欠けた家族



 母さんの死体に温もりを求めて引っ付いている俺をそのままに、ヘンデスさんは色々と動き回っていた。
 きっとこの家を出る準備をしているのだろう。また引越しだ。でも、今回は母さんがいないから俺がその分の荷物を持たなくては。
 変に冷静な思考回路が働いて、荷造りしなくてはと頭では考えるのに、身体は吸い寄せられたように母さんの傍から離れてくれない。動く切っ掛けが、掴めない。

「ルーク」

 それが合図だった。踏ん切りをつけるように、母さんの頬にキスして立ち上がる。
 せがまれても生前は絶対にしなかった行為。恥ずかしさから拒んでいたけれど、こんな事になるんならやっておけば良かった。こんな事で喜んでくれたなら。笑顔になってくれたなら。
 深い後悔を胸に抱き、ゆるゆると立ち上がる。

「アリスは?」

 渡された荷物を背負い、この後何処に行くのだろうと考えて、そこで漸くアリスの存在を思い出した。
 我ながら薄情な兄だ。

「公園に隠れてる」

 薄情なんだけれど、それは認めるけれど、その一方で深く安堵した。
 アリスはまだ失われていない。その事実は、今の俺にとって確かに救いだった。

「行くぞ」

 俺の何倍も大きな荷物、けれど今までの引っ越しより随分と小さくなったそれを持ったヘンデスさんに従い、母さんに背を向ける。

「辛いなら離れていろ」

 玄関を出るなりそんな事を言ったヘンデスさんは、次に行う事を仄めかすようにいつもの無表情でライターをかちゃかちゃと鳴らした。
 今更だが、部屋に変な臭いが蔓延していた気がする。あれは、ヘンデスさんがガソリンを撒いていたのかもしれない。

「最後まで見る」
「そうか」

 言葉と同時にヘンデスさんは開け放った玄関の奥にライターを投げつけた。

「だが、最後までは無理だ。すぐに逃げるぞ」

 手を取られ、強い力で引き摺られる。
 抵抗はせず、ただ繰り返し振り返る。すぐに視界は真っ赤に染まった。
 母さんが、燃えていた。


「ねぇ、ヘンデスさん」

 小さくなった炎が視界から見えなくなり、いつの間にか繋がれていた手は離され、自分の足で歩いていた。
 黙々と歩き続ける大きな背中に話しかける。無言を発言の許可と受け取り、勝手に疑問を口にする。

「さっきの子」

 何者? ヘンデスさんは、殺したの?
 どっちにしようか悩んだ末、空に溶けた続きを、ヘンデスさんは察してくれた。

「ゾルディック家当主の息子だ。また来るだろう」
「ゾルディックが、例の暗殺一家?」
「ああ」

 ヘンデスさんと母さんと、それから父親が仕えていた家。話は聞いていたけれども。
 無機質な殺意を思い返すだけで、身体に震えが蘇る。
 また来る、とヘンデスさんは言った。まだあの少年は生きている。その事実がひどく恐ろしい。
 ヘンデスさんが殺してくれたら良かったのに。そんな、澱みきった願いが胸の内に湧き出た事に少し驚く。
 でも、あの少年が、母さんを。

「ルーク」

 どす黒く、その一方で抗えらない魅力をもった、明確な殺意。それが、ヘンデスさんの声で一瞬霧散した。

「強くなりたいか?」

 気付けば、ヘンデスさんは立ち止まっていた。遥か上方にあるその顔を仰ぎ見る。

「アンは、お前達に"普通"を望んでいた」

 "普通"とはいったい何なのだろう。

「だが、強くならなければ、お前達は死ぬ」

 その通りだ。さっきだってヘンデスさんの到着が少し遅ければ、俺は死んでいた。

「守るつもりではいる。だが、今の無力なお前達は守りきれない」

 すごく正直な人だと思った。自分の力量をしっかりと把握しているからこその発言であり、それだけあの少年が強いということ。

「さっきは追い払えた。だが、次は期待するな」

 次があると確信した声だった。
 次は俺が殺されるかもしれない。もしかしたら、アリスが殺されるかもしれない。
 想像の中で、動かなくなった母さんと、アリスが重なる。赤ん坊の泣き声と、アリスの泣き声が重なる。
 嫌だ、と瞬時に脳は答えを弾き出した。
 だって、アリスは本当に幼いんだ。死を理解出来ない、まだ生を謳歌していない、本当に唯の子供なんだ。我が儘ばっかり口にして、すぐ泣き喚いて、でも笑うととっても可愛くて、俺を好きだと臆面なく言ってくれるような、本当に憎たらしくて愛らしい妹なんだ。
 死んで欲しくない。殺されて欲しくない。もう、俺の人生を死という文字で汚されたくない。
 その為に必要ならば。

「強くなれば、アリスを守れるかな」

 母さんは、俺の目と鼻の先で殺された。暗殺者と対峙した時も、俺はただみっともなく震えていただけだった。俺は、何も出来なかった。限りなく無力だった。

「強くなりたい」

 言葉にしたら違和感があって、言い直す。

「絶対、強くなる」
「普通の、平穏な暮らしとは程遠い人生になる。覚悟は良いか?」

 母さんの望みとはかけ離れた人生。多分それは、前世の俺が送ったような人生を指すのだろう。
 けれど、そんな前世の俺は死の間際何も出来なかった。今回と同じように、ただ迫ってくる死を受け入れることしか出来なかった。
 ごめんなさい。心中で母さんに謝罪する。やっぱり、もう嫌なんだ。何も出来ず、無力感だけを噛み締め、その上で再び迫り来るであろう脅威をただ待つだなんて、耐えられない。

「強くなる、手伝いをしてくれる? ヘンデスさん」

 少しだけ不安だったので心持ち声が小さくなった。
 覚悟は出来ている。けれど、ヘンデスさんがこれからも俺達に付き合ってくれるだなんて盲信する事は出来ない。
 ヘンデスさんは地面に膝を付け、俺と視線を合わせてから口を開いた。

「約束だ。俺はお前達を強くする。次に彼が来た時も、力の限りお前らを守る。お前は、何をしても生き抜け」

 最後、短い言葉の裏に隠された意図を推し量る。
 何をしても生き抜く。それはあの少年を自らの手で殺す事か、それともヘンデスさんを囮にして逃げるという事態を想定しての事か。
 どちらにしても、簡単に頷くなんて出来やしない。

「約束出来るか?」

 それなのに、容赦なく返答を迫ってくるヘンデスさん。子供としてでなく、一人の人間として、覆しようのない意思を求められていると感じた。
 一度口にしたら、もう撤回出来ない。
 母さん。本当にごめんなさい。もう一度だけ謝って。

「約束する」

 強くなって家族を、アリスを守る。その為ならば、なんだって出来る気がした。


 アリスは公園の植木の中で蹲っていた。

「アリス!」

 微動だにしない姿が母さんと重なり、焦りと不安が険しい声となって飛び出した。

「お、にいちゃん?」

 間延びした声。目を頻りにこする様に、寝ていただけだと気付く。安心して、勝手に騙された事が恥ずかしくて、呑気に寝ていたアリスに理不尽な怒りがわいてきて、でもやっぱり生きているという事実に感謝したくなった。
 力が抜けて地面にへたり込む。アリスのとろんとした蒼い瞳が目の前にくる。

「アリス、お出掛けしよう」

 引っ越しの時の恒例の台詞。意味は伝わっただろう。一拍置いてこくんと頷き、けれどアリスは違和感に気付いてしまった。きょろきょろと辺りに視線が飛ぶ。

「母さんは?」

 母さんを求めて立ち上がろうとするアリスの手を両手で掴む。

「お兄ちゃん、痛いよ」

 普通にアリスが俺と喋っている。無視されない。
 多分、家出して寂しかったんだろうな。ヘンデスさんが迎えに来たけれどすぐ置いて行かれて心細かったんだろうな。だから迎えが来て、嬉しくて、家族を無視してた事なんて忘れちゃったんだろうな。
 すごく健全で、子供らしい思考を想像してみた。日常に、逃げ込みたかった。

「俺が伝えるか?」

 アリスの手を握ったまま黙りこんだ俺に、ヘンデスさんが救いの手を差し伸べる。その手を取るのはひどく容易い。お願い、の一言で良い。
 だけど俺は、俺が母さんの子供なんだから。俺が伝えなくてはならない。

「アリス、母さんは一緒に来ないんだ」

 アリスの元々大きな目が更に見開かれる。限界一杯まで広がって、これ以上無理ですって瞳に水の膜が張られる。膜から水滴がぼろぼろ生み出される。

「わたしっ。私がうそついたから。母さんおこった?」

 嘘とは何のことだろう。少し考えて、アリスの残した交換日記を思い出し、納得する。自分はこの家の子ではないと、家族を丸ごと否定した事を、悔やんでいるのだろう。
 違う。アリスのせいじゃない。伝わるように、しっかりと視線を合わせてから首を振る。

「違うよ。大丈夫。母さんはアリスの事、愛してる」

 伝言、確かに伝えました。
 だから、その後は俺の好きにして良いよね、母さん。

「母さんはちょっと遠いところにいる知り合いに会いに行ったんだ。母さんが大好きな人のところに」

 愛していた父親のところに、母さんは逝ってしまった。

「良い子にしてたらむかえに来てくれる?」
「もちろん」

 嘘を、ついた。
 アリスの為じゃない。四人揃った家族という幻想をアリスに押し付けたい、そんな自分勝手な、俺の為の嘘。
 俺はもう夢を見られないから。

「それまで俺の傍にいてくれる? アリス」

 卑怯でごめんなさい。でも一人になりたくないから、もう家族を失いたくないから、お願いだから騙されてくれと必死に祈る。

「お兄ちゃん、おこってない?」

 無視された事だろうか。

「全然怒ってない」

 逆に聞きたかった。日記を突き返したこと、怒ってないのか。

「私のこと、好き?」

 不安気に、上目遣いで此方を伺うアリス。
 笑え、と脳に指示を出す。泣くな、不審な行動をとるな、と必死に戒める。上手くいったか分からなかったから、誤魔化すようにアリスを抱き締めた。

「愛してるよ、アリス」

 母さんは最後、笑顔でこの台詞を言えたのだろうか。穏やかな表情をした最期を思い出して、胸が詰まる。
 俺は無理だ。自己欺瞞に満ちた愛の台詞しか吐く事が出来ないから。

「じゃあ私、ずっとお兄ちゃんと一緒にいてあげる!」

 明るさに満ちたアリスの言葉。
 アリスがいれば、この妹さえ"普通"でいてくれれば、それを守る為ならば、きっと母さんも許してくれる。
 何を許してくれるのかさえ明解には分からなかったけれど、漠然とそう思った。

「行くぞ」

 ずっと沈黙を保ち傍観していたヘンデスさんが動き出す。アリスの手を取って促す。
 早々此方に背を向けたヘンデスさんの元へ駆け足で追い付き、その手を無理矢理握った。

「今日だけ。お願いだから」

 子供っぽい自分に、羞恥心が込み上げる。
 けれど今日は、今日だけは、誰かに導いて欲しかった。
 何も言わずにヘンデスさんは俺を見下ろし、そして荷物を持ち直してから歩き出した。俺と繋いだ手はそのまま。
 有難う、と不器用な優しさに心中で感謝する。

 右手に小さなアリスの手。左手に大きなヘンデスさんの手。歩きにくかったけれど、その温もりにすがって、ただ足を動かした。母さんを置き去りにして。


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