あまりの衝撃に固まっていた俺の耳に、低く小さな笑い声が届く。俺の注意を引いたことを確認してからクロロは口を開いた。
「面白いだろう?」
「クロロを黙らせろ」
嘲るような響きが滲み出た台詞に、自然と声が低くなる。馬鹿にされるのは嫌だ。たとえこの少女に向けた台詞であっても、俺にも当てはまってしまう。俺は面白い存在なんかじゃない。
少女は俺の言葉に隠された怒りを己に向けられたものと勘違いしたのか、大きく身を震わせてからすぐに従った。
「マナミはクロロに発言を禁じる」
漸く広い空間を静寂が支配し、感情の波がゆっくりと落ち着いていくのを感じる。少女の様子を観察する余裕が生まれる。
少女は先程の威勢の良さが嘘のように再び縮こまっていた。同じ境遇だと分かったからか、情を寄せてしまう。少なくとも、盗賊団より彼女の味方をする理由は出来た。
棒を背に担ぎ直し、少女の目の前に座り込む。目線を合わせる。
「前世の記憶があるの?」
「何よ、どうせ笑うんでしょう。良いわよ、笑いなさいよ」
びくびくしながらも虚勢を張る様子に、小さく笑みがもれる。少女が涙を溢しながら顔を歪めるものだから、また笑いが込み上げる。それを隠さず、俺も告白した。
「奇遇だね。俺も前世の記憶があるんだ」
変化は劇的に現れた。虚を突かれたように目を見開き、次いで此方を凝視しながら瞬きを繰り返す。そして震える唇を動かした。
「うそ、だ」
かろうじて聞き取れた小さな声は掠れていた。
目を細め、少女を真っ直ぐ見据える。安心させたい、そんな思いが頬を緩ませる。
「本当。笑っても良いよ」
漸く少女は言葉を飲み込んだようだった。喉を鳴らし、大きく深呼吸を一つ。
「それじゃあ、ううん。蜘蛛を知らないんだからそんなはずは。じゃあ前世の記憶があるってこの世界じゃありふれてる? ううん、そんなはずない。そんなこと書いてなかったし、私の周りにもいなかった」
そして再び不可思議な発言を繰り返した。独り言で頭の情報を整理しているのは理解できるが、正直傍から見ればただの不審者だ。さっきの反応からしてこの少女は前世の記憶があることで色々とからかわれたり上手くいかないことが多かったようだが、本人にも問題があるんじゃないだろうか。そんなことを考え、一歩引いてしまう。
そんな俺に気付いた少女は弾けるように顔を上げ、手を伸ばしてきた。
「待っ、違うの。私怪しくないからってそうじゃなくてっ」
すがるような手は行き場を失い、諦めたように胸元に収められる。次いで少女は思い切ったように必死な眼差しで此方を見詰めてきた。
「貴方は前世、何処で生きたの?」
ふむ、と顎を撫でて思考を働かせる。何とも不思議な会話だ。今固まっている四人の少年少女は内心大笑いしていることあろう。俺も笑い出したい。今から口に出すことは、親代わりと離れてから初めて他人に話す事柄だ。頭がおかしいと思われても仕方ないこと。前世の記憶がある人と出会うのはアリスの他には初めてだが、流石にこの世界にはない国の名前をあげれば虚言妄想の類と言い切られても反論は難しい。さて、真実を話すべきか。この少女にも笑われたら立ち直れない気がする。
が、一つだけ、確かなものではない曖昧で根拠のない予感があった。マナミという名前の響き。前世というキーワード。もしかしたら、そんな予感と期待が混ざり合う胸のざわめきが、最後背を押した。
「にほん」
その単語を発した瞬間、少女から表情が消え失せる。まるで能力で動きを封じられたクロロ達のように瞬きさえ忘れてしまった少女は、ぽろりぽろりと次々にその潤んだ瞳から涙を吐き出す。
不思議と気持ち悪いとは感じない。ただただ、その純粋な喜びの発露に目を奪われた。
「あの、さ。もしかして、君も?」
あまりにも分かりやすい変化だった。こくこくと涙を溢しながら頷く少女に言葉を発する余裕はない。俺がついさっき、この場で経験したことだ。歓喜に声を吸い取られてしまう。身体の機能も全て。
息をするのも躊躇われるような静かで厳かな空気に、自然と口を閉じる。少女の横に腰を降ろし、ただじっと彼女が落ち着くのを待った。
時間にすると五分くらいだろうか。漸く口を開いた少女の言葉に耳を傾ける。
「貴方の名前は?」
どうやら彼女は名前に強い思い入れがあるらしい。まずそれか、と若干呆れながら目を輝かせて待つ少女に告げた。
「ヘンデスって呼んで」
即座に瞳を曇らせる様は、分かりやすい。けれど線を引くべきだと思った。俺と彼女は秘密を共有している。けれど目的は共有していない。彼女に目的があるかどうかも分からないが、俺にとって唯一で最大の目的、アリスを見付け出すまではどんな小さなことも慎重にいかなくてはならない。だから本名は明かさない。そして、下手に仲間意識を持たれても困るから、前世の名前も教えない。もし彼女がアリスを見付け出せる能力を持っていたら話は違ったのだが。しょせんは仮定の話だ。
「で、マナミは日本に帰る方法を知っていたりする?」
親しみをもたせるため名前を呼べば、一瞬にして笑顔になった。しかしすぐにそれは萎れ、項垂れる。
「分かったら、とっくに帰ってるわ」
そうだよな。けれどこれでこの少女に利用価値は無くなってしまった。反応を見るに、彼女は前世の記憶を持つ人に会うのは俺が初めて。よってこれ以上情報を引き出すことは期待出来ない。冷たいかもしれないけれど、俺には初対面の少女よりアリスの方が大事なんだ。それがこの短時間で出た結論。
見切りをつけて立ち上がろうとした時だった。少女の声に引き留められる。
「ねえ、ヘンデス。結局貴方は蜘蛛の一員なの?」
まあこのくらいならさらしても良いか、そう思ったが、少し引っかかった。そういえば、何故この子は盗賊団のことを知っていたのだろう。
「そうだけど」
訝しげに眺めていれば、少女は大きく嘆息する。そして眉をひそめた。
「何でわざわざ悪役に」
独り言ともとれる、空気に溶けてしまいそうなほど小さな声だった。けれど確かに聞こえてしまった。
「悪役?」
正義の味方ではないと言い切れる。けれど、その言い方はどこか妙だった。しいて言えば、犯罪者が妥当ではなかろうか。何故、正義の味方がいることが前提になる、悪役なのだろう。
「やっぱり知らなかったの?」
呆れを含んだ台詞に、此方が眉をひそめる。随分と勿体ぶった言い方だ。
少女は求めた反応がみられなかったためか、言い直した。
「悪役だって知らなかったの?」
「初耳だよ」
しかしやはり要領の掴めない会話に嫌気がさし、おざなりに返す。
「信じられないっ!」
俺は君の言葉についていけないよ、そう言いたい気持ちをぐっと堪えて穏やかに聞き返した。
「悪いけれど、最初から説明してくれない? 俺の知らないことをあんたは知っているみたいだし」
「何で気付いてないの!? どっからどうみても此処は『HUNTER×HUNTER』の世界でしょ!」
「はんたーはんたー?」
音にして、聞き覚えのある単語だと記憶を探る。
「ハンターなら知ってるよ」
嘘の経歴をでっち上げる時、非常に活躍してくれている職業の名だ。
俺の返答に納得がいかなかったのか、少女は地たんだ踏みそうな勢いで叫んだ。
「何でハンター知ってて気付かないの!? 有り得ない!」
興奮状態の少女をよそに、一人記憶を掘り起こす作業に戻る。はんたーはんたー、か。一つだけ、引っ掛かるものがあった。しかしそれはあまりに馬鹿げた考えでもあった。前世の記憶、なんてものが正常に思えてくるくらい。再び逆鱗に触れたら嫌だなと思いつつ、恐る恐るその単語を口に出す。
「もしかしてさ、漫画の『HUNTER×HUNTER』のこと言ってる?」
「知ってんじゃん!」
勢い余り唾を飛ばす少女から距離を取る。元気が出てきたのは大変結構、だが話についていけない。
「あれって確か主人公がハンター目指して頑張る漫画だったよな」
確認として覚えているあらすじを口に出せば、少女は頻りに頷く。
「その漫画の世界が、此処だって本気で思ってる?」
俺でさえ正気を疑う思考だ。笑いはしないが、その精神状態を心配はしてしまう。彼女は何とかこの世界と前世の接点を探そうとし、都合の良い妄想に逃げ込んでしまったのではないか。わざわざ漫画に求めなくても一杯類似点はあるというのに。ジャポンがその最たるものだが、他にも訪れた地で地球と似た国、都市は存在した。
少女は俺の言葉に一瞬怯み、けれど声を大にして反論を試みる。
「なら何でハンター協会の会長がネテロ会長で漫画の文字が此処では共通語として使われてるのよ! おかしいじゃない!」
いやいやおかしいのはお前の頭だと言ってしまいたい。というかそこまで漫画の内容を覚えていない。あいにくと俺は学生時代に一度読んだきりなのだ。既に主人公の名前さえ忘れている。が、一つだけ覚えている確かなことがあった。
「なあ、本当に気付いていないのか?」
漫画の登場人物や文字なんかよりもっと重要な世界の法則ともいえる根幹が違っていることを、俺は知っている。
「な、何を?」
そして少女も知っているはずだった。気付いていない振りをしているだけかもしれない。もしそうだとしたら、ここで現実を突きつけることは彼女の為にはならないかもしれない。それでも、これ以上彼女の妄想には付き合いきれなかった。
一拍おき、溜まった唾を飲み込む。真剣な双眸と正面から向き合う。
「この世界には、念能力が存在するんだ」
少女自身能力を使っているのだから、その存在は認識しているのだろう。けれど妄想に整合性を求めるあまり、思考の外に投げ出してしまった。そうとしか考えられない。可哀想かもしれないが、ここで現実を認識してくれ、と半ば祈りながら少女の反応をじっと待つ。
少女は口をぽかんと開き、微動だにしなかった。その様さえ哀れに思ってしまう。
「あの、大丈夫?」
涙さえ出ない程の衝撃だったのだろうか。優しく肩に手を置けば、やっと少女に動きがみえた。
「いや、うん。っていうか今ので終わり? 他にほら、なんか付け足すこととかないの? ヘンデスの能力でここが漫画の世界じゃないって判明したよ、みたいな衝撃的事実はないの?」
狼狽えることなく、むしろ本日初めてみせているだろう冷静な反応に、此方が焦る。
「俺の能力は戦闘特化だけど」
戸惑いながら返せば少女は呆れたように息を吐き出した。そして考えこむように両腕を組み、視線を虚空の一点に集中させる。
「あのさ、だから漫画の中には念能力とかオーラとか、存在していな」
「それだ!」
弁解の最中、少女は勢い良く顔を上げ、瞳を生き生きと輝かせた。俺はまた二歩ほど後ずさる。しかし、今度はそれにめげる素振りもみせず、むしろ一歩踏み出してくる。
「おかしいと思った。うわ、ヘンデスが妙に真剣だったから焦っちゃったじゃん。クロロとかがいる時点で私が正しいって分かってたのに。ヘンデスは漫画、どこまで読んでたの?」
なんか、理解してしまったかもしれない。この少女と会話が噛み合わない原因。俺の知識が不完全だとしたら。いや、間違いない。だって、今思い出した。
「主人公がハンターになったあたりまで、だけど。もしかしてその後念能力とか出てきた?」
俺は、途中で読むのを止めた。けれど、確か話はまだまだ続いていた。
「普通に出てきたよ」
これだけならば、少女の言葉を信じる理由なんてない。なにせ証拠がないのだ。俺はもうあの漫画を読むことは一生ない。けれど、もう1つ。
「この盗賊団は、悪役として登場するの?」
少女の不可思議な言動を思い起こせば、結論は容易く導き出せた。何故メンバーの名を知っているのか。そして゛未来の蜘蛛゛というキーワード。
「本当に知らなかったんだ」
感嘆しているかの如く呟く少女が憎い。そしてなにより自分が憎い。どんな奇跡なんだ。転生したと思ったら、そこは前世で出版された漫画の中の世界で漫画の登場人物が実在して、俺は知らない内に悪役の盗賊団に所属していた、と。笑えない。
「知らなかったよ、悪役だなんて」