結構な速度で路地を走り抜け、時折建物の上を飛び越えながらも、クロロと名乗った少年は次々と質問を放ってきた。
探しものは何なのか。誰か師事している人間がいるのか。どうでも良いような家族構成から年齢まで。
歳くらいは本当のところを答えたが、後は全て適当に流した。試しに此方から質問を放ってみれば、クロロはあっさりと全てに答えてくれる。
歳は俺と同じ十三歳。幻影旅団という名の盗賊団で団長と呼ばれる立場にあること。盗賊団のメンバーは全部で十二人。全員が同年代で念使い。発足したてなので、まだ盗賊団の名は売れていない。そして今日は、死んだ仲間が欲しがっていた物を盗る為に全員で襲撃を仕掛けた、と。
「因みに中身は?」
終始友好的な態度に、警戒しながらも話が弾んでしまう。
クロロは此方にちらりと視線をやって笑いながら答えた。
「人魚の肉」
すぐに前へと視線を戻したから、表情は読めない。いや、表情を読ませない相手だから元々意味はないのだが。
ひとまず天を仰いでみたが、生憎と月は雲に隠れて心を晴らしてはくれなかった。
果たして人魚は実在するのか。何故マフィアが人魚の肉を持っているのか。そもそも人魚の肉って美味しいのか。その死んだ仲間はどんな趣味をしていやがるのだ。
つらつらと思考を重ね、クロロの持つ箱に視線をやる。
「外に出していたら腐らない?」
「氷入れてあるから大丈夫」
「そっか」
どうでもいい質問をしてしまったとは思うが、時間は巻き戻らない。間抜けなやり取りに脱力してしまい、それ以上突っ込む気もなくなった。
「それに、もうすぐだから」
右手の指先で示された方に目をやれば、少し先に廃屋群が見えた。工業団地の跡地。分からないように小さく眉をしかめる。その内の一つが今の俺の寝床だったから。無事生き延びたらすぐに他の土地に行こう。そう心に決める。
それから十分もしない内に彼らの目的地に辿り着く。俺の寝床と反対側に位置していることに、少しだけ安堵した。
壊れかけた入り口の扉を、クロロはゆっくりと開く。そして扉を片手で支えたまま、俺と視線を合わせて完璧な微笑を見せた。
「ようこそ、幻影旅団のアジトへ」
身体中の産毛が逆立った気がした。逃げられない。それをここにきて再度実感し、鼓動が速まる。この感情は恐怖ではないと言い聞かせる。
何故だろう。こんな時に思い出してしまった。親代わりの言葉。絶対的強者と対峙する時の心得。
『逃げろ』
その一、敵前逃亡。プライドより命をとること。
『逃げられない場合は、臆すな。緊張するのは仕方ない。だが、それは興奮からだ。強者と戦うことが出来る歓びからだ。そう思い込め』
その二、自己暗示。恐怖を歓喜にすり替える。
思い出して、深く息を吐き出す。視線を上げれば、悠然と佇み強者の余裕でもって此方の動きを見守る少年が目に入った。
無理だって、そう親代わりに愚痴を吐く。だって俺は戦うのが好きとか口が裂けても言えない。出来れば強者との戦いは遠慮したい。今まで好き勝手出来たのは、相手が弱者だったからだ。そういう卑怯な心根を、ここへきて実感した。
でもな、そう危機に萎縮する身体に言い聞かせてやる。でも、今この場を切り抜けられるかは自分次第だ。何処からも助けは来ない。ならば虚勢を張ろう。精一杯足掻いてやろう。脳裏に描いた妹の笑顔を現実でもう一度目にする為に。
前を向き、一歩一歩慎重に足を踏み出す。罠に気を付けながら。建物の中から人の気配はしないけれど、いるかもしれないという心構えはしておく。
中は外観同様寂れていた。元はマンションのホールだったのだろう。だだっ広い空間にゴミは散乱しているが、生活臭のする家具らしきものは一切ない。アジトといっても一時的なものなのだろうと容易く推測できた。
適当な端っこに少女を下ろしてやれば、耳に嫌な音が響く。振り返れば案の定扉が閉められており、クロロが番人のように扉に寄りかかっていた。もう、逃げられない。
「電気は?」
暗いと指摘すれば、クロロは残念そうに首を振る。それは一体何を意味するのか。本当に電気が通っていないのか。それともクロロが電気を付ける隙をみて俺が逃げると思っているのか。俺の寝床も電気が通っていないから、単純に前者の可能性もある。が、真相は分からない。
一先ずいつでも人質にとれるよう少女の傍からは動かず、薄闇に浮かび上がる少年を注視した。
「何で俺を此処に連れて来たの?」
慎重に問いを発する。先程までとは違い、一言一言に注意を払う。此処は彼らの本拠地。圧倒的に不利な立場で、油断一つが命取りになる。
少年はちらりと少女に目を向けて俺の質問を無視した。
「パク。どうだった? 問題はあったか?」
口調ががらりと変化した。親しみ易さを削ぎ落とし、冷たさが前面に出た硬質な声質。
視線を横に向ければ、少女は床に座ったまま首を振った。
「残念ながら」
「不満そうだな」
「勿論」
当事者であるはずの俺を置いて話は進む。
「外の人間は、信用出来ないわ」
しかし、少女の台詞にはつい納得してしまった。外の人間は俺を指すのだろう。俺は、信用足る人間ではない。俺が欲しいのはアリスの信用だけだ。
「信用出来なくて良いさ。欲しいものを奪い取る。それが出来ればな」
クロロの台詞に、頭の中で警鐘が鳴り響く。此処にいては、その言葉の続きを聞いてはいけない。予想出来るからこそ、先に口を開いた。
「俺、これでも忙しいんだ。その子も無事に送り届けたし、帰るよ」
「そう焦るな」
どうやって逃げようか、視線を巡らせれば、わざとらしくクロロは視界に入ってきた。
「幻影旅団に入らないか?」
言わせてしまった、そんな後悔が頭をよぎる。髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜて苛立ちを発散させたい、なんていう欲求を何とか押し込めて真顔でクロロを見据える。
「何で?」
意味が分からなかった。クロロより圧倒的に弱い俺を勧誘する意味が見出だせない。
「お前、最近噂のマフィア狩りだろう?」
ついに人称が君からお前に変わってしまった。本性を隠すことを止めたらしいクロロの言葉に、元々目を付けられていたのだと悟る。
「へえ。そんな噂があるんだ」
せめてもの抵抗ですっとぼけてみた。実際、証拠はないはずだった。襲撃した先では皆殺し。目撃者も共犯者である情報屋も全て殺した。親代わりの教え通り。アリスに迷惑かけたら駄目だから。ただ、既に噂になっていることだけは知っていた。
「ああ。因みに正確にはマフィアじゃないな。襲撃を受けたのは全てマフィアの末端、人身売買に関わっている組織だ。まあそんなことはどうでもいいか。ヘンデス、さっき言った通り俺はお前の助けになれるかもしれない。お前の探し物は何だ?」
言ってから、クロロは持ち込まれたのだろう雑多に溢れた物の中から手近な木箱を選んで座った。敵意が無いことを示す為か、圧倒的優位にあることを余裕でもって示す為か、足を組み合わせる。そして、さあどう答えるのだと面白がるような視線を俺に向けた。見上げられているはずなのに、まるで遥か高みから全てを見透かされているような圧迫感に、拳を握り締め堪える。身を削り取られそうな緊迫感がそこにはあった。
「俺は」
先程は曖昧に濁した答えを、口の中で準備する。身体中の血が沸騰したかのように興奮しているのは、クロロへの恐怖故か。それともアリスを不遇へ追いやった親代わりや人身売買組織の連中に対する怒り故か。
「売られた妹を探している」
これを口に出すのは何回目になるのだろう。もう数えることさえ忘れてしまった。偉そうに立ちはだかる連中に、そして見せしめの後は一転泣き叫び無様に許しを乞う連中に同じ問いを繰り返し、返ってくるのは決まって同じ言葉。
『知らない』
『覚えてない』
沸き上がる憤りを、ありありと思い出せる。人間を使い捨てにする連中に、慈悲など必要なかった。
「分かった」
真っ赤な過去に占拠された視界が、黒に切り替わる。薄闇の奥、クロロの視線が俺を真っ直ぐ射抜く。
「一緒に探そう」
空耳ではないのか、まず疑った。まじまじと見詰めるが、底を見せない黒い瞳は揺るがない。言葉のない空間に、喉をならした音がいやに響いた。
「ははっ」
堪えきれず吹き出した想いを音にして出せば、それは笑い声となって空気を伝播する。痙攣する腹を両手で押さえてやる。横に座る少女から訝しげな視線を受けるが、笑いを抑える気は更々無かった。
とてつもなく滑稽だった。全てが滑稽でたまらなかった。
「三年だ」
笑いの波が途切れるのを待ち、腹の底から声を絞り出す。
「三年掛けたって何も分からなかった。あんたは一体何を手伝ってくれる?」
考え得る手は全て打った。次こそは、次こそは、そう言い聞かせて必死に自分を鼓舞して孤独に耐えてきた。アリスは既に何処にもいないのではないか、そもそもその存在すら寂しさが作り出した幻想ではないのだろうか、そんな不安に襲われもした。だってアリスを知っているのは、もう俺しかいないんだ。それでも、疑いながらも、アリスを探さずにはいられなかった。彼女と交わした約束しか今の俺には残されていないのだから。
けれども滑稽だったのだ。ちっぽけな子供の妄想もどきを、あの日の大人のように冗談とみなさなかったクロロが。俺の言葉を受け入れ、あまつさえ救いの手を差し伸べようとしているクロロが。
「俺達なら出来る」
「嘘つき」
確かにクロロは強いかもしれない。けれども結局はちっぽけな盗賊団に出来ることなどたかが知れている。世界を知らない故だろう、自信に満ちた同い年の少年が堪らなく滑稽だった。
けれども一番滑稽だったのは。
「仲間になれ、ヘンデス。そしたら助けてやる」
絶対に罠だと直感が働いているにも関わらず、その手を取りたくなっている自分が、心揺れている自分が、一番滑稽だ。
マフィアを襲撃するのはアリスの為だから構わない。人を殺すことも、もう躊躇わない。けれど、独りきりは寂しい。何処で情報が洩れるか分からないからあまり人と関わらない三年だった。他人など期待してはいけないと己のみを頼りに気を張り詰めていた三年だった。それでも、アリスは未だ見つからない。
クロロの真っ直ぐでいて厳しい視線を痛い程に感じる。俺はいつもこうだ。重要な時に限って答えを急かされる。考える時間を与えてもらえない。それで答えて結局後悔することになる。分かっているけれど、今回も観念するしかなかった。
「断ったら俺はどうなるの?」
「マフィアにつきだして金をもらう」
本気か脅し文句か区別は付かない。ただ、俺の存在に懸賞金がかけられていることは確かだった。
肺の空気を吐き出し、新鮮な空気を取り込む。埃まみれでちっとも気は晴れない。
「ヘンデスだ。短い間だと思うけど、宜しく」
寂しい。確かに寂しいけれど、心まで預ける気はなかった。それ故偽名を押し通す。アリスを見付けるまでは、独りきりで良い。それがこの短い時間に出た結論。それまでクロロを利用してやる。生き抜く為に屈してやる。
そこに、横槍が入った。
「団長。ヘンデスじゃない。こいつの名前、ルークよ」
今まで沈黙を保っていた少女が唐突に放った言葉に、思考が固まる。
「そうか。他には?」
「団長の読み通り後ろ盾はなし。本当に一人ね。武術と念を教えた親代わりはもう死んでいるわ」
当然のように交わされる話についていけない。
何故知っているのだ。疑問符が頭を支配する中、呆然と眺めていた少女が不意に此方を向いた。オーラを纏うその姿に、答えが頭に浮かぶ。念能力。全ての小さな疑問が一つに繋がっていく。少女を俺に運ばせ、此処に辿り着くまで様々な質問を放ってきたクロロ。恐らく接触が少女の念の発動条件。質問に正直に答えさせるような操作系の念能力ではない。むしろ、質問の答えを読み取る、そう心を読み取るような能力。
少女は俺に向けて嘲るように口端を持ち上げた。
「可愛い妹さん。アリスっていうのよね。親代わりに売られちゃうなんて可哀想」
頭に血が昇った。何も考えられなかった。小さく息を吐き出しながら、何度も繰り返された動作をなぞるように手が最小限の動きで棒を引き抜く。目は少女を捉えたまま、床を蹴り付け上から脳天目掛けて棒を振り下ろした。