精神科医



「やあ、よく来たね。ルーク」

 こじんまりとした一軒家の戸を叩いて中にいた少女に名前を告げれば、すぐに診察室と表札のかかった部屋へと通された。
 椅子に座っていたのは、写真で見た通りの年配の男。爽やかな笑みと共に名前を呼び捨てにされて、眉間に皺を寄せる。

「ああ、すまない。ヘルゲンさん、と呼ぶべきだったかい? 私は患者を名前で呼ぶ癖がついているから、不快だったら遠慮なく言ってくれ」

 どうぞ、と手で示された椅子に座り、胡散臭い精神科医と向かい合った。落ち着いて男を観察しながら口を開く。

「ルークで良い」

 開口一番呼び捨てにされたのは気に入らないが、現在名字を呼ぶ者は誰もいない。

「では、ルーク。私のことはジョージ先生と」

 だから構わないのだが、会話の主導権を握られてしまったことに僅かな不満を抱く。
 しかし、そんな些末な思いは精神科医の言葉に散らされた。

「明らかに年上の男を呼び捨てにするのは、日本人の精神構造では難しいだろう? ああ、それとも君は今の生活環境に既に適応できているタイプかい?」

 思わず取り繕うことも忘れて男の顔に見入ってしまった。穏やかな笑みは崩れず、垂れがちな目が優しく細まる。

「ルーク。私は、恐らく君と同じ状況に置かれた人間だ。そんなに身構えないでくれ」

 深く息を吐き出し、言葉の意味をのみくだす。
 まさか直球でくるとは思わなかった。頭の中をそんな言い訳が巡り、一先ずの敗北を理解する。元々交渉は得手ではないが、こうも易々と完全な主導権を握られてしまうとは。
 団長の冷ややかな視線を思いおこし、背筋がぞくりと震えた。大丈夫、誰も見ていない、そう言い聞かせて精神科医に向き直る。

「ジョージ先生も前世の記憶があると?」
「ああ」

 あっさりと彼は認めた。

「今も覚えているよ。1999年4月10日のことは」

 そして明確な証拠を口に出す。

「ーー線。ーー駅からーー駅に向かう途中だった」

 ゆっくりと瞼を閉じた。脳裏にあの日の出来事を思い起こすように。
 彼が口にした日にちは、"俺"の、もしくは"俺達"の命日だ。二十六年生きた"俺"は、1999年4月10日に命を落とした。そして線や駅の名前、全てがぴったり記憶と一致する。

「ルーク。その様子だと君も覚えているようだね」
「ああ」
「前世の記憶があるとはっきり自覚したのはいつ頃?」

 低く穏やかな声は、彼が確かに医者であると知らせてくるようだった。自然と素直に言葉が口から溢れる。

「五歳の時だ。列車を見て、倒れた。起きた時には全部思い出していた」
「そうか」

 手元の紙に書き付け、男はゆっくりと視線をあげた。

「君は漫画、『HUNTER×HUNTER』という漫画を読んでいた?」

 確信に満ちた声色だった。彼は何を知っているのか、訝みながらも小さく頷く。

「最初の方は読んでたけど。あとこの世界がその漫画の世界と酷似していることは知っている」

 断言することは避けた。流石に登場人物を直に知っているとは言えない。それも幻影旅団とは。男の口ぶりだと、世間に知られている幻影旅団どころか蜘蛛の単語だけで理解してしまいそうだ。

「そこまで理解しているなら話は早い。ルーク。君の言う通りだ。私達がいる世界は、漫画の中の世界。そして私達がいた世界は、この世界での本の中の世界だ」
「は?」

 思わずもれた素の驚きに精神科医はにっこりと笑う。

「あの本を読んで、作者に連絡したんだろう? そして私を紹介された」

 肯定の意を示すため、静かに頷く。

「うん。でも、作者は私達のように前世の記憶があるわけではない。まだ思い出していない状況、というわけでもない。方法は言えないが、私は直接彼に会って調べさせてもらった。確実な情報だよ」

 簡単にその言葉を信用できるはずがない。
 全く動きもなく沈黙を保った俺を見て、精神科医は焦らずゆっくりと繰り返した。

「私達のいた世界は、本の中の世界だ。ルーク。日本は、この世界では本の中にしか存在しない」
「有り得ない」

 駄々をこねるように否定したのに、精神科医は落ち着いた様子を崩さず宥めにかかってくる。

「ルーク。簡単な話だ。なにも私は日本という国、"私達"の前世を否定しているわけじゃあない。ただ、世界が違うんだ。前世過ごした世界ではこの世界は漫画の中の世界だった。それと同じだ。この世界では日本は本の世界にしか存在しないが、確かに"私達"はそこで生を全うした。そのことを否定する気は全くない」
「ああ」

 諭すような声音に、やっと頭が冷えてきた。言葉を発する余裕が生まれる。

「作者は"俺達"とは関わりのない人間だっていうことは理解できた」

 言葉にして己に納得させる。
 別にそれでも構わない。今の俺に必要なのは、漫画の知識。未来の蜘蛛の情報。この男からそれを聞き出せるならば、他のことはどうでもいい、と。

「理解が早くて助かるよ。漫画を読んでいなかった人達からすると、どうにも受け入れがたい事実のようでね」

 幸い、男に情報を渋る気配はない。

「他にも"俺達"のような人が?」

 俺は可能な限り男から情報を引き出せば良い。それだけに意識を集中させる。段々と混乱からきた興奮が収まり、頭の中が冴えていく。

「私の知る限りでは君を入れて18人。あの電車事故で死んだ人間全員がこの世界で生まれ変わっていれば、少ない数字ではあるけどね。作者を通じて此処に誘導しているから、この一年で随分と仲間は増えたよ」

 落ち着いた声にも喜色が見え隠れしていた。心底嬉しそうなその様子に、勝負を仕掛ける。

「ジョージ先生。貴方も漫画を読んでいたから、今回の事態をすんなりと受け入れられた?」

 話の流れからすれば、そうであるはずだ。
 精神科医は一呼吸置き、ゆっくりと首を横に振った。

「いいや。だから私は覚醒が遅かった」

 言葉の意味は理解出来なかった。けれど、俺の求めているものを彼が持っていないという一点だけは理解できた。
 じんわりと失望が胸に広がる。表に出すまいと努力した結果、口許を固く引き結ぶ。

「すまない。説明が足りなかったね」

 沈黙をどう受け取ったのか、男は心底済まそうに言葉を続けた。

「どうやら漫画を読んでいるかどうかで前世の記憶の覚醒具合が違うようなんだ。異世界における人格の定着率と私は呼んでいる」

 それは、何となく気付いていた。俺とアリスの違い。死んだ年齢も同じなのに、何故前世の記憶についてアリスはあまり覚えていなかったのか。漫画を読んでいたか否か。そこにしか違いがない。

「漫画を読んでいた人間は、この世界に関する知識がある。故に早くから人格が新しい身体に定着したのだと私は考えている。現に『HUNTER×HUNTER』という漫画を全て読んでいた子は、赤子の時から前世の記憶をはっきりと維持していたからね」
「本当に?」

 思わず口を挟んでしまった。
 勝った、と心中で喝采をあげる。やっと手繰り寄せるべき糸が見付かった。その子を手に入れれば、未来が分かる。

「信じられないだろうけど、本当だ。彼女は言葉を話し始めた時には既に自分を日本人だと認識していた」

 先程からぽろりぽろりと溢される情報の欠片を頭の中で組み立てる。
 男は対象を"子"、"彼女"と称した。そして、シャルナークがもたらした情報。ジョージは、前世の記憶を持つ女の子の保護者となっている。その女の子の名前は、キャロル。

「反対に私のように漫画の知識がない人間は、うすぼんやりとした前世の記憶しか持っていない。時々変な風景が脳裏に浮かんだり、ふとした時に知らないはずの単語が出てきたり。私は事故で死にかけた時に全て思い出したから、何らかの切っ掛けで元の人格が覚醒することもあるんだろうね」

 早くその女の子の話題に戻りたかった。そんな急く気持ちを何とか押さえ込み、相槌を打つ。

「俺が列車を見ただけで記憶が全て蘇ったのは、漫画を読んだことがあったからなんだな」
「そうだろうね。普通はそこまで簡単にはいかない。うちに来る人達も、あの本を読んで懐かしい気がした、程度の人が大半だよ。前世の記憶という存在自体を認めていない人もいる」

 落胆したように語る男は、よっぽど仲間を欲しているのだろう。

「でも、俺みたいな奴もいるんだろう? 他にもいるなら、会ってみたい」

 直球で切り出してみた。だがそれほど不自然ではないだろう。不思議なことを経験し、それを共有したいという欲求はあって然るべきだ。
 案の定、精神科医は疑いもせずに頬をゆるませた。

「勿論だ、ルーク。"私達"は仲間を歓迎する」

 よし、と拳を握り締めて歓喜をかみしめたその瞬間、扉を叩く音がした。

「どうぞ」

 男が促せば、ゆっくりと扉が開き、奥から片手に盆を持った少女が静かに部屋に入ってきた。この診療所を訪れた時に初めに会い、名を告げた少女だ。
 盆に乗せられた二つのカップを慣れた様子で机に置き、少し離れた位置で盆を胸の前に抱える。

「紹介しよう、ルーク。私の娘のエリだ。助手のようなこともやってくれている」

 小さくお辞儀をした少女は、表情を一切変えず挑むような視線をくれる。

「娘がいるんですね」

 適当に言葉を発しながら、シャルナークがくれた情報を頭に思い起こした。
 そういえば、この男には死別した妻との間に実子がいたはずだ、と。
 僅かな違和感が胸に燻る。

「ああ。幸い、この世界で私は幸せを得られた」

 手で促され、カップを手に取る。紅茶を一口含みながら、違和感の正体を探る。
 そう、この男は家庭を持っている。この世界での平穏を掴んでいる。その上で何故そこまで前世の記憶を持つ人を集める必要があるというのだろう。わざわざ作者に誘導させるという手間をかけるその情熱の根本にあるものは、本当に前世の記憶を共有したいというただの欲求なのか。

「彼女は前世の記憶を?」

 何とか糸口を掴もうと言葉を発するも、思考がうまく働いてくれない。

「彼女は"私達"の仲間ではない。だが、"私"の良き理解者でいてくれている」

 明らかにおかしな言い方だった。それは分かるのに、それ以上どう言葉を重ねれば裏を知れるか、全く思いつかない。
 くらりと揺れた視界に、漸く何かがおかしいと理解した。

「君にも仲間になってもらいたかったのだが」
「薬?」

 目眩がする頭を押さえながら、かろうじて呟く。身体に力が入らない。左手に如意棒を具現化させるのが精一杯だった。

「それが君の能力か」
「先生。この人危険」
「分かっているよ。離れていなさい、エリ。それと先生ではなくパパと呼びなさい」

 椅子から立ち上がる音がした。如意棒を持つ手に力をこめた瞬間、低い声が耳を打つ。

「ルーク。君は私とエリに危害を加えることが出来ない」

 途端に具現化した如意棒が崩れ去った。全身の力が抜けて、傾いた身体を男に支えられる。
 流星街で鍛えた身体は薬や毒の効きにくい体質になっているはずだった。自ずと答えにたどり着く。

「念能力か?」

 舌はきちんと動いた。けれども思い通りにならない身体に苛立ちは募るばかり。睨みつけるも、精神科医は穏やかな微笑をみせてくる。

「すまない、ルーク。どうやら君は幾つもの罪を重ねているようだ。そうだね? エリ」
「この人悪い人」

 感情のない声で少女は答えた。娘に絶大な信頼を寄せているらしい男は、一つ頷き俺に向き直る。

「今はあまり波風を立てたくはないんだ。準備は慎重に行わなくてはならない」
「殺す気か?」

 身体を支える太い腕に引っ掻き傷を残すことすら出来なかった。無力な自分が、油断した自分が腹立たしくて仕方ない。それでも無為に殺されてなるものか、と精一杯の力で睨みつける。
 精神科医は少しだけ目を見開き、やがて頬をゆるませた。

「まさか。ただ、少しの間"私達"との関わりを持たないでいてくれれば良い。その後のことに関しては、私は手を出せない」
「知りたいんだ。未来を」

 殺しはしないと言い切った男の言葉を途中で遮り、率直に自らの欲求を口にする。どんなに惨めでも構わない。自尊心すら捨て去り、ただ懇願を重ねた。

「助けたいんだ。何もしないなんて耐えられない。お前の邪魔はしない。だから、教えてくれ。漫画の知識を」

 回らない頭でも、男には何らかの目的があることは理解出来た。それを邪魔する気はない。ただ、未来の蜘蛛がどうなるか、教えてくれればそれで良い。

「エリ」
「何? パパ」

 娘に視線を移した男は、少しだけ考えてから言葉を発した。

「君の判断で構わない。いつか、彼の力になっても良いと思ったら、協力してあげてくれないか?」
「分かった。他の皆の不利益にならない内容なら、協力する」
「有難う」

 会話を終えて、此方を向く。大きな掌が髪を撫でてくる。逆らう力が出ないことが、無性に悔しい。

「安心しなさい、ルーク。エリはきっと将来君の助けになる。今応えられなくて本当にすまない」

 一つ視線を落としてから、俯きがちに続けた。

「本当に、すまない」

 別の含みがある言い方だった。けれど追及する間もなく、男は顔をあげて穏やかな微笑をつくった。

「ルーク。君は今日この病院にやって来た。けれど、此処にいたのは日本という前世の記憶を否定して治療を強要してくるいんちきな医者だった。君は腹を立ててすぐに帰ってしまう」

 偽りの記憶を植え付けられているのだと直感では理解しているのに、頭は素直に男の言葉を受け入れていく。抗いようのない、念能力の仕業だ。分かっているのに、逃れられない。

「いいかい? 君の求めるものは此処にはなかった。ジョージ・クルフトは、全く関係のない人間だ。ジョージ・クルフトと関連性のある人間皆、君の求めるものを持っていない。これ以上の調査に意味はない」

 落ち着いた声に促されるようにして、立ち上がった。
 いつの間にか床に膝をつけ、此方を見上げる精神科医を侮蔑をもって見返す。

「いきなりどうしたんだい? ルーク」
「帰る」

 もう用は終わったのだ。この精神科医は日本とは全く関係のない人間だった。

「もう二度と来ない」

 とにかく不快で仕方なかった。早くこの診療所を出なくては。急かされるように足を踏み出して部屋を出る。

「ルーク」

 この上金まで請求されては堪らない。後ろからかかる声を無視して、足早に診療所を後にした。
 すぐにポケットから携帯電話を取りだし、苛立ちをぶつけるように乱暴に番号を押していく。

「あ、シャルナーク?」

 すぐに出た相手に険のある声で呼び掛けたが、なかなか返事がこなかった。構わず用件を簡潔に済ませる。

「ルークだけど。この精神科医は違った。全く関係ない」

 無駄足を踏んだことに対する怒りを示すように言い切り、電話を切ろうとした時だった。

「ルーク」

 耳に届いたのは、電話越しでもありありと伝わる沈んだ声。歩みを止めて、携帯電話を握り直す。

「シャルナーク? 何かあったのか?」

 暫くの沈黙のあと、その声は響いた。

「アーティーが、死んだ」


| |  

 

 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system