"お兄ちゃんへ。約束覚えてますか? 母さんの命日に、二人で迎えに来てくれたあの公園で待ってます。A"
情報屋の少年から送られてきたメールには新聞の探し人コーナーの記事が添付されていた。可能性は低いけれど、と付け足された文面を目で追い、独りきりの部屋で静かに首を振る。
アリスだ。絶対にアリスだ。迎えに行くという約束。10日後に控えた母さんの命日。二人、親代わりと俺で迎えに行ったのは、母さんが殺された家の近くの公園。短い文章を構成する全ての単語に記憶が刺激される。
やっと、やっとアリスに会える。約束を果たせる。じわじわと込み上げてくる確かな歓喜とは裏腹に、携帯を持つ手は小刻みに震えていた。怖いのだろうか。アリスが売られてから、俺は変わった。その前から泥棒はしていたけれど、決定的な違いがある。俺は人殺しになった。アリスを守る為に身に付けた力で、望んで人を殺せるようになった。
「アリス」
それでも、怖くてたまらないけれど、やっぱり会いたい。揺れ動く感情の中で恐怖と愛しい妹への思慕が混ざり合い、全身を震わせる。
じっとうずくまって感情の激流をやり過ごし、暫く経ってから俺はそのことに気付いた。
もしかして、今アリスは自由の身なのか?
記憶を辿りながら約束の前日に訪れた街は、まるで初めて訪れた土地のようだった。あまり外に出ない生活をしていたから、見覚えのない景色が続くこと自体は予想していた。だが、それ以上に母さんの死という悲惨な記憶とは全く似つかわしくない街の空気が、見知らぬ土地だと思わせる。
都市部からは少し離れた、よく言えばのどかな、悪く言えばつまらない、そんな街。けれど、ゆったりとした足取りで道行く人の表情は穏やかそのもので、母さんはこの街を気に入っていたのだろうと容易く予想することができた。ただ歩いているだけで、"普通"を感じられる、そんな街を散策する内に自然と口元がゆるむ。穏やかな気持ちが郷愁を呼び起こし、昔住んでいた家を訪ねようと思い立ったことも自然の成り行きといえるだろう。
詳しい場所は覚えていなかったけれど、立ち寄った雑貨屋で世間話に織り交ぜ、六年前に火事があった家を尋ねればすぐに答えが返ってきた。平和な街を騒がせた大事件は街の人の記憶に刻みこまれていたらしい。聞いてもいないのに、一家四人で暮らしていたのに一つしか死体が見つからなかったことや、閉鎖的な家族の黒い噂、母さんがどんな仕事をしていたか、などを事細かに話してくる店主に笑顔で相槌をうつ。やんわりと世間話をうちきり店を出る頃には、この街に対する柔らかな印象がどろどろとしたものに変わっていた。頭では分かっていた。"普通"で平穏であることが全てにおいて良いわけではない。けれど、ほんの数十分の噂話に母さんの理想を汚された気分になる。
固くなった表情のまま向かった先。母さんの死体ごと燃やされた家は、記憶にあった外観とは全く違う家になっていた。見知らぬ家族の平穏が詰まった温かな光を眺めても、もう感傷はうまれない。母さんの笑顔も物言わぬ死体となった姿も容易く脳裏に思い浮かぶのに、何も感じない。だというのに、背を向けて立ち去ろうとした時、一つだけ思い出してしまった。昔、ここを去る時俺の手を力強く引く存在があったことを。掌があの時の感触を思い出し、熱を持つ。軽く手を振り、忌々しい記憶を追い払ってからその場を後にした。
待ち合わせ場所の公園で夜を明かし、冷え冷えとした朝の空気に目覚めた俺を出迎えたのは白いワンピースを着た少女だった。その無表情を認め、条件反射で眉をひそめる。
「つまらない街ね」
事前に記憶読みの少女の来訪は知らされていた。情報屋の少年が勝手に頼んだらしい。何かの罠だったりしたらすぐに見抜けるように、と。アリスが俺を罠にかけるはずがないと分かっていても、アリス自身が操られている可能性を指摘されれば否定出来ない。明確な敵がいるわけではないが、そういう状況に陥っても仕方ないといえるだけの所業をしてきたのだから自業自得だ。
けれど、我が儘をいえば今日一番に顔を見るのはアリスが良かった。それに、つまらない街だと昨日俺も思ったばかりだが、他人に言われれば腹も立つ。
「わざわざつまらない街までご足労頂きありがとう」
仏頂面で淡々と告げた言葉に少女は小さく眉尻をあげ、不快感を示してくる。
駄目だ。恐らく俺とこの少女は相性が悪いのだと思う。口を開けば刺のある言葉の応酬しかできない。特に、今は緊張のせいかいつもより格段に余裕がない。アリスと会えるという事実が心に様々な感情を積みあげて、その重さに押し潰されそうだった。
ふと、少女が顔をそらして一点を、俺の背後を凝視した。無表情のまま、その硬直な視線はやがて俺に移る。一連の動きが意味するものを察し、深呼吸をしながら瞼を閉じる。
早すぎるよ、アリス。
今にも泣き喚きたくなるような衝動を堪え、複雑な心境を整理できないまま、目を開けてゆっくりと振り返った。
目をこらせば表情が伺えるほどの距離にある、公園の入り口に佇んでいたのは二人の男女。寄り添って此方を注視していた。その内の一人、年若い少女に視線が惹き付けられる。
肩で切り揃えられた栗色の髪は風に揺れ、愛嬌のある少し子供っぽい大きな瞳には涙が滲んでいた。背は伸びたけれど、隣にいる男に上背があるからか、随分と小柄に感じられる。この街によく似合う素朴な作りのワンピースに包まれた身体は、昔と違い、女らしい丸みを帯びていた。
「アリ、ス?」
思わず溢れた小さな囁きは相手に尋ねる意図を持っていなかった。ただ、純粋に疑問を抱いてしまったのだ。髪と瞳の色。目や鼻、口などの細かなパーツ。確かに記憶と重なるのに、纏う大人びた空気は見覚えのないもので、本当にこの少女が俺の妹なのか、疑ってしまった。
小さな呟きを拾えなかったのか、もどかしそうに少女は傍らの男を置いて走り寄ってくる。どんな感情を抱けば良いか分からず、混乱のまま腕は少女を迎えいれるように勝手に動いた。開いた腕の中に吸い込まれるように少女は飛び込んでくる。
「お、兄ちゃん?」
声と呼応するように、柔らかな体躯はふるふると小刻みに震えていた。
安心させなくては、そんな本能にも似た使命感に突き動かされ、穏やかな声が溢れ落ちる。
「お兄ちゃんだよ、アリス。約束通り、迎えに来た。遅くなってごめん」
おずおずとあげられた瞳に浮かぶ涙を指ですくい取れば、くすぐったそうに肩をすくませた。次いで落ちた柔らかな溜め息に、漸くアリスの心情に思い至る。
アリスもまた不安だったのだろう。記事に気付いてもらえるか。兄が自分のことを覚えているのか。そして、約束の場にいる男が本当に兄なのか。
込み上げる愛しさに抗わずぎゅっとその身体を抱き締めようとした時だった。
「ちょっとごめんなさい」
襟を掴まれ、強い力で引かれた。不意を突かれ、一歩後ろに下がる。隙をついてアリスとの間に割り込んできた少女の後ろ姿を強く睨み付けた。
「調べるだけよ」
しかし、不満を述べる前に行動の正当性を主張されればそれ以上強くは出られない。舌打ちをしてから困惑しているアリスに優しく切り出す。
「ごめん、アリス。ちょっとだけ協力してもらえるかな。彼女は」
紹介しようとして一瞬言葉に詰まる。条件反射で眉をしかめそうになったが、アリスの不安そうな表情が視界に入り、若干俯いた。数々の忘れがたい思い出が笑顔を作ることを邪魔してくる。
「今お世話になっている団体の一人。ちょっと心配性な人がいてさ、一応アリスに裏がないか調べさせてもらって良いかな?」
平然と嘘を吐き、一呼吸数えてからアリスへと視線を戻す。やっと柔らかい笑みを浮かべることに成功した。
「もちろんアリスが潔白だって分かっている」
本音を織り交ぜ、再び嘘にまみれた言葉を告げる。
「母さん達を追っていた組織はもう無くなったから危険はないけど、念のため」
何気ない口調でもう追われてはいないのだと念をおす。アリスは暗殺一家のことを何も知らない。知らないまま平和に暮らして良いのだと暗に告げれば、不安を残した表情のまま記憶読みの少女に微笑みかけた。
「初めまして。アリスといいます。いつも兄がお世話になってます。どうすれば良いのかよく分かりませんが、宜しくお願いします」
「パクノダよ。手を貸してもらえるかしら?」
礼儀正しくお辞儀をし、従順に手を差し出すアリスを眺めながら、胸の内はざわざわと落ち着かない。俺の知るアリスは、こんなに物分かりがよくなかった。会わない年月が小さな少女を大人にしたのだろうか。嬉しいはずの成長を素直に認められない自分に気付き、後ろめたさから視線を反らす。
ちょうどよく視線が合った男が軽く頭を下げてきた。そういえば、この男はアリスとどんな関係なのだろう。あまりよろしくない考えが頭に浮かび、自然と表情が険しくなる。
「大丈夫よ」
問い詰めようと動いた瞬間、狙ったかのように涼しげな声に邪魔をされ、仕方なく声の主に向き直る。少女の冷ややかな表情には若干の哀れみが読み取れた。不安を煽るそれの意図を探るよりも前に、少女は心なし早口でアリスの潔白を証明する。
「問題ないわ。彼女は本当に貴方の妹で、彼女自身の意思で此処にいる」
色々と考えるべきこと、追及すべきことはあるはずだった。けれど、"貴方の妹"という単語がもたらした安堵があまりにも大きすぎて、気を抜いてしまった。
記憶読みの少女自体は気に食わない。だが、彼女の能力は本物だ。彼女が断言したのならば、もう疑う必要はどこにもない。確証をもらい、晴れ晴れとした心境でアリスに向かい再び大きく腕を広げる。
「抱きしめて良い?」
小首を傾げ、お伺いをたてれば妹は弾けるような笑みで頷いた。そして先ほどよりも増した勢いで腕の中に飛びこんでくる。
「お兄ちゃんだ。本当にお兄ちゃんだ」
二人、固く抱き合いお互いの温もりに酔いしれる。周囲の光景が視界から遮断され、栗色の髪しか目に入らない。耳はアリスの嗚咽しか拾わない。アリスの存在を感じ取ることに全機能が集中し、思考だって飛んでしまう。アリスが今までどのように暮らしていたのか、傍らの男は何者なのか、俺の事情をどこまで説明するか、色々と考えることはあるはずなのに、全てがどうでもよくなった。
独りきりで過ごした四年が報われた。
そんな感想が頭をよぎった時だった。アリスがそっと身体を離す。間近で見るその顔は、昔はそっくりだったのに、今は少女らしい丸みを帯びていてごつくなった俺の顔とはっきりとした違いがでている。兄妹だということはすぐに分かるだろうが、双子だとは気付かれないかもしれない。その愛らしい顔に、はにかむような微笑みが浮かぶ。
「本当に会えて嬉しい、お兄ちゃん。それでね、私も紹介したい人がいるの」
蒼い瞳は俺ではなく、傍らでじっと佇む男を捉えた。背筋に悪寒が走る。
「キースです」
無表情のまま手を差し出され、反射的に叩き落としたくなった。にこにこと様子を伺うアリスが視界に入らなければ、絶対にそうしていた自信がある。
「ルーク。アリスの兄です」
握手をしながら口許には笑みを。男の狙いを見定めようときつく細めたくなる目を、意図的に見開く。
「あのね、お兄ちゃん。キースさんはすごい人なの」
蕩けるような甘い声を出すアリスは、俺に見せたことのない女特有の色っぽさを纏い、男の腕に自らの腕を絡みつけた。
「マフィアに売られてからね、私ずっと」
視線を落とし、言葉に詰まったアリスを心配気に男が見下ろす。自由な方の腕を持ち上げ、男が頭を優しく撫でれば、アリスは潤んだ瞳で男を見詰めた。一組の男女が視線で言葉を交わす。長い年月に裏打ちされた絆があるのだと、見せつけられる。
穏やかな愛情のこもった視線に元気付けられたアリスは、やっと俺をその視界に入れた。
「色々あったんだけど、キースさんが助けてくれたの。だから、やっとお兄ちゃんに連絡できた」
晴れやかな笑みは、過去に踏み込むことを躊躇わせる。傍らの男は何があったのか、全て知っているに違いないのに、アリスはきっとこの男以外に己の過去を語らないのだろう。そう確信してしまった。
この身を焦がすような嫉妬がお門違いだと頭では理解している。アリスの傍にいられなかったのは俺のせいだ。俺の弱さが親代わりにアリスを売るという非情な行為を選ばせた。その上、五年もの長い時間、アリスを探し出せなかった俺に文句を言う権利などない。
けれど、アリスの愛情と信頼を一心に受け、彼女を幸せにできるのは自分しかいないと無意識に決め付けていた。平穏を壊すことしか出来ないことを自覚していながら、まだ夢を見ていた。だから今、俺は現実のアリスを上手く受け止められない。
「あのね、お兄ちゃん」
今すぐその口閉じてやりたい。そんな暴力的な衝動を、拳を握り締めながら堪える。アリスに力を振りかざすことだけは、やってはいけないと分かっていた。アリスにとって俺がどういう存在であろうとも、俺にとってアリスは守るべき存在なのだから。たとえそれを彼女が望んでいなくても。
「約束守れなくなっちゃった」
後ろめたさの裏側にある喜びを隠しきれていない。そんな妹が、愛しく、そして憎たらしい。
「お兄ちゃんのこと好きなのよ。それは本当なの」
言い訳のように紡がれる言葉。分かっている。その後にでも、と続くことくらい、分かっている。
「でもね、キースさんが一緒にいてくれるって」
ほんのりと赤らんだ頬をおさえる妹。いつかこんな日が来るって分かっていた。庇護者を必要としない日が来るのだと。兄離れする日が来るのだと。けれど、今日じゃなくても良いじゃないか。そんな勝手な憤りも、アリスの申し訳なさそうな、そして幸せそうな笑みを見れば奥に隠れてしまう。
「だから、ずっと一緒にいられなくなっちゃったの」
奇しくも妹の出した結論は俺の出したものと一致した。