悪だと知っていた



 深呼吸を一つ挟めば、驚くほど容易くその結論を受け入れている自分に気が付いた。その証拠に、口は勝手に笑みをつくる。

「アリスが幸せなら、それで良いよ」

 これ以上ない展開だ。アリスが先に結論を出してくれたから、俺は何も言わないで済む。一緒にいられない理由を隠していられる。
 だからもっと喜べ、自分。

「キースさん、今までアリスを守ってくれて有難うございました。これからも宜しくお願いします」

 嫌だ、そんな感情が先走りそうになるのを理性が留め、丁寧に頭を下げる。笑みを作った唇が震える。それでも、頭を上げた後も笑みは崩れなかった。

「必ず、幸せにします」

 言葉少なに、けれど意志のこもった力強い言葉で男は確約してくれた。それで充分だ。もうアリスは自分の力で夢を現実にできるのだから。

「お兄ちゃん」

 呼び掛けられ、アリスを見詰める。緊張が見え隠れする表情に、首を傾げる。

「私、幸せになって良いよね?」
「もちろん」

 約束を守れなかった後ろめたさがその台詞を吐かせたのだと思った。だから、間髪入れず肯定した。
 けれどアリスの表情は晴れず、震える声で告白する。

「私、良い子じゃなくなっちゃった。母さん、怒るかな?」 

 涙目で訴えてくるその表情が、記憶の中のアリスと重なった。六年前、この場所でアリスは同じようなことを口にした。
 嘘をついたこと、家族じゃないと否定したことを悔やみ、母さんが怒っていないか俺に尋ねてきたのだ。もうその時母さんは死んでいたけれど、なんと返したかははっきりと覚えている。

「母さんはいつまでも、どんなアリスでも愛してるよ」

 アリスがどんな悪事をしてきたのかなど、興味はない。今までどんな辛い目にあったのか、想像するだけで殺人衝動に駆られるが、そこにいる男が傷を癒してくれるのならそれで良い。
 歪んでいない素直な気持ちでそう思えたのは、歪な喜びを感じたからだ。この男と違い、俺は母さんのことでアリスと繋がっていられる。この男は、母さんのことを知らない。その一点で俺の方が勝っている。

「本当に?」
「本当に」
「絶対?」
「絶対」

 それをアリスが望むなら、いくらでも笑顔で即答してやる。
 唯一許された役割に満足していた俺に、アリスはやっと朗らかな笑みをみせる。

「じゃあ、お兄ちゃんも幸せにならなきゃだね!」

 無邪気な台詞が呼吸を奪う。

「どういう意味?」

 強張った声で問い返せば、アリスは何でもないことのように続けた。

「母さんは、どんなお兄ちゃんでも愛してるから、お兄ちゃんも幸せになるんだよね? 私もお兄ちゃんには幸せになって欲しいな」

 期待に輝く瞳から反射的に目を反らしたくなる。
 幸せなんて望んでいない。母さんは今の俺を愛さない。
 口に出せるはずがない、確かな本音が言葉を奪う。

「ね、お兄ちゃん。私の幸せを望んでくれるんでしょう? 同じようにお兄ちゃんの幸せを望んでも良いよね?」

 畳み掛けるように追撃を放ってくるアリスを正面から見詰めた。動揺する思考で、けれど生じた違和感の正体を探る。笑みを崩さないアリス。気付いてしまい、思わず息を呑んだ。
 無邪気を装いながらも、冷静な視線だった。嘘偽りを見抜く、真剣な眼差しだった。

「どこまで分かって言っているのかな? 本当にアリス? ちょっと会わないだけでこんなに変わるもの? ああでも本気で疑っているわけじゃなくて」

 あまりの衝動にまとまらない思考が口からもれる。一呼吸おいて、本当に知りたいことだけを改めて言葉にした。

「アリスはどこまで気付いているのか、教えてもらって良い?」

 記憶の中の妹の面影を確かにもった少女は、苦笑をもらした。大人びたその様子に、嫌な予感が的中したことを悟る。

「さすがにね、気付くよ。普通の生活じゃなかった。普通の手段で稼げない事情があった。常識なんてものがあるせいでお兄ちゃんは、苦しんでた」

 妹の言葉通り、苦しんだ。盗みも殺しもしたくなかった。けれど、慣れてしまったんだ。だからもう苦しくない。

「私がいなければ、なんて言わないよ。でも、私を守る為にしたことでお兄ちゃんが幸せを捨てるなんて許せない」

 強い口調に迷いはない。本当に、どこまで知られているのか、侮れない。

「お兄ちゃんが自首する必要なんてないんだから」

 流石に目を見開いた。驚きが伝わったのだろう。此方を安心させるようにアリスは柔らかく微笑む。

「売られる前に聞いたの。全部終わったら、お兄ちゃんは自首するつもりだって」

 誰が、なんて問う必要もなかった。一人しかいない。親代わりしかいない。くっそったれ、そんな悪態が喉元までこみあげる。ぎゅっと目を閉じて、衝動的にわいた怒りを身の内に閉じ込める。死人に対する感情はもっていきようがないからすこぶる厄介だ。

「分かった。自首しない」

 荒れ狂う内面を押し隠し、表面上は冷静を装った肯定を、アリスは見逃してくれなかった。

「うそつき」

 笑みさえ浮かべながらアリスは軽やかに俺の言葉を否定してみせる。

「お兄ちゃんは悪い子の私の幸せを望んだの。だから、私も悪い子のお兄ちゃんの幸せを望むよ」

 どんな悪いことをしたのか、追求せずに許しを与えてくる存在が、こんなに憎らしいは思わなかった。
 何も知らないくせに。俺がどれだけの平穏を壊してきたのか、知らないくせに。
 唇を噛み締めて罵詈雑言が飛び出るのを防ぐ。アリスに知られたくない。幻滅されたくない。そして何より、俺が告白すればアリスも悪事を告白するだろうことは容易く予想できた。聞きたくない。現実を直視したくない。

「アリスは」

 声を絞り出す。

「悪い子を卒業する?」

 愛しい妹は大きく目を見開き、次いでふんわりと笑みを浮かべた。

「うん」
「そっか」

 それなら良いのかな。諦めに似た心境で、アリスの決断を、望みを受け止める。
 アリスさえ良い子で幸せになってくれるなら、あとはどうでも良いんじゃないかな。

「約束するよ。自首しない」

 その言葉を口にした瞬間、身体の中心を何かが駆け抜けた気がした。その何かに気力を奪われたのだろう。身体中の力が抜ける。倦怠感に全身が包まれる。

「幸せは?」

 尚追い縋ってくる言葉を、やんわりと封じる為に首を振る。

「アリスの幸せを祈ってる。だから、アリスも俺の幸せを祈ってくれ。それで良い」

 物分かりのよくなったアリスは、渋々ながら頷いた。
 ふわふわとした頭で、それ以上何も問おうとしないアリスをじっと見詰める。疑問は次々と浮かんできた。
 売られた本当の理由、親代わりの行方、母さんの死に様、俺がいる組織のこと、何一つとして問わないアリスはどこまで勘付いているのだろう。そして、最後に重要なことに気が付いた。
 アリスの言葉は、不自然なほど俺との未来を排除していた。

「あのさ」

 曖昧なまま終わらせることを妹は望んでいるのだろうか。でも、それはきっと俺の為だ。ならば俺はその優しさを受け取ってはいけない。

「俺、悪い子なんだ。きっとこれからもずっと。良い子になれないんだ」

 平穏を守ることができるだなんて口が裂けても言えない。もう"普通"ではいられない。

「だから」

 言葉に詰まる。けれど言わないままでいることを許されているからこそ、告げなくてはならない。
 涙が滲みそうになったけれど、水滴にはならなかった。

「俺の知らないところで、幸せになってくれるかな?」

 連絡先も何も聞かれなかった。今何をしているのか、探る気配すらなかった。アリスはただ今後を男と過ごすと宣言しただけだ。けれどそこに俺の入る隙間はなく、そして俺もそれを望まない。

「うん。分かった」

 覚悟していたかのように平然と別離を受け入れたアリスは、そっと両の掌で左手を包んでくる。

「もう会わない。ね、お兄ちゃん。それでもルークは私のお兄ちゃんでいてくれる?」

 右手をアリスの両手の上に覆い被せながら、伝えた。

「もちろん」
「私がお兄ちゃんの知ってる妹じゃなくても?」

 どういう意味か、首を傾げて考える。アリスはじっと答えが出るのを静かに待っていた。
 記憶読みの少女はこのアリスが俺の妹だと確約してくれた。ならば、悪い子になったことを指しているのだろうか。確かに俺は良い子のアリスしか知らないし、知りたくないが、この問答は先程不問ということで決着がついたはずだ。他に俺の知らない妹の要素が存在する可能性。

「あっ」

 思い付いた答えに思わず掌を浮かせれば、アリスの両手はすぐに離れていった。反射的にアリスの身体ごと抱き締める。

「俺の妹だ!」

 びくっと小さく震える身体を抱く力を強め、耳元で繰り返す。

「お前がどう思っていても、俺の妹はアリスだけだ」

 もっと早く気付くべきだった。離れている時間が長かったとはいえ、アリスはあまりにも大人びている。

「記憶、思い出したんだな」

 前世の記憶。それがもたらすものの大きさを、俺はよく知っている。
 腕の中でアリスは小さく頷き、震える声を出す。

「うん。最近、全部思い出した」

 栗色の髪の上で、吐息をもらす。腕に収まる小さな存在がたまらなく哀れだった。
 さぞかし不安で堪らないだろう。前世と今、どちらに重きを置けば良いか分からない。けれども前世は頼りない記憶の中にしか見付からず、今は己を受け入れてくれるか分からない。俺の時は、家族が受け入れてくれた。ならば、俺も受け入れよう。昔何も分からないアリスが俺を受け入れてくれたように。

「俺はアリスの兄に生まれて幸せだ」

 ふとある考えが頭をよぎった。母さんが俺を受け入れてくれた理由。最初から"普通"の家族ではなかった。暗殺一家から逃亡する生活の中、子供は生まれてきただけで奇跡のような存在だった。生があるだけで、傍にいるだけで充分だったんじゃないだろうか。だからあんなにも容易く"普通"ではない子供を受け入れてくれた。もちろん、本当のところは知りようがない。もしかしたら俺の知らないところで葛藤したのかもしれない。
 それでも、少なくとも俺は目の前にいる唯一人の家族を、どんな存在であっても受け入れたいと望む。生があれば、そして願わくは幸せであれば良い。それ以上は何も望まない。

「愛してるよ、アリス」

 甘ったるく囁けば、おずおずと背に腕が回される。

「私もよ、お兄ちゃん」

 自分の発した言葉に後押しされたのか、ぎゅっと胴体に巻き付いてくる。
 たとえ離れていても、俺が悪事を続けようと、アリスがどんなことをしても、きっと兄妹の絆だけは壊れない。やっとそれを確信できて、安堵の息を吐き出した。
 少ししてから、アリスは自分から身を離した。そして一歩分距離を空けて尋ねてくる。

「最後に一つ、質問。"貴方"の誕生日は?」

 前世の記憶を思い出した妹の興味の対象を察し、自然と頬がゆるむ。俺も聞きたかった。昔尋ねた時は分からないと首を振られたから。

「三月三日。1973年の。ちなみに"君"は?」

 横で記憶読みの少女とアリスのパートナーの男は不思議そうな顔をしていた。それもそうだろう。俺達は双子だ。誕生日は同じで当然。けれど、今俺達が話題にしているのはそういうことではない。
 妹は嬉しそうに目を細め、答えを口にする。

「奇遇ね。私も三月三日よ、1973年の」

 彼らは益々訳が分からなくなっただろう。記憶読みの少女が知っているかは分からないが、"ルーク"と"アリス"の誕生日も1973年の三月三日だ。
 薄々疑っていた。けれどアリスがあまりにも子供らしい子供だったから、確信はできなかった。それが今形を成し、真実となる。

「何でなのかは全然分からないけれど、多分私達が双子として産まれたのって運命なのね」

 アリスも同じ結論に至ったのだろう。
 転生した理由は全く分からない。けれど、今世と前世の誕生日は一致している。だから、前世の誕生日が一致した女性が同じ場所で死に、同じ場所に転生したことは、彼女の言葉通り運命としか言いようがない。

「俺もそう思う」

 殺した少女のことが脳裏に浮かんだ。もう名前も思い出せない彼女も前世の記憶を持ち、孤独を抱えていた。俺だって同じ境遇に陥っていた可能性は非常に高い。同情するでもなく、ただ己の幸運に感謝する。

「ねえ、アリス。もし昔に戻れる方法があったら、戻りたい?」

 前世過ごした場所に戻りたいか。もし戻りたいと言われれば、探すつもりでいた。新たな目的を、与えて欲しかった。
 けれどアリスは傍らでじっと様子を見守っている男を見詰め、それからゆっくりと首を振る。

「ううん。私が生きているのは今だから」
「そっか」

 希望が全て潰えたことを知る。
 新たな絆を得たことを知り、切なかった。確かな家族の絆を感じ、嬉しかった。もう会えないことをはっきりと言葉にし、哀しかった。全ての感情が入り交じり、泣きたくなる。
 けれど、最終的に俺が選択したのは笑顔だった。

「最後に一つ。"君"は漫画とか読んでた?」

 不思議そうに首を傾げ、彼女はふるふると否定する。

「ううん。昔も今もあんまり。でも何で?」
「何でもないよ」

 ただ幸せであって欲しい。だから、前世の漫画の世界であることは告げなかった。知らないのなら、関係のない話だ。

「変なお兄ちゃん」

 笑う妹をしっかりと目にやきつける。記憶に刻みこむ。いつでもアリスの笑顔を思い描けるように。幸せを感じられるように。


「本当に連絡先聞かなくて良かったの?」

 太陽が真上に昇り、皆が空腹を感じ始めたので帰るよう促した。見送った二つの背中が見えなくなってから声をかけてきたあたり、この少女にも気を遣わせたと知る。

「いいんだよ」

 アリスには平穏の中で幸せになって欲しい。そこに俺の存在は害悪でしかない。そのくらいは自覚済みだ。

「そう。ならもう少しマシな顔したら?」
「どんな顔だよ」

 適当に意味のない返事をしながらも、指摘通り酷い顔をしていることは予想がついた。
 色々と思うことはある。相手の男は気に食わないし、幸せを掴んだアリスは誇らしい。アリスの過去に踏み込めなかったのは悔しいし、過去を探られなかったことは安堵した。そして前世の記憶があることに驚き、運命に感謝した。
 それでも、アリスに幸せを祈られたことに対して何を思えばよいか分からない。

「自首するつもりだったんだ」

 独り言のように心情を吐露した。
 記憶読みの少女はその気になれば俺の本音まで簡単に読み取ってみせる。それが嫌だった。けれど今は逆に安堵を誘う。どうせ読まれてしまうのなら、言葉にしても良いのではないか、と。

「だって、物を盗んだり人を殺すのは悪いことだ」

 そうだと知っている。

「してはいけないことなんだ」

 そうだと思っていた。

「今更ね」

 涼しい声に咎める響きはない。ただ、事実を淡々と示唆していた。だから頷き、肯定の意を示す。

「たださ」

 それが悪だと知っていた。どんな理由があろうと正当化される道理がない行為だと知っていた。
 だから、自首することで許されようとしていた。

「アリスを助ける為にしたっていう理由付けが欲しかったんだ」

 正当化なんて絶対に出来ない。それでも理由が欲しかった。

「アリスを助けたかった」

 助けたという事実があれば、苦しんだ過去が報われた。それがたとえ積み重なった死体の上に成り立つ心の平穏であっても、きっと救われた。

「俺、何で悪いことしていたんだろう」

 アリスは自力で幸せを掴みとった。確かに誇らしいのに、自分勝手な理由で虚しさを埋められないでいる。

「理由なんて必要なの?」

 息を呑んだ。傍らの少女を見やれば、いつも通りの無表情であらぬ方向を眺めていた。あまりに自然体のその有り様に、じわじわと言葉が染み込んでくる。

「そっか」

 少女はあまりに"普通"だった。少女にとっては確かに"普通"過ぎて、普段は言葉にしない事柄なのだと理解してしまった。そして恐らくあの盗賊団の奴らもそうなのだろうと納得してしまった。

「理由なんて、要らないか」

 口に出してしまえば、なんてことはない。その通りだった。
 俺が人様の家から金目の物を盗んだ時も、人様の尊い命を奪った時も、どこにも理由なんて存在しなかった。アリスの為だなんていう理由は存在しなかった。
 唇が歪み、笑みを形造る。

「最初から、理由なんてなかったんだ」

 確認するように繰り返す。目頭が熱くなるも、やはり涙は出てこない。
 初めて盗みをした時のことを思い出す。プリンを盗んだ。アリスの笑顔を見たかったから、手が伸びたはずだった。けれど、アリスはプリンなんてなくても笑っただろう。そして今、やはり自力で幸せを掴み、笑っていた。ならば、やはり理由など存在しなかったのだ。

「それで、貴方はどうするの?」

 ゆっくりと少女に視線を移す。日に照らされた横顔を、初めて美しいと思った。前を見て、決して揺るがない。そこに価値を見いだしてしまった。

「帰る場所が欲しい」

 盗賊団を抜けるつもりだった。そして自首するつもりだった。けれど思い描いていた未来はアリスに塗り替えられ、白紙になった。
 アリスという妹がいるから、家族は要らない。けれど帰る場所が、拠り所が欲しいとは思う。独りきりは、とても寂しい。
 少女は薄く口許をゆるませた。

「じゃあ、帰りましょうか。私達のホームに」

 もう後戻りは出来ない。けれど、アリスと同じように共にいる相手を自らの意思で選び取った。そこに後悔はない。

「案内宜しく、パクノダ」

 心の中で続ける。末長くとはいわないけれど、生きてる間は宜しく、蜘蛛の盗賊団。


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