始まる前の話



 辺り一面に血の臭いが蔓延していた。その部屋に、命ある者は二人だけ。その内の一人が声を張り上げた。

「ま、待ってくれ!」

 両手を上げ、戦意がないことを示す。彼の武器である拳銃は、既に床に落ちており、その役目を果たせない。最も先程男の仲間が撃った弾丸は全て棒で弾かれており、手元にあっても意味をなさないのだが。

「だからさ、俺はただ質問に答えて欲しいだけなんだ」

 黒く長い棒を肩にぽんと乗せながらそう要求するのは、十歳前後の少年。棒が後ろの壁に当たった瞬間ひびが入る。

「だから知らねえって言ってるだろう! アリスなんていう餓鬼来てねえよ!」

 男はつい先程確認した売買記録に視線を向けながら叫んだ。

「そんなはずない。住所も店の名前も合ってるし。俺と同じ茶髪で蒼い目の女の子が一年前ここに売られてきたはずなんだ」

 淡々とした口調ながら、少年の瞳は暗い欲望に囚われていた。理性的にみえながら、その実怒りに支配されている。そのことは、周りに散らばる死体を見れば明らかだった。

「だから知らねえって言ってるじゃないか! 大体一年前のことなんか」

 男の目はそれを捉えることが出来なかった。ただ聴覚が、皮膚が、風を捉えた。
 側頭部に少年が回した棒がめり込む。ぐちゅっと臓器が潰れた音に続き、男は地に倒れ伏した。

「本当、簡単に死んじゃうんだよな、人って」

 棒をふるった少年は、地に伏した男達の内適当な者の服で棒に付いてしまった汚れを綺麗に拭き取る。そうしてから部屋を見渡した。
 照明の暗い部屋。地下ゆえ、外の光は入って来ない。唯一明るい光を放っているパソコンに近付き、それをいじくる。
 いくら探しても、求める人の情報は手に入らなかった。苛立ちのまま、パソコンを殴りつける。途端に、部屋は薄闇に包まれた。

「くそっ」

 ポケットから取り出した紙片をびりびりに破っても、怒りは収まらなかった。

 少年は知らない。親代わりが、少年が死ぬ可能性を高いとみて妹の手掛かりを最小限しか残さなかったことを。生き残っていたら少女の姿や名前を変えることくらい予想出来るだろう、と少年を過大評価していたことを。
 怒りに囚われた少年がその事実に気付いたのは、建物ごと破壊して近くの町に移り、一息ついてからだった。



 少女は満面の笑みを浮かべたまま、右腕を更に進めた。既に右手に握ったナイフは目の前の男の腹部に埋まっている。

「なっ、にを」

 何が起こっているのか、男には理解出来なかった。
 男は夜の相手として少女を呼んだはずだった。その相手にキスをしようと肩に手をかけ、上体を屈めた矢先のことだった。

「ごめんね、おじさん。私、殺し屋なの」

 少女は笑みを絶やさない。

「だから早く死んで? このへんたい野郎」

 ぐりっとナイフを回しながら引き摺り出す。内臓か血か分からない物が一緒に出てきたが、少女は気にせず身を引いた。
 ずるりと男は前のめりに倒れ込む。

「死んだ? ねえ、死んだ?」

 ひくひくと痙攣を繰り返し、やがて動かなくなった男を爪先でひっくり返す。胸に耳を当て、死んでいることを確認した少女は、手早く血にまみれた服を着替えて服とナイフを手持ちのバッグに放り込む。
 そして軽快な足取りでホテルを後にし、手慣れた仕草で携帯電話を操作した。

「もしもし。お仕事終わりました。今から帰ります」

 電話の向こうからは労いの言葉と寄り道しないように注意の言葉がかけられる。そして最後に電話の相手は付け足した。

「早く帰って来なさい、リリイ」

 リリイと呼ばれた少女は小さく眉をしかめて、けれど大人しく頷き通話を切った。
 携帯電話をポケットにしまい、小さく呟く。

「早くお兄ちゃん迎えに来てくれないかな」


| |  

 

 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system