逃亡生活



 あれから小さな街に辿り着いた。そこで初めて、今まで住んでいたところは治安が良かったのだと知る。
 汚物の臭い。路上を住みかとした人々。補修した跡がない崩れそうな住宅群。前世の時、スラム街といって想像するような、そんな街。世界が違ってもこういうところは変わらないのだと感じながら、それでも遠い世界だと思い込んでいた自分の甘さを思い知る。
 そして生活水準もぐっと下がった。
 今までのようにベッドもふとんもない。寝る時は正体不明の染みがついた床に横たわり、アリスと一枚の毛布を分け合う。ヘンデスさんは自分の上着で我慢しているから文句なんて言えない。
 食事は一日三回から二回へ。朝固いパンを食べて、夕方はパンと意外にも手慣れた風でヘンデスさんが作るスープの二品。甘い物を食べられない事へ不満を持っていた以前の生活が懐かしい。
 時々ヘンデスさんは外出し、お金を持って帰って来る。真っ当に働いているとは思えない額のお金を持って。

 我が家の秘密を知って、逃亡生活は嫌だと思っていた。けれど、違った。今までの生活は、少しでも普通で平穏な暮らしに近付けようという母さんの必死の努力の上に成り立っていたのだ。外に出られないなんていう不満がとてもちっぽけなものに思えてくる。家族で笑って暮らせた幸福を、なくなって初めて思い知る。
 今まで朧気だった敵が実体を成し、母さんという犠牲を出して。
 俺達の本格的な逃亡生活は幕を上げた。


 もう一つ、今までの生活と大きく変わったことがある。

「もう嫌だ!」

 体力作り。実戦訓練。強くするとの言葉通り、ヘンデスさんは俺達を鍛え始めた。そう、俺とアリスを。
 指示されたのは、俺は腹筋背筋腕立て二百回ずつ、アリスは百回ずつ。アリスも十回ずつ三セットまでは頑張った。だが、今までの引きこもり生活の弊害で絶望的なまでに体力がない。俺は健康の為に軽く体力作りをしていたからまだついていけるけれど。

「ヘンデスさん」

 泣きが入っているアリスはもう勘弁してやってくれ、という哀願のこもった呼び掛けは、すげなく無視された。
 ヘンデスさんは睨み付けてくるアリスの敵意を意に介さず、淡々と話しかける。

「母親と会いたくないのか?」

 完全に家族ごっこを放棄したヘンデスさんの物言いは、ひどく冷たい。
 そしてアリスのヘンデスさんへの対応も日に日に剣呑さを増している。

「あんたには関係ない!」

 汗にまみれながら、酷使したせいでがくがくと震える腕を必死に持ち上げながら、アリスは叫ぶ。

「まだまだ元気だな」

 ヘンデスさんは幼稚な怒気をさらりと受け流す。そのままアリスに背を向けたのだけれど。

「良い子にしていれば母親が迎えに来るんだろう?」

 ぽつりと水面に餌を投げ込むように、無造作に、ヘンデスさんはアリスへと希望を落とした。俺の嘘を前提とした脆い希望を。
 アリスはヘンデスさんの背中を睨み付け、思いっきり舌を出してから体力作りに戻る。静かに一点を睨み付け、黙々と腹筋を再開するアリスの様子に嫌な感じを覚えた。

「アリス。少し休む?」

 相当ストレスが溜まっているだろう。幼い身体にかかる負荷を思い、声をかけたのだが。
 アリスは身体を動かしながら荒い呼吸の合間、声を発する。

「良い子にっ、してたらっ、母さんっ、来るもん!」

 必死なその様子に何も言えなくなった。


「ヘンデスさん」
「終わったか?」
「うん。アリスはもうちょっとかかりそう」

 別室で新聞を読んでいたヘンデスさんは、煙草を消して立ち上がる。

 逃亡生活が始まってから、母さんが死んでから、ヘンデスさんは煙草を吸い始めた。今までも俺の知らない所で吸っていたのかもしれない。
 真相は分からないけれど、煙草を吸うという行為だけで今までと別人のように感じてしまう自分がいる。自分の知るヘンデスさんがとても限定的なものだったという事実を突き付けられているようで、少し嫌だ。
 本人には決して言えないけれど。

「好きにやれ」

 始まるのは実戦訓練。俺が攻撃を仕掛けて、ヘンデスさんはそれを避けるだけ。反撃は来ない。
 それでも俺はヘンデスさんに一発入れる事さえ出来ない。

「相手の動きをよく観察しろ」
「直線的な攻撃だけじゃ駄目だ」
「軽過ぎる。体重をもっと乗せろ」
「脇を締めろ」

 次々と指示が飛んでくる。未だ褒められた事は一回もない。ただ、厳しい視線を向けられるだけ。
 これも、新たなヘンデスさんの一面だ。今までの無口ながら穏やかな優しさを見せていたヘンデスさんが、この時ばかりは別人に変わる。少し雰囲気が母さんを殺した少年に似てくるから、この時間のヘンデスさんは苦手だ。

「今日は終わりだ」

 結局全ての攻撃が防がれ、へとへとになった頃終了の声がかかる。

「アリスを連れて来い」

 瞬間身体が強張る。毎日行われる日課だからこそ、与えられるだろう痛みを勝手に身体が予想して身構える。

「はい」

 無い気力を振り絞って、アリスの元へ向かう。
 アリスは全身汗まみれで俯せに倒れていた。

「アリス!」

 走り寄ればアリスは視線だけを此方に向けて笑った。

「百五十回ずつやったの。私えらい? 良い子? 母さんほめてくれるかな?」

 ふうと息を吐いて、込み上げたやりきれなさを、罪悪感を逃してやる。そうしてからでないと、アリスの顔を見られなかった。

「アリスは偉いな。すっごく良い子だ」

 髪をすき、表情筋を駆使して笑みを作った。つられたように、アリスも笑う。それだけで、嬉しくなる。俺は、俺達は、まだ笑える。

 アリスに手を貸して、ヘンデスさんの元へと戻った。アリスは、再び親の仇を見るような殺気をこめてヘンデスさんを睨み付けている。

「ルークからいくぞ」

 宣言が入り、ヘンデスさんが素早く動く。顔だと判断して両手を顔の前に組み合わせて防ぎ、衝撃を逃がす為タイミングを合わせて後ろに飛ぼうとした。が、その拳は寸前で軌道が変わり、胸部に衝撃が走る。
 予想していなかったからか、壁まで吹っ飛んだ。

「甘い。次はアリス、いくぞ」

 朦朧とする視界に、腹部への攻撃を受けて咳こんでいるアリスが映る。尻餅をついているが、それは体力が尽きたせいだろう。まだヘンデスさんを睨み付けているあたり、上手い具合に衝撃に備える事が出来たようだ。

 こうして、最後にヘンデスさんは一発ずつ俺達に攻撃を加える。気絶させないぎりぎりの力加減。
 始めの一週間は何処を攻撃するか宣言され、箇所に応じた受け身の取り方を教わった。次は宣言なく攻撃されるようになり、ヘンデスさんの動きを予測して受け身を取るよう反射神経を鍛えられた。
 一ヶ月毎日されたお陰で直線的な攻撃には対応出来るようになったのだが。今日からは俺に対してフェイントが入ってくるらしい。最近漸く身体が綺麗になってきたのに、明日からはまた暫く痣や内出血が絶えない生活となりそうだ。悔しいが、このフェイントを明日からの組み手で使ってやって絶対ヘンデスさんに一発入れてやろうと心に誓った。

 最後の一撃を受けたら訓練は終了。アリスと一緒にシャワーを浴びる。

「髪洗うよ」

 自分でもどうかと思うが、アリスの髪を洗うのが最近数少ない癒しとなっている。
 従順に頭を預けて来るアリスの茶色の髪を優しくシャンプーでこする。
 この生活を始めた当初は石鹸しか無かったのだけれど、シャンプーが欲しいな、と呟いたのをヘンデスさんが聞いていたのか、次の日には机の上に安物のシャンプーが置かれていた。そういうところ、ヘンデスさんは本当に優しいんだ。だから、貧しい生活にも厳しい訓練にも耐えてしまう。
 アリスの身体に多く残る痣を見れば悲しくなるけれど、決してアリスの顔には傷を付けないというヘンデスさんの無言の気遣いが透けてみえるから、憎めない。
 ただ、時々思う。この生活はいつまで続くのだろう。アリスは、いつまで"普通"のままでいられるのだろう。

「アリス。辛くない?」

 絡まった髪を丹念に解きほぐしながら、問いかけた。
 辛い、と言って欲しかったのかもしれない。甘えて欲しかったのかもしれない。何故なら、それが俺の考える"普通"の子供だから。
 けれどアリスは自分の身体を洗いこすりながら、何でもないような口調で答えた。

「んー。お兄ちゃんいるから平気」

 純粋に、嬉しかった。嘘を付いて、後ろめたい事を抱えて、それでもアリスには求められている。必要とされている。アリスを守るという目的を、保っていられる。それが堪らなく嬉しい。
 アリスは唐突にくるりと回り、俺を正面から見詰めてきた。まだ背丈は全く変わらないから、視線がかちりと合う。目前でアリスはにやりと意地悪く笑う。

「分かった! お兄ちゃん寂しいんでしょ? 母さんに会えなくて寂しいんだ!」

 勝ち誇ったように胸を張るその姿が、愛しかった。もう二度と母さんには会えないという真実を知らないこそ、見せる天真爛漫な姿。それをずっと見ていたいからこそ、俺はまだアリスに真実を告げられない。

「うん。寂しいんだ」

 だけど、口にした感情は本物。慰めて欲しいな、という醜い下心を、アリスは正確に読み取ってくれた。

「もう。私がいるでしょう? 一緒に良い子で母さんが迎えに来てくれるの、待ってようね」

 お姉さんぶるアリスの台詞に、安心して、申し訳なくなった。

「うん。そうだった、アリス。一緒に待とう」

 それからくるりとアリスの身体を回し、水かけるよ、と一言注意してから髪についたシャンプーを洗い流した。そこら中水滴が跳ねているから、泣いてもバレないよな、と溢れ出る涙をそのままにする。

 この時間が堪らなく好きだ。
 アリスと触れ合えるし、一杯話せるし、泣いても良い。
 俺の癒しの時間。


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