される。
それしか考えられなかった。
動かない母さんは死体で、さっきアレを潰されて、アレは母さんのアレで、きっと俺のアレも同じように弾け飛ぶから、そしたら俺は母さんと同じ死体になる。
死ぬ。
混乱しきった脳裏に死という単語がびっしりとひしめき、正常機能を端に追いやる。おかげで視神経もやられたらしい。
視界に映るもの全てが一枚膜を張られた向こうの景色のように感じられ、現実味を失った。
少年が俺を見て首を傾げる。
次の瞬間勢い良く玄関を振り返り、脇に飛びのく。
銃声が鳴り、俺の耳がやられる。
少年の肩から血が飛び出る。
俺の視界を誰かの背中が占拠する。
もう一回銃声がして、誰かがいなくなる。
部屋の隅で少年に誰かが馬乗りになっている。
少年が俺に何かを投げてきて。
死んだ。
そう、死んだと思って意識を投げ出したのに。
「ルーク」
ぺちんと音がして、頬に痛みが走った。
「あ」
死ぬ。死ぬ。死ぬ。殺される。
ひたすらそれだけで占められていた頭が、一気に覚醒した。
めまぐるしく色々な光景が瞼の裏をよぎる。
「ルーク」
再び頬を軽く叩かれる。
それと同時に脳に流れ込んだのは、最悪な記憶だった。全身が動かなくて、赤ん坊の泣き声が何も出来ない俺を責めるように耳をつんざき、死の臭いだけが周囲を支配する。そんな、前世の最期。
ひゅうっと咽が鳴る。あの時に戻ったかのように、上手く呼吸が出来なかった。
「ルーク、息を吐け」
出来ないんだ。答えたいのに、苦しくて言葉にならない。代わりに出てきたのは涙だった。
そういえば、俺は死ぬ時泣いてたのだろうか。変な方向に思考が飛ぶ。幾ら思い出そうとしても、分からない。
ひたすら呻いて、泣いて、そうしていたら口に何かが当てられた。苦しくて跳ね退けようと手を振り回すのに、誰かが邪魔をする。ついには身体を拘束された。
殺されるんじゃないか、そんな予感に全身が強張る。
「ゆっくり息を吐け。吐き出せるはずだ。そうすれば楽になる」
息を吐き出せば、苦しみから開放されて楽に死ねるのか。
霞みがかった思考でそう考えて、呼吸に全神経を集中させた。
だって、苦しいのは嫌だ。来もしない助けを信じてしまいながらゆるゆると死を待つのは、ひどく苦痛だった。いっそ殺してくれと念じながら拷問のような痛みを耐え続けた。そんな最期の記憶。
前世の時は誰も助けてくれなかったけれど、楽に殺してくれるならば、今俺の隣にいる死神に感謝したくなる。
「そうだ。ゆっくりで良い。吐いて。吸って」
穏やかな低い声に、何も考えず従った。
吐いて。吸って。繰り返す内に呼吸が楽になっていく。未だ涙腺が壊れたように涙は止まらないけれど、時折しゃくりあげる程度におさまった。
朦朧とする頭で死神を見上げる。今から殺されるなら、その顔を見ておこう。そんな諦めきった意思の上に成り立った行為だったのに。
「ヘンデスさん?」
スキンヘッドの頭に、切れ長の瞳。よくよく見知った顔に、安堵するでなく、疑問を持った。
「ヘンデスさんが、俺を殺すの?」
その可能性は考えていなかった。俺が甘かったのか。ヘンデスさんを無条件に信用し過ぎたのか。
けれど、ヘンデスさんに殺されるなら良いかもしれない。理由なくそんな結論に至り、身体の力を抜いたのだが。
ごつんと頭の天辺に衝撃が走った。
「った」
小さく呻く。本当は叫び出したい程の痛みだったけれど、そこまでの体力は既に無かった。
頭を押さえながら、おずおずと見上げる。
ヘンデスさんは眉根を寄せ、静かに口を開いた。
「間に合わなくて、悪かった」
何に間に合わなかったのだろう。
一瞬頭が真っ白になる。思考回路が噛み合わない。
不思議そうな表情を浮かべていたのだろう。ヘンデスさんは重い口を開いた。
「アンを守れなかった」
アン。母さん。母さんは、そうだ、母さんは。
跳ねるように身体が勝手に動いた。横に倒れ伏したままの母さんをゆする。
「母さん。ねえ、母さん。起きてよ」
強くゆすり過ぎたのだろう。横向きの身体がごろんと此方に転がってきて仰向けになった。左胸に視線が引き寄せられる。
じわりと血が滲んでいたそこから、目が離せない。
「う、そだ」
最初に母さんが倒れてきた時には赤色なんてついていなかった。だから、俺は、それを、必死に、否定して。
「止めろ、ルーク」
制止を無視して手を伸ばす。触れた掌にべっとりと何かが付着する。温かい。
「ルーク」
ヘンデスさんの声が険しさを増している。それでも、止められなかった。
恐る恐る上体を屈めて、耳をつける。
ついさっきまでとくりとくりと音がしたのに。さっきはこの行為が俺に安心を与えてくれたのに。
「もう死んでいる、ルーク」
うん。そうだね。
だって、心臓を取り出されて潰されたんだ。