初めての



 全てが一瞬の内に起こったような感覚だった。一直線に左手から伸びた如意棒が床を這い、笛使いの足元を急襲する。不意を付かれてバランスを崩した彼の口元から笛が離れる。刹那、待ちわびた静寂に息を大きく吐くと同時だった。小さな固まりが視界を横切る。急激に軽くなった身体を支え、やっとのことで立ち上がった時には全てが終わっていた。
 ふらつく足に力を入れ、どうしてか重力変化の影響を全く受けていないかのように芯の通った立ち姿で死体を見下ろす少年を呆然と見やる。
 かろうじて俺の目は少年の動きを捉えていた。敵の能力が消えた瞬間、彼は一足飛びで首をへし折りに行ったのだ。本当に、有り得ない身体能力だ。
 満足そうに死体を見下ろしていた少年がゆっくりと顔を上げる。貪欲に獲物を求める凶暴な視線は真っ直ぐ俺へと向けられていた。次は俺が殺られるんじゃないか、そんな滑稽な想像にオーラが勝手に膨れ上がる。
 少年は、口角を上げてふんぞり返った。

「六人だ」

 歓喜が滲み出た笑み。此方を見下し胸を張る少年の発した言葉が時間をかけて脳味噌に浸透する。じわじわと不思議な感覚が胸をせりあがる。
 人を殺すことに対する罪悪感も、躊躇も、気遣いも、何もなかった。何もないことに疑問すら感じていなかった。強敵を倒したことへの達成感はあるのだろう。けれど本質は違う。彼はただ俺との遊びで勝利をもぎ取りたかっただけなのだ。少年にとっての敵は、笛使いの能力者ではなく、俺だった。現に彼は既にこと切れた笛使いに目もくれず、俺の敗北宣言をうずうずと待ちわびている。
 床にめり込んだままの棒を拾いあげる。若干の懸念をよそに、軽々と手の内に転がり込む慣れた感触が愛しい。その瞬間、浮かんだ笑みは何に対してか。生の実感を取り戻せたこと、にしておこう。けれど心の隅に全く別種の安堵が芽生えたことには気付いていた。
 俺は少年の無邪気な様に、安心していた。人殺しを罪とも思わず遊びにしてしまうその狂った感性に、鬱屈としていた気分がほんの僅か軽くなった。少年を侮蔑したのではない。ただ、そういう生き方も有りなのだと、この世に存在しても良いのだと、理由なく思ってしまったのだ。それほどに少年の強さは、筋金入りの負けず嫌いは、俺を圧倒していた。

「ごめん」

 すんなりと負けを認めた俺に、少年は凶悪な目つきを驚きで和らげる。けれどすぐにそれは消え去り、再びこめかみをひきつらせた。

「てめえ、俺を馬鹿にしてるのか?」

 先程までの戦闘の影響を欠片も伺わせない爆発的なオーラの固まりに、一歩後ずさる。読みやすい単純な思考回路に笑いが込み上げたが、それは流石に我慢した。

「俺が二人。あんたが六人。だから俺の負け。謝るよ」

 少々理不尽な気もしたが、最後笛使いにとどめをさしたのは少年だ。気前よく勝ち星を差し出そう。まあ、それがなくても少年の方が多く倒しているのだし。それに元々俺は勝ち負けに拘っていない。
 少年は小さく舌打ちした後、不満そうに呟く。

「何に対して謝ってるのか分かってんのかよ」

 今度こそ吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
 断言できる。何の為の謝罪か、少年自身絶対理解出来ていない。ただ俺を屈服させたかっただけだ。そのくせ謝罪じゃ満足出来ない。でも自分から言い出したことだから強く文句も言えないんだろう。ついさっき俺を怯えさせた程の底力をみせた少年の、純粋な幼さが妙におかしかった。

「さて、勝負も付いたし役割こなそうよ」

 緩む口許を隠すように俯きながら近付き、少年の足元に跪いて死体の懐を探る。すぐに見付かった通信機を操作すれば、赤いランプは簡単に付いた。

「笛使いのお兄さんは倒しました。今から奥に進むので神にでも祈りながら待っていて下さい」
「おい、無視してんじゃねえよ。ってか何やってんだ?」

 上から降ってきた理不尽な拳を横に避ける。

「陽動だよ。クロロに言われただろう?」

 そうだっけか、と首を捻る少年をよそに通信機を壊そうとした時だった。ざーざーと機械が雑音を発する。そして奇妙な静寂のあと響いたのは聞き慣れた声だった。

「ルークか?」

 通信機越し、意外そうに問いかけてきたのはクロロその人だった。
 何処をいじれば返事が出来るのか分からない。戸惑った挙げ句掌に収まったままの通信機を凝視していれば、クロロは勝手に言葉を続けた。

「楽しそうだな。こっちはもう終わった」
「おっ。団長か」

 嬉しそうに少年が通信機に話しかける。応答はない。いつの間にか赤いランプが消えて黄色いランプが点滅している。多分今は受信しか出来ないんだろうな。そんな事を考えながら、心臓は有り得ないくらいに鼓動を速めていた。
 楽しそう? 誰が? 俺が?
 確かに少年が楽しそうに人を殺しているのを俺は認めた。そういう人もいるのだろうと、嫌悪せず受け入れた。けれど自分が同類かと問われれば、猛烈な怒りに頭が沸騰しそうになる。脳裏をよぎるのは、親代わりと暗殺者の少年の姿。顔色一つ変えず人を殺してみせた彼らは、目の前の少年やクロロとは本質が異なる。俺は、盗賊団の奴らと重なりたくなんかない。仲間になんて、なりたくない。あの最低な親代わりと一緒で良い。
 ぐしゃりと掌の中で通信機が形を変える。潰れたそれを投げ捨てれば、床に落ちた笛に当たって転がった。笛の持ち主はもういない。俺と少年の無邪気な遊びに巻き込まれて、死んだんだ。入り口で殺した警備の二人も同じ。そう思った時、初めて罪悪感が生まれた。
 分かっている。勝負を持ちかけたのは俺だった。だから罪悪感を抱くなんて、間違っている。分かっているからこそ、やりきれない思いが胸に留まり続ける。
 だってやっぱり違うんだ。今までの殺しと、今日の殺しは、違うんだ。行為そのものがもたらす結果は同じでも、望んでやったのかそうでないのか。望んでいない殺しのはずなのに楽しんでいたら、異常だろう?

 死んで尚忌々しい思いを抱かせる笛使いの男から逃げるように顔を背け、立ち上がる。そのまま少年に背を向けて出入り口へと歩を進めた。

「おい、何処行くんだ?」

 少年の声から険は消えている。そんな事にさえ苛立ちを覚えながら足を速めた。

「帰る。暇じゃないから」

 クロロは終わったと言ったんだ。ならば問題はないはずだ。

 急き立てられるように、ただひたすらに足を動かした。美術館から遠ざかりたかった。彼らと共にいてはいけない。それだけを念じながら走り、走り、息を切らせながら辿り着いた場所。公園の入り口で立ち止まり、浅い呼吸を繰り返す。時間が経つと共に息は整った。けれど怒りにたぎった胸の内は中々収まらない。
 浮わついた頭でぼんやり考える。何故こんな所に来てしまったんだろう。三日前会った彼女に会いたいのだろうか。それは何故だ。会って何がしたいというんだ。許しを乞うとでもいうのか。どこかアリスに似た彼女に懺悔でも捧げる、それで満足できるのか。
 ぐるぐると頭を巡る自虐的な思考に自分でうんざりする。くしゃっと髪をかき混ぜてみたけれど、何の気分転換にもなりえなかった。

「帰ろう」

 今はどうやったって冷静になんかなれやしない。帰る場所なんてないけれど、何処か別の国に行こう。一人になって落ち着いて、そしたらまた盗みに行こう。情報屋の少年の報告次第ではまた金持ちの家を狙おう。それで金を貯めてアリスの居場所を突き止めるんだ。アリスに会えば、今頭を支配する疑問も何もかも、全てがきっとどうでも良くなる。
 そうしてくるりと踵を返して一歩踏み出した時。最悪のタイミングでその声はかけられた。

「ヘンデス?」

 止めて欲しい。さっきまでならば感情に突き動かされるがまま行動出来たかもしれない。たとえ醜態を晒したとしても今日限りの付き合いだと思えば記憶から消去できる。何故今なんだ。中途半端に冷静を取り戻した今この時だなんて、間が悪すぎる。大体何で昨日も一昨日も来なかったのに、今日はいるんだよ。

「ねえ、ヘンデスよね?」

 近付く気配に、頬の筋肉が強張るのを感じる。嫌だ。会いたくない。

「ちょっと」

 苛立ったような声と共に肩を掴まれ、身体が硬直した。
 駄目だ。我慢しろ。このままでは訳の分からない苛立ちに任せて怪我をさせてしまう、そんな予感に身を縮ませて激情を堪える。瞼をぎゅっと閉じ、一呼吸してから目を開ける。そうしてからくるりと振り返った。

「夜の一人歩きは止めた方が良いって忠告したはずだけど? マリア」

 三日前と寸分違わず強い眼差しを向けてくる少女に、笑いかける。アリスのおかげで作り笑顔は随分と上手くなった。有難う、アリス。

「何よ、貴方の為にわざわざパパの目を盗んできたのに」

 不満そうに口を尖らせるマリアは、上手く騙されてくれたみたいだ。一頻り愚痴を吐き出したあと、胸を張って手を差し出してくる。

「何?」

 お金を催促されても困ってしまう。

「連絡先」

 簡潔な言葉に対して無言だったのがお気に召さなかったのか、マリアは眉を釣り上げて剣呑な目付きで睨んできた。

「だから! 連絡先よ、連絡先。ヘンデスは明日にはいなくなるんでしょう? だから今日中に連絡先聞かなきゃいけないじゃない。その為にこの寒い中私は待ってたのよ? 大体レディーを待たせることからして間違ってるわ。それにね、こういう事は普通男の方から聞くものよ。でも貴方って気が利かなそうだから仕方なく私から言い出してあげたの」

 感謝なさい、と息切れのため頬を赤らめながら締めくくるマリア。

「有難う?」

 あまりの勢いに気圧された結果出た感謝は語尾が上がってしまった。それも不満なのか鼻を鳴らし、けれども尚突き出された掌を凝視する。
 迷っていた。ここで嘘の連絡先を教えて関係を切るのが最善だと頭では分かっている。だけど心の何処かで恐れていた。このまま盗賊団の奴らと行動することが増えれば、彼らの考え方に染まってしまうのではないだろうか。大切だと思っていたことを、見失ってしまうのではないだろうか。アリスがいた頃は、彼女を通して"普通"を見れていた。なのに今はアリスが遠い。"普通"が遠い。ほんの僅かでも"普通"と繋がっていたい、そんな願いが迷いを生む。

「マリアの目から見てさ」

 地面を見詰めた。彼女の正直な目が眩しく、正面から向き合う強さを持てなかった。

「俺はどういう人?」

 望む言葉があったわけではない。ただ決断を先伸ばしにしたくて発した疑問だった。
 答えは即座に返ってきた。

「怪しいけど、危険じゃない人、ね」

 朗らかな声に惹かれ、視線を上げる。マリアは悪戯っぽく笑っていた。
 三日前の会話が蘇ってくる。自然と頬が弛む。

「そっか」

 彼女は何も知らない。俺が今日何をやっていたか、何も。けれど、三日前と今の自分は変わらないと断言してくれた。そう、俺は受け取った。
 そうしてこの日、俺は初めて自分の連絡先を他人に教えた。


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