ジャパン



 その日は特別することもなく、ホームでのんびり寝転んでいた。

「ルーク」

 暇をもて余していたと言っても良い。だからシャルナークの呼び掛けにも素直に背を起こし、応答する意図を示したのだ。
 無造作に投げられた本を片手で受け取る。

「読んでみなよ、それ」

 意味深な笑みを向けてからシャルナークは悠々と背を向けて立ち去った。いつまで経っても気紛れな猫のように自由な男だ。
 暇潰しになれば良い。そんな軽い気持ちで本の表紙を開き、ある単語を目にした途端胸の鼓動が急激に速まった。急く気持ちを必死に抑え込み、偶然かもしれないと自分に言い聞かせる。早とちりして間違っていたら、傷つくのは他でもない自分だ。
 そうして努めて冷静に、小さなことでも見逃さないよう丹念にストーリーを読み解いていく。最後のページを読み終わり、背表紙を呆然と眺める頃には読み始めてから随分と時間が経っていた。
 胸に抱いた一つの確信を、小さく呟く。

「同じだ」

 同じだった。同じようでいて些細な、時に大きな違いが垣間見えるこの世界ではなかった。架空の国家、ジャパンを舞台に繰り広げられる戦記を緻密に描いた本の舞台は、確かに俺が前世を過ごした日本だった。

 駆け込んだ先、シャルナークの仕事部屋は、いつもと同じく彼の愛用の数台のパソコンが光を放っていた。その前に座って談笑していたらしいシャルナークとパクノダが同時に此方を向く。来訪を予想していたのだろう、その顔に疑問はない。代わりに確信に満ちた笑みが浮かんでいる。

「やっぱり貴方の記憶の中の世界?」

 問いながら、その手の内には俺が先程まで夢中になって読んでいた本がある。
 パクノダは以前俺の記憶をみている。初めに気付いたのが彼女であっても不思議ではない。
 逸る気持ちを無理矢理抑え込み、意識してゆっくりと言葉を吐き出す。

「ああ。間違いない」

 ジャパン。その単語だけではない。物語の中で使われていた明治という元号。天皇家。政治家の名前。散りばめられた言葉の全てが前世の記憶を刺激してくる。この世界のジャポンには存在しない架空の設定は、俺がよく知っている前世の日本の歴史を実際に構成していた。

「この本の作者は?」

 前世の世界に戻りたいとは思わない。確かに頭の中では既に今と前世を切り離しているはずなのに、知りたいという欲求は身の内から溢れ、止まることを知らない。
 焦らすつもりはないらしい。シャルナークは珍しく勿体ぶらずに口を開いた。

「ジャポン出身の作家で、一年前にこの本を出して有名になった」

 そして告げられた経歴に不審な点は一切ない。当たり前だ。関係あるのは生まれる前の経歴なのだから。
 ただ、一つ疑問に思う。淀みなく説明を終えたシャルナークの笑みに、冷静な思考を取り戻す。

「何でこんなに親切なんだ? どんな裏がある?」

 あまりにも調べが早すぎる上、対価を要求せずにここまで素直に情報を明け渡すなんて彼らしくない。
 一体どんな意図が隠されているのかと睨み付けた先で、シャルナークは呆れたように大袈裟に溜め息をついてみせた。

「ルークのお仲間が未来の蜘蛛について知っているかもしれないんだろ?」
「あ」

 すっかり忘れていた。あの時の俺は関係のないことだとわりきって全てを忘却した。転生者の少女を殺してからなのだ。俺が蜘蛛で生きていくと決めたのは。
 隣に座るパクノダをそっと覗き見れば、関係ないと云わんばかりに手元の本に視線を落としている。
 けれども、その死を予言されたのは確かに彼女なのだ。
 唐突に胸が痛む。先程本を読んだ時に抱いたのとは別種の焦燥感に、意識して深呼吸を繰り返す。

「いつ頃の出来事か、分かってるんだっけ?」

 どの程度先の未来なのか。

「さあね。ただ、現状まだ"シズク"がいなくて、アーティーがいる。あとルークも、か」

 蜘蛛の未来が分かるという少女は、名前を呼んで動きを制限する能力者だった。その彼女が呼んだ中には、アーティーがいない。まだ、その未来は訪れない。それが分かって、漸く呼吸の仕方を思い出す。胸一杯に新しい空気を取り込む。

「それでさ、蜘蛛にとっての重要性を理解してもらったところで次の話」

 視線を移せば、胡散臭い笑みが飛び込んできた。思いっきり眉をしかめてみせるも、やはり此方の反応など彼は頓着しないらしい。

「早速作者に連絡してみたよ。貴方の書いた本に出てくるジャパンで前世を過ごした者ですがって」
「は?」

 視線が絡み、見詰め合う。大きな目が瞬き、次いで悪戯っぽく微笑む。

「そしたら頭おかしいんじゃないんですかって言われてさ」

 全面的に同意する。いくらなんでも真正面から聞き過ぎだ。

「それで精神科医を紹介されたよ」

 何がそんなにおかしいのか、声に出して笑いながらシャルナークは一番近いパソコンに向き合った。
 本気でこいつこそは一度精神科にかかるべきだと思う。いや、蜘蛛にいる時点でそういう類の常識とは縁を切ったつもりであったが、それでもパソコンの光に照らされて不気味に笑うシャルナークは見ていたくない。
 自然ともう一方に視線がいく。パクノダは今のやり取りを平常心で聞き流し、ぱらりと本のページをめくった。別の世界にいるかのような落ち着きぶりだ。

「ま、見なよ」

 シャルナークの呼び掛けに、嫌々ながらパクノダを視界から外して近くに寄る。シャルナークが座る椅子の背に手をかけて、画面を覗きこむ。
 一番上には写真があった。五十代くらいだろう、髪が禿げあがった普通のおじさん、という印象を持つ。そして右横に書かれた名前。

「ジョージ・クルフト? 精神科医、って。もしかして作者に紹介された?」
「そう。その下。経歴も見れば? 面白いよ」

 無言で読み進める。
 専門用語も多いが、要は多重人格専門の精神科医らしい。学生時代、事故に遭ったことが切っ掛けでクルフトは別人格の記憶があることに気付く。それから多重人格という症状に興味を持ち、専門過程を修了後、精神科医に。その後、患者の一人と結婚して一児をもうける。妻は既に病死しているが、実子である娘とは別に患者である児童二人の保護者も引き受けている。
 そして、気になったのが最後に付け加えられた一文。

"前世の記憶がある方もお気軽にご連絡を"

 経営している個人病院の宣伝文句らしい。胡散臭過ぎて普通ならば見過ごすところだが。

「もう一つ」

 読み終えたと判断したシャルナークは、マウスを手に画面を切り替えた。
 次に映ったのは、まだ幼い少女の写真。

「名前はキャルロ・イージス。ジョージ・クルフトの患者の一人で今は彼が保護者になって面倒を見ている子供だ」

 そういう秘密厳守が基本であろう個人情報を何処で入手したのかは敢えて聞くまい。頷くだけで続きを促す。

「彼女、前世の記憶があるって騒いで両親から捨てられたみたいなんだ。それでクルフトに拾われた」
「前世って日本か?」

 高まる興奮に、思わず上擦った声が出た。
 期待をこめて見詰めた先、シャルナークは肩をすくめる。

「そこまでは分からなかった。ま、でも行って損はなさそうだろ?」

 数々の情報を前に、にやりと笑う。自信に満ち溢れたその表情に、小さく息を吐き出す。
 結局のところ、俺は彼らの思い通りに動くしかないのだ。今までの経験を思い返しながら拒否という選択肢を即座に諦め、口を開く。

「で、もう予約は取ってあるんだろう?」

 ここまで情報を集めているのだからお膳立ても済んでいるのだろうと問えば、勿論と軽やかな声が返ってきた。

「三日後の午後二時にルークの名前で予約した。飛行船で行けばぎりぎり間に合う」
「準備が早いことで」
「優秀な仲間がいて幸せだろう?」

 本当に口がへらない男だ。


「あれ? 出掛けるんだ」

 プリントアウトされた地図をポケットに突っ込みホームを出ようとしたところにかけられたのは、のんびりとした声。振り向けば、アーティーが目を擦りながら此方を眺めていた。
 転生者の少女に予言された未来には、彼はいない。その事実を知るのは、遠い過去、転生者の少女に出会った団長、シャルナーク、パクノダのみ。

「ああ。アーティーは? 急ぎの仕事は終わったんだろう?」

 不自然にならないよう気を遣いながら、話題を反らした。
 アーティーは副業として呪い屋もやっている。彼のオーラをこめた絵の具で描いた絵は、呪いの絵として売り出しており、結構な人気らしい。呪いたい相手に贈るだけで証拠を残さず暗殺できる手段として。
 確か一週間程前にもある裏社会の人間の依頼をこなす為に徹夜で仕事をしていたはずだ。

「うん。新しく依頼入った」

 たどたどしく紡ぐ言葉の合間に欠伸が挟まれる。よっぽど忙しいのだろう。

「ちょっとは休めよ」

 暇をもて余していた身としては気まずくもあり、それを誤魔化すためにピンク色の頭をぐしゃっと撫でる。素直に頷いたアーティーに、ホームでは珍しく微笑ましい気持ちになれた気がした。

「じゃあ行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」

 くるりと背を向けたアーティーは仕事に戻るのだろう。
 俺も自身の仕事を果たさなければならない。少しの気負いと多大な期待を胸に、ホームを後にした。


| |  

 

 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system