悪事



「今日は別メニューだ。アリスはいつもの体力作り。ルーク、お前はついて来い」

 コートを着込み、俺にも子供用のコートを渡しながら、ヘンデスさんはそう宣言した。
 アリスを一人置いて二人で出掛けるのは初めてだった。不安と不満が表情に出ていたのだろう。一つ溜め息をもらし、ヘンデスさんは言葉を付け足す。

「中にいれば安全だ」

 それでも素直に頷けない自分がいた。
 だって母さんは、家の中で。俺は何も出来なくて。
 押し黙った俺に何を言っても駄目だと思ったのか、ヘンデスさんは即座に標的を変更した。

「アリス。良い子なんだからもう一人で留守番出来るな?」

 それは魔法の言葉だ。"良い子"というキーワードは、母さんの帰りを一途に待ちわびるアリスに対しててきめんの効果を発揮する。
 案の定アリスは敵意剥き出しに、それでも留守番を頼まれたのが嬉しいのか少し誇らし気に頷いた。

「それくらい出来るもん!」

 ほらみろとでも言わんばかりに、ヘンデスさんが意味ありげな流し目をくれる。
 俺の思いを分かっているはずなのに。アリスの前で母さんの話題を出せない事だって分かっているくせに。

「分かった」

 むっつりと、不満をありありと乗せた不貞腐れた声での同意。アリスへの対応で予想はついていたが、ヘンデスさんは無反応で、後をついて来いとばかりにさっさと背を向けた。

 家を出て、アリスがいなくなって初めて不満を明確に口にする。

「ヘンデスさん。アリス、本当に大丈夫なの?」

 知らない間に妹が失われてしまうこと。俺の目の前で妹が殺されること。この二つが、今の俺にとって最大の恐怖だ。

「まだ大丈夫だ」

 確信に満ちた声だった。絶対に大丈夫だと信じてしまう。それならば、良いのだけれど。
 しかし、それと同時に新たな疑問が沸き上がった。"まだ"とはいつまでを指すのだろう。何でヘンデスさんはそんな事が分かるのだろう。彼はまだ俺に言っていないことがあるのではないか。
 それらを言葉にしようとした直前、ヘンデスさんが立ち止まる。高いところから見下ろされる。
 これは真剣な話をする合図だと経験で分かっていたから、気を引き締めた。

「ルーク。お前は子供でいたいか?」

 案の定の重い質問。今更だと思ったが、すぐにその考えを否定した。
 俺は自分を一人前だと、アリスを守る存在だと捉えていたけれど、それと同時にまだヘンデスさんに守られている。甘えている。その甘さをこれからは許さない、そういう意味なのだろうか。

「今ならまだ戻れる。ルーク。俺は、お前を大人として扱って良いのか?」

 真っ直ぐな視線。いつもと同じ無表情。芯の通った固い声。それらとは裏腹に、不思議と迷いを感じた。
 ヘンデスさんの方も俺を扱いかねている。前世の記憶があるなんていう変な子供。賢しい面がある一方で、子供っぽく家族に依存している。もしかしたら、よくシャワーを浴びながら泣いている事にも気付かれているのかもしれない。
 大人として接したら良いのか、子供として接したら良いのか、ヘンデスさんも迷っている。そんな事に、今更ながら思い至った。
 本音を言えば、子供でいたい。守られて、思う存分不安も不満も吐き出して、慰めて欲しい。まだまだ頼らせて欲しい。
 けれど、前世の記憶がそれを阻む。中途半端に現実を見てしまい、子供でいる事の弊害を考えてしまう。真実を知らせてもらえない。大事な場面で大切なものを守れない。そんな無力な子供でいる事を、俺は拒否したい。

「大人として、接して下さい」

 今日から一切ヘンデスさんに甘えられなくなるかもしれない。泣くことも出来なくなるかもしれない。弱音も愚痴も、吐き出すことさえ出来なくなるかもしれない。
 覚悟しよう。決意しよう。けれども、一つだけ譲れない我が儘があった。

「でも、お願いだから。アリスだけは、子供でいさせて下さい」

 妹だけは、子供でいて欲しい。それを確約してくれれば、頑張れる気がした。

「分かっている」
「約束して」

 強く主張すれば、ヘンデスさんは苦笑い。
 信用してないわけではないが、約束の方が信頼度は格段に上がる。特にヘンデスさんに対しては。

「約束だ」

 言質を取って、漸く安心出来る。

 それから再びヘンデスさんは歩き出した。その後ろを小走りでついて行き、辿り着いたのは人通りの少ない路地裏に位置するぼろい一軒家。

「黙ってついて来い。足音も立てるな」

 ヘンデスさんは返事も確認しないまま、すたすたと荒れ果てた庭に侵入する。慌てて追い掛けたけれど、頭にある単語が浮かんだ。
 不法侵入。
 がちゃっと割合大きな音を立てて窓ガラスが割れる。予想していなかったから肩が跳ねた。そんな俺をよそに悠々と、割れて出来た穴から手を入れて鍵を開けるヘンデスさん。
 不法侵入よりも適切な単語が思い浮かび、口から漏れ出る。

「泥棒?」

 静かにしろとばかりに睨まれて、反射的に口を覆ってしまったのだが、明らかに泥棒だ。しかも、泥棒の片棒を担がされる予感がする。
 一応、前世では犯罪とは無縁の二十六年だった。一体何が起きているのだろう。八歳の誕生日を迎えてから三ヶ月弱で色々と危ない経験を積み上げている気がする。行ってはいけない方向に突っ走っている気がする。
 静かに窓を開けて侵入を図るヘンデスさんに、俺も続くべきなのか。これが大人として扱われるということなのか。犯罪行為に加担することが大人だとでも言いたいのだろうか。
 自問し、答えはすぐに出てきた。違う。間違っている。どう考えたってやっぱり犯罪は犯罪だ。
 前世で平和な暮らしを営んできた二十六年、そして母さんの元で暮らした八年、そこで培ってきた常識が俺に叫ぶ。犯罪はいけませんよ、と。悪いことしようとしている人がいたら止めてあげましょうね、と。

「ヘンデスさん!」

 制止のためあげた大声に、ヘンデスさんは億劫そうな仕草で振り返り、窓から引き返してくる。
 そして、いきなり殴られた。拳は見えなかった。ただ、何が起こったか分からない内に右の頬に衝撃が走って、庭の植木に背中から突っ込む。結構な距離を飛ばされたはずなのに、何時の間にかヘンデスさんが目の前にいて、襟ぐりを掴まれる。
 至近距離で目の合ったヘンデスさんは、何の感情も窺えない、まるで暗殺者の少年のような空っぽの瞳をしていた。

「アリスの身体を売るか?」

 言葉の意味が理解できなかった。

「小さい身体を好む下種野郎は腐るほどいる。それともお前が身体を売るか?」

 身体を売るという言葉が右から左へとすり抜けていく。平時ならすぐに理解できるだろうに、混乱した思考はひたすら空回る。

「ア、アリスは駄目」

 分からないながら、拒否しなければいけないと感じた。きっとこれは悪いことだ。アリスを巻き込んではいけない。

「じゃあルーク。お前がホモ野郎に身体を売るか?」

 やっとその意味を理解する。それは、売春だ。アリスについて拒否して良かったと安堵する一方、自分が身体を売るということの意味を考える。その場面を想像して、想像しきれなくて、ただ気持ち悪いと感じた。反射的に首を振る。

「なら文句は受け付けない。ついて来い」

 やっぱり意味が分からなかった。けれど、恐怖に突き動かされて機械的に身体を動かした。
 ただただヘンデスさんが怖かった。今までの訓練中の攻撃は強くなる為という目的があったけれど、さきほどの攻撃は、あれは本当にただの暴力だった。俺を黙らせる為だけにふるわれた暴力。威力自体は訓練時と同じくらいだったのに、そこにこめられた意味に気付いてしまったからこそ、身体が勝手に萎縮する。何か言えばまた殴られると本能が怯えてしまう。

 慣れた様子で家の中へと侵入したヘンデスさんは、台所まで来て強引に俺に袋を持たせた。

「好きな物を入れろ。持てる範囲でな」

 そして金目のものを探しにか、消えたヘンデスさん。
 一人きりになった空間で、堪らずへたりこんだ。泣きたかった。泣いて、許しを請いたかった。悪いことしてごめんなさい。いるかも分からないし、普段信じてもいないけれど、神様助けてと叫びたくなった。

「もう嫌だ」

 ぽつりと独り言がもれる。誰にも聞かれていないと分かるからこそ、吐き出した本音。
 限界だった。母さんが殺されて、不便な生活を強いられて、アリスに嘘をつき続けて。そんな生活の中ずっと悲鳴をあげていた心を、初めて正面から認めてやる。

「でも」

 やっぱり見ないふりをした方が良いのかと迷う。
 だって、大人として扱えと約束をしてしまった。俺が我慢すれば、いや、我慢しなければアリスに皺寄せがいくかもしれない。さっきヘンデスさんが仄めかしたように、アリスが酷い目に合うかもしれない。
 辛いけれど、苦しいけれど、アリスの為ならば何をしても構わない。悪いことだけれど、犯罪だけれど、今はヘンデスさんの言うことを聞かなくては生きていけないのだ。もしアリスと二人投げ出されたら、それこそ身体を売る羽目に陥るかもしれない。それを防ぐ為だから、仕方ない。そう言い聞かせて弱い心を封印する。
 アリスだけは汚したら駄目だよね、母さん。最後にそう心の中の母さんに問いかけて、無理矢理想像上の母さんを頷かせる。
 途端にせりあがってきたのは罪悪感だった。

「ごめんなさい、ごめんなさい。母さん、ごめんなさい」

 母さんを汚してしまった気がした。母さんの望みは違った。俺とアリスに同じように愛を注ぎ、同じように普通で平穏な暮らしを望んでいた。決して母さんは、今の俺を喜ばない。
 頭では分かっていたけれど。

「どうしたら良いの」

 何をすれば正解なのだろう。ここから逃げることか。アリスを連れてヘンデスさんから離れるということか。けれど、果たして俺一人で暗殺者からアリスを守れるのだろうか。
 無理だ。俺一人じゃアリスを守れない。だって俺はすごく弱い。あの少年が目の前にいるのを想像して、想像上の彼に身体が震え上がるくらいに弱っちい存在だ。
 じゃあ、ヘンデスさんの犯罪を手伝うのが正解なのだろうか。盗人になり、悪事を犯すことが正解だというのか。
 前世、空き巣に入られた事があった。独り暮らしを始めたばかりの頃、家に帰ったらそこら中に物が散乱して、通帳が盗まれていた。警察を呼んで、銀行に確認したら全ての金が引き落とされた後だった。真っ当に稼いだ金だった。苦しい思いをしながら、幾度も会社を辞めたくなりながら、それでも必死に、それこそ汗水垂れ流して働いて得た金だった。それが一夜にして失われた。一年後、犯人は見付かった。ただ金が欲しかった、そう犯人は動機を話したという。真っ当に働けよ、と叫びたくなった前世の俺。
 その犯人と同じところまで堕ちなくてはならないのか。何の為に。生きる為? 本当に? もっと別の手段があるはずだ。逃亡生活中だから継続的な仕事は無理かもしれない。しかし短期ならば可能だ。肉体労働だって別に構わない。何故か前世より筋力がつきやすく、今の俺は普通の大人並には力持ちだ。
 大丈夫。まだ、"普通"の思考回路が繋がっている。俺は正常だ。そう確認して、やっと一息つけた。身体の震えがゆっくりとおさまっていく。そして漸く周囲の状況を確認する余裕が生まれた。

 ごみで溢れかかえった台所。けれどシンクには水につけられた汚れた食器と、洗って乾かしている食器があり、生活臭がある。誰かがここで生活をしている。やっぱり、その生活を壊すことなんて出来やしない。
 手をつけず、ただ辺りを見渡す。と、一つ目についたものがあった。床に無造作に置かれた食材の中、転がったプリン。
 母さんがよく作ってくれた。材料費があまりかからず、手早く作れる甘いもの。そういえばこの前の誕生日にも食べたな、と思い出して、その時見たアリスの満面の笑みを最近見ていないと気付く。
 吸い寄せられるように、手が伸びた。まるでプリンが平和の象徴のように思えて。それを手に入れれば、持ち帰ったらアリスの笑顔が戻ってくるんじゃないか、そんな風に思えて。

 欲しい。

 そう、確かに欲望が芽生えた時だった。
 玄関の方からがちゃっと扉が開く音が聞こえて慌てて手を戻す。腰を浮かせて侵入者に備える。
 ではなくて、侵入者は俺の方だ。でも俺は"まだ何も盗ってない"のだから悪くはない。ああ、でも盗ろうとか一瞬くらいは考えたかもしれないけれど。そうじゃなくて不法侵入した時点で既に犯罪だ。じゃあ一個くらい罪状増えても、プリン一個くらいなら別に、じゃなくて!
 混乱している。どうして良いか全く分からない。早くヘンデスさん戻って来てよと祈るのに、その気配は欠片もない。隠れなくてはと思うのに、身体がすくんで動かない。そうしている内に乱暴な足音が近付いてくる。そして、音の主は姿を現した。

「あ? 何でこんなところに餓鬼がいやがんだ?」

 街でよく見る柄の悪そうな男。両手をポケットに入れたまま睨まれる。

「ご、ごめんなさいっ」

 反射的に出たのは謝罪だった。頭を下げて、ただただ縮こまる。
 すっと男が目前に座り込んで、強引に顎を掴まれた。上向かされて、首が痛む。

「殴られたのか?」

 存外に優しい声。呆気に取られている内に、男は勝手に話を進める。

「親か? ひでえ親だなあ。家出でもして来たか?」

 俺を殴った親代わりは今頃上で家捜ししてますなんて言えるわけがない。結局沈黙を選択した俺の頭を男は乱暴に撫で回して。

「っが」

 何の抵抗も出来なかった。ヘンデスさんのいつもの攻撃より数段スピードの劣るそれ。頭を殴られると分かっていたのに、至近距離故か。それとも、それまで普通に会話をしていたからか。何の躊躇いもなく、殴られた。
 ついで、倒れた身体に追い討ちをかけるように、側頭部を足で踏まれる。耳が、首が、やけつくように痛む。

「勝手に人の家入ってんじゃねえよ、くそ餓鬼が」

 ごめんなさいって謝ったのに。そんなに俺が悪いのか? 悪いかもしれないけど、こんな風に暴力ふるわれるほど悪いことをした?
 頭の中を疑問符が巡る。不法侵入した己を棚にあげ、痛みは現実を錯覚させる。これは理不尽な暴力なのだと。

「ああ? 聞いてますかあ?」

 ぐりぐりと汚い床に頭を擦り付けられる。反射的に涙が出て来て、醜く滲んだ視界にプリンが映った。
 アリスの笑顔が脳裏に浮かんで、俺が今ここで死んだらアリスは泣くだろうな、なんて考えた。
 嫌だ。死にたくない。こんな所で何も出来ずに死んでいくなんて耐えられない。

「無視してんじゃねえよボケ!」

 腹を蹴られて床を滑り飛ばされた。散乱した物に当たって、あちこち痛い。
 嫌だ。死ぬ。殺される。
 再び迫ってくる男に、そんな恐怖がせりあがってくる。
 手が何かを求めて床をさ迷った。手の甲に何かが当たる感触。何も考えず、それを握りこみ、立ち上がって、駆けた。

 身長差があるから、狙うのは下半身。急所は身体の中心線。一直線にいったら避けられるから、フェイントを入れる。
 ヘンデスさんに嫌という程叩き込まれた知識が一気に頭の中を駆け巡る。脳が勝手に身体へと指示を出す。
 男の急所、股間を狙い手に握った物を突き出す。一瞬固まった男の身体を通り過ぎ際、横から脛に何かを思いっきり振り下ろして。前屈みになった男の後頭部を狙い、手を振り上げ、そして落とす。
 ごつん、と音をさせて男は俯せに倒れた。ぴくりともしない身体。自分の荒い息遣いだけが静かな部屋に響く。
 ころした?

 がくがくと腕が震えた。今頃になって、感触が甦る。殴り付けた瞬間、腕に走った鈍い衝撃。人を殴った、確かな感触。
 知らなかった。人がこんなに簡単に倒れるなんて。だって、ヘンデスさんは幾ら攻撃しても全て難なく防いでしまうから。だから、全力でいったのに。

 俺は、人を、殺したのか?


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