盗みと殺し



 呆然と男を眺めていた。どのくらい経ったのか、時間の感覚が掴めない。

「ルーク」

 声がして、身体が大袈裟に反応した。見開いた目に映ったのは、いつもの無表情を張り付けたヘンデスさん。彼の視線が床に倒れた男へと移る。
 怒られる。何故かそれを恐れて身体を縮こませた。
 無言のままヘンデスさんは男の傍に跪き、その頭を無造作に持ち上げる。

「息があるな」

 その台詞に、どれだけ安堵した事だろう。
 卑怯だけど、問答無用で攻撃しておいて自分でもどうかと思うけれど。死んでいない、それだけで全てが解決してしまったような安心感が訪れた。

「良かっ」

 た、と口の中で音が消える。今この瞬間、目にした光景が信じられなかった。
 無造作に、まるで人形の首を捻るように、ヘンデスさんは男の首をねじ曲げて、そのまま床に投げ捨てた。
 ひくひくと痙攣したように男の身体が跳ねている。首が、有り得ない方向を向いている。

「な、んで」

 何で殺したの。生きていたのに。ヘンデスさんがその生を認めたのに。だから、俺は安心したのに。
 ただ呆然と見つめた先で、ヘンデスさんは何でもないことのようにさらりと理由を口にした。

「顔を見られた」

 俺のせいで彼は殺されたというのだろうか。たったそれだけのことで。
 今日のヘンデスさんは、訳の分からない発言ばかりする。次々と意味の分からない行動するから、俺は置いてけぼりだ。

「随分手酷くやられたな」

 すっと頭に手を乗せられ、反射的に跳ね退けた。嫌だった。人殺しの手、そんな事を考えてしまった。

「血が出てる」

 それが、何だというのだろう。だから、何だというのだろう。

「何で殺したの?」

 再び問いかける。さっきの理由じゃ納得出来ない。もっとマシな理由を寄越せと、睨み付ける。
 ヘンデスさんはちょっと困ったように頭を傾けた。

「手当てをしたいんだが」

 通じない会話に苛立ちがこみあげる。それをぶつけるように、腹の底から声を張り上げる。

「答えろよ!」
「うるせえ黙れ!」

 倍の迫力で一喝され、びくりと震えた。怒気に身体がすくむ。
 もう何がなんだか分からない。生理的な涙が出て来て、拭った手を見れば赤くぬめっていて、また身体が震えた。恐る恐る頭に手を伸ばすと右側頭部に傷ができていたようで、当たった瞬間ずきりと痛む。
 怪我をしていたのを身体が思い出したかのように、今まで何で痛まなかったのか不思議なくらい、意識したら断続的に痛みが襲ってきた。

「痛い」

 ぽつりと漏らせば、あからさまに溜め息を吐かれ、何処から取り出したのか包帯を巻かれた。
 その間も視線は吸い寄せられたように、死んだ男から離れない。

「手、離せ」

 言われて初めて左手を見た。しっかりと、持てる限りの力で握っていたそれは、麺棒だった。
 男を殴った凶器。
 そう思った瞬間、途端に恐ろしくなって放り出す。からんと間抜けな音を立てて麺棒は床を転がっていった。それを目で追えば、視界にある物が映る。

「プリンが」

 衝動的に口にした。

「プリンがあったんだ。それで、その人が帰って来て、家出かって聞かれて、殴られて、蹴られて」

 怪我を負った経緯を説明したいのか、攻撃を加えるに至った理由を正当化したいのか、自分でも分からなかった。
 ヘンデスさんは一つ頷き、プリンを拾いあげる。それを手渡された。

「アリスが喜ぶ。良い兄貴だな」

 違う。そんな言葉をもらいたいわけじゃなくて、褒められたいわけじゃなくて。
 血がだらだら流れて貧血になっているのか、なかなか思考は纏まってくれない。

「盗んじゃ駄目だよ」

 殺しちゃ駄目だよ、とは言えなかった。だって、もう死んでるから。もう遅い。

「行くぞ」

 無視された。
 それ以上抗うことが出来なかった。何かを考えることを頭が拒否し、死体を置き去りにしたままヘンデスさんに付き従う。

 家を出てから、気付いてしまった。プリンを手にしたままであるという事実に。置きに戻ろうか少し迷う。
 それを見透かしたようにヘンデスさんが口を開いた。

「盗みは嫌か?」

 こくりと頷く。

「殺しは嫌か?」

 嫌とかそういう感情以前の問題なんだけれど、言って伝わるとは思わなかった。
 だって、慣れていた。ヘンデスさんは殺しに慣れている。それがありありと分かる、流れるような躊躇ない手付きで首の骨を折っていた。

「自首とかした方が良いんじゃ。俺が殺したようなものだし」

 罪は償わなければ。そうでないと、母さんに申し訳が立たない。アリスの元へも帰れない。そう、感じたのに。

「自首、か」

 ヘンデスさんは一拍置いて続けた。

「刑期は何年になるか。五百年はいくかもな」

 だから、俺の知ってる言葉で喋って欲しい。やっぱり意味が分からない。

「俺は、盗人だ」

 そうなんだろう。漠然と納得する。彼の行動はあまりにも滑らかで、手慣れていた。

「人も沢山殺した。数なんて一々数えてない」

 けれども知りたくなかった、そんな事実。

「真っ当な職には付けない。俺は、こういう方法しか金を稼ぐ手段を知らない」

 言い訳としか思えなかった。悪い事をしなくては生きていけない、なんて怠慢だ。楽な方楽な方へと流されて生きた当然の結果だ。きちんと罪を償って、そしたら社会復帰する機会があるはずなのに。

「俺が普通に、まともな生活を送れて、自分も人間だと実感出来たのはゾルディックに雇われてからだった」

 それはただ悪い奴らで集まって、ちんけな仲間意識を持っていただけなんじゃないだろうか。
 ささくれだった心が無意識に毒を吐く。
 だって、理解出来ない。したくない。そんな理由で殺しを肯定なんて出来やしない。

「あいつも、それを分かっていたはずなんだがな。何で俺なんかに子供託したんだか」

 独り言のような響きだったけれど、父親の事を言っているのだとすぐに分かった。
 俺も同感だ。顔を見たこともない父親を恨みたくなってくる。何であんたは呆気なく死んじゃって、今俺達を守ってくれないんだ、と。

「何を、約束したの?」

 ちょっとした興味だった。父親が、何を残したかったのか。平和ボケした事だったら呪ってやる。そんな詮ない事を考えた。

「アンに、夢を。子供には、生を」

 短い言葉だった。
 そんな、そんな。
 その後にどんな感情がくるのか自分でも把握出来なかった。ただ、やるせなさだけを理解する。
 母さんは、夢を見れたのだろうか。平和な、死とは縁遠い生活を、満喫できたのだろうか。真実を覆い隠し、家族三人で笑顔に包まれた暮らしを送って、あれで満足だったのだろうか。

「アンは、あれで幸せだった。お前達より先に死ねた」

 それは、果たして幸せだったと言えるのか。

「あとはお前達を守り、自分達で生き抜く術を教える。それが俺に残された約束だ」

 絶対に父親は人選を間違っている。犯罪行為を教えられてもちっとも嬉しくなんかない。

「普通で、平穏な暮らしは?」

 約束に入っていないのだろうか。
 真っ直ぐ前を向きながら歩き続けるヘンデスさんの横顔を見上げながら、問いかける。

「それはアンの夢だ。あいつの方が現実を見ていた」

 夢、なのか。それは実現不可能な虚像なのか。
 納得できない想いが、捨てきれない期待が、口からこぼれ落ちた。

「アリスにも、夢を与える事は出来ない?」

 出来ると言って欲しかった。母さんからは夢を、父親からは生を、アリスにだけで構わないから与えて欲しかった。

「お前次第だ、ルーク」

 結局そこに行き着くのか。

「俺は務所には入らない。そんな事したら一生出られない。約束を守れない。お前は自首するか? ルーク。そしたら俺はアリスに現実を教え込むまでだ」

 駄目だ。アリスには夢を与えなくては。

「俺」

 決断を迫られている。夢見る子供でいるか、厳しい現実に対峙しなければならない大人になるか。
 ふうと息を吐く。酷いよな、本当。なんでろくな選択肢がないんだろう。
 楽な方に流されようとしていないか、自分。後悔しないか、自分。確認して泣きたくなる。答える前から後悔してるし、何かに喚き散らしたい気分だ。
 それでも、悔しいけれど、認めたくないけれど、今の無力な俺にはヘンデスさんが必要なんだ。

「殺しは嫌だから」

 せめてもの境界線を引く。自分の中で最低限のライン。

「盗むのも、必要最低限しか駄目だから」

 そんなこと、被害者にとっては関係ないだろうけれど、それでも主張したかった。

「ヘンデスさん。俺、いつかさ、アリスが一人で生きていけるようになったら自首するよ」

 犯罪は犯罪だ。それを俺自身に、そしてヘンデスさんに確認したかった。

「好きにしろ」

 それが答え。ヘンデスさんの背を真っ直ぐ見据える。ゆらゆら揺れる大きな手を見ても、すがりたいとは欠片も思えなかった。


「お帰り!」

 家に帰れば、元気な声に迎えられる。ぱたぱたと勢いの良い足音が近付いてくる。
 たったそれだけの事で安心してしまって、ついさっき人の死に直面したというのにもう和んでいる自分が嫌になる。
 けれど、そんな沈鬱な気分もアリスの叫び声で散らされてしまった。

「あー!」

 大音量と共に指さされたのは、俺。

「ほっぺはれてる! しかも包帯! 血! どうしたの? そこの男に虐められたの?」

 そういえば、と自分の格好に思い至った。
 ヘンデスさんに殴られた頬は醜く腫れているだろうし、汚い床に転がされたから服も酷い有り様。極めつけに頭に巻かれた包帯には血が滲んでいる。
 どうしよう、と朦朧する頭を必死で働かせた。

「訓練、してた」

 横にいるヘンデスさんにじとりと睨まれる気配。罪をなすりつけてごめんなさい、と小さく心の中で謝っておく。
 でも頬はヘンデスさんだから丸っきり嘘っていうわけでもない。アリスに睨まれて怒鳴られるくらい、我慢して欲しい。

「馬鹿! お兄ちゃんに何してんのよ! このきちく! 鬼! ふぬけ野郎!」
「アリス」

 止めたのは、ヘンデスさんへの罪悪感が原因ではない。

「何処で覚えたの? そんな言葉」

 俺は決して教えていない。断言出来る。もしやヘンデスさんが、と横目で睨み付ければ、軽く首を横に振られた。
 アリスは唇を尖らせながら言い訳を口にする。

「窓の外から色々聞こえるんだもん。私のせいじゃないもん」

 思わず舌打ちした。治安の悪さがこんなところに影響を及ぼすとは。俺の可愛い妹が不良になったらどうしてくれるんだ。
 憤りを覚えて、それから、不意に泣きたくなった。
 些細な会話。家族が非行に走るんじゃないかと心配する。そんな本当に些細な、ある意味で平和なやり取りが身近にあるのに、何処か遠くに感じられてしまったのだ。それはきっと俺が遠くにいってしまったから。超えてはいけない線を越えてしまったから。
 それでもアリスといる時だけは、"普通"でいたいと叫ぶ自分を、許して良いのか分からなかった。

「お兄ちゃん?」

 黙っていたら心配かける。何か、何でも良い。言葉、出て来い。

「怒った?」

 怒ってないよ、と伝える為に首を振る。一緒に戸惑いを振り払う。

「今日一日良い子でお留守番してたアリスにご褒美があるんだ」

 にっこり、薄っぺらい笑みを浮かべた。きっと成功した。震えそうな手に力を入れて、差し出す。

「わあ! プリンだ!」

 輝くような満面の笑み。どうしても見たかったはずのそれを目にして、けれど不思議と嬉しさよりも罪悪感の方が勝っていた。

 母さん、ごめんなさい。今日俺は悪い子になりました。アリスだけは、良い子のまま守るから許して下さい。
 ただ言い訳のように、救いを求めるように、祈りを捧げるように、心の中でそう繰り返した。


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