少年の話2



 二回目の遭遇のあと、エレノアはサンへと食事を運ぶ仕事を淡々とこなした。投げ出すことは逃げ出すことだと負けず嫌いの自分に言い聞かせながら。それは、父親の仕事が一段落ついてからも続けられた。

 サンの部屋へと足を踏み入れる時はいつも緊張する。大きく深呼吸してから小さく戸を叩き、返事がないことを理解しているから、すぐにそっと押し開く。
 サンはいつもベッドの上にいた。寝ているか、上体を起こして本を読んでいるか、もしくはぼおっと外を眺めているかの三通り。
 今日は物憂げに窓へとその視線を向けていた。ベッド脇のチェストの上に食事を置いても此方を振り向きもしない。
 これもいつものことだった。サンはあれ以来エレノアを視界にも入れず、いないものとして扱っている。
 エレノアはサンの反応を引き出す手段を知っていた。親友のことで詰る時だけ、サンは彼女を認識する。薄い頬を少しだけ緩ませ、酷い言葉を投げかけるごとに同意を示すように頷いてみせる。
 なんだか相手を喜ばせているようで面白くなく、エレノアは結局一週間ほどで怒りをぶつけることを止めた。それ以来、サンの部屋で口を開いたことはない。
 食事を届けるという仕事が終わればもう用はないとばかりに踵を返す。そんな日々が三ヶ月も続き、エレノアは刺激を欲していたのかもしれない。息苦しい沈黙ばかりの空間は気詰まりで、だから彼女はほんの少しの変化を自ら仕掛けてみることにした。

「ねえ」

 扉とベッドの中間地点。それほど大きな部屋ではないが、何かあっても対応できるよう三歩ほどサンから距離をあけた場所でエレノアは立ち止まり、声をかけてみた。
 サンはといえば、聴覚を失ったかのように身動ぎ一つしない。

「何見てるの?」

 それでもめげず、今度は疑問を投げかける。きっかり一分待ってみても、反応はみられなかった。

「いっつも同じ景色ばかり見て飽きないの? 楽しい?」

 これで返答がなかったら諦めるつもりだった。
 しかし、予想に反してサンは薄い唇を開いた。

「慣れてるから」

 視線が外に固定されたままだったので、すぐにはそれがエレノアの問いに対する答えだと気付けなかった。一寸置いてからサンが慣れているから飽きないと答えたのだと認識し、わきあがった驚きを抑えながら再び問いかけてみる。

「いつも何を見てるの?」
「空と、雲」

 ぽつりとサンは言葉を漏らす。つられるようにエレノアも窓から眺めてみたが、いつも通りの晴天が広がっていた。青い空と、揺蕩う真っ白な雲。面白さの欠片もない、一分も眺めていたらすぐに飽きてしまうだろう景色。 
 呆れながらも否定の言葉をぶつけようとしたエレノアだったが、サンが先んじた。

「昔からずっと見てた。空は、同じだから。安心する」

 僅かに口角が上がり、微笑んでいるような横顔。機嫌良さそうに呟かれた台詞はエレノアに向けられてはいなかった。己の考えるところを理解させる気が全くない、整理されていない言葉に、苛立ちが増していく。
 サンは、彼一人しかいない世界に閉じ籠り、満足していた。

「わけ分かんない。あんた変だよ。気味悪い」

 エレノアが罵倒の言葉をかけたのは、少しでもサンの意識をひきたかったからだ。けれど言葉にしてから、気付く。これでは以前の繰り返しだ。サンは罵倒すればするだけ喜んでしまうのだから。
 一歩下がって身構えたエレノアの予想に反し、サンはぼんやりと一回瞬きを挟んで、それからぽたりと瞳から涙を流した。

「えっ?」

 驚きの声が重なる。
 サンは自分でも泣いていることが不思議でならないようで、ぺたぺたと頬を撫で回して事実を認識し、慌てて涙を拭った。

「あ、れ。違うんだ。君の言葉に傷ついたわけじゃなくて。本当なんだ。言われ慣れてるから、平気なんだ」

 君、と名前を呼ばれなかったことに、エレノアは自己紹介をしただろうかと今更なことを思う。

「ただ、ユーリは優しいから、こんな僕にも声をかけてくれて」

 初めてサンの口からユーリの名を聞いた。その事実に、今疑問に思ったことが綺麗さっぱりぶっ飛び、暴れだしたくなるような衝動だけが残る。
 サンは過去に思いを馳せ、エレノアを見ていない。だから彼女の形相が険しくなることに気付かない。

「変な子って笑いながら、一緒に空を眺めてくれて。とても、幸せだったんだ」
「止めて!」

 びくりとサンは全身を震わせ、やっとエレノアをその視界に入れた。
 初めて合わさった視線。サンの目は怯えを露にしていて、哀れみを誘う弱々しい態度に怒りは爆発する。

「そうよ! ユーリは優しい子だったわ! でももう二度と会えない。あんたが殺したからよ」

 サンの目から涙の気配が消える。呼吸さえ止まってしまったのかように固まって、何を考えているか読ませない無表情を取り繕う。
 耐えられなくなったエレノアはその後すぐに部屋をあとにした。

 自室に閉じ籠ったエレノアを心配したのか、父親が訪ねてきたのは夜半も近い時刻だった。

「僕の可愛いお姫様はご機嫌斜めかな?」

 酒が入っているのかやけに陽気なその声に、自然と眉間に皺が寄る。

「酒臭い。離れて」

 ベッドの上で俯せになり雑誌を読んでいたエレノアは、勝手に顔のすぐ横に座ってきた父親の尻を片手で押し出す。あまり力は入っていなかったが、娘の拒絶は効いたらしい。父親はそのままずるずると床に座り込んだ。

「サン君とは仲良くなれそうにないかい?」

 機嫌を窺うように指をベッドにかけて覗きこんできた父親が唐突にそう切り出して、心の準備が出来ていなかったエレノアは押し黙った。

「あっちに仲良くなる気がないなら無理だし」

 少し考え、素っ気なく相手に罪を擦り付けてみる。もちろんエレノアの方にも仲良くする気なんて皆無だが、サンに愛想がないことも事実である。
 今日はエレノアから話しかけてみたから己は無実であると虚勢を張り、次いで最後交わした会話を思い起こして胸が苦しくなった。読みかけの雑誌を脇に放り、枕に顔を押し付ける。
 父親が宥めるように頭を撫でてきた。この優しさは無条件に与えられるのだと信じることができる。そう思った途端、独りぼっちの少年が発した言葉を思い出してしまい、また苦しさが増した。
 きっと、ユーリはサンに優しくしたのだ。ユーリを殺したサンに優しくする人がいなくても、それは自業自得だ。可哀想と思うことはユーリへの冒涜だ。何度も何度も言い聞かせて、なのに胸に巣くったもどかしい痛みは存在を主張し続ける。

「今日、あいつが泣いたんだ」

 枕に吸いとられ、くぐもった声になった。変わらず頭に乗った手に、安心してエレノアは話を続ける。

「ユーリがいないからって泣いた。あいつはさ、ユーリっていう自分に優しくしてくれた人がいなくなって、一人きりになった自分が憐れになって泣いたんだよ」

 そうであって欲しかった。そうでなくてはならなかった。
 サンは悪い人間で、どこまでも自分本位にしか物事を捉えられない極悪人で、エレノアが憎むに値する人間でなくてはならなかった。

「ユーリちゃんの死を、共に悼むことはできないかい?」
「嫌だ」

 どこまでも優しく愛おしむような父親の声に、反射的に首を振る。
 同じ感情を、死者を惜しむ溢れんばかりの悲しみを、共有する。そんな父親の希望は、到底受け入れられるものではない。
 悪人には同じ感情など存在してならないのだから。

「何で、あいつを許さなきゃいけないの? 悪人を許すくらいの広い心がなきゃ、賞金首ハンターにはなれないの? 父さんは何で賞金首ハンターになったの? 悪人が許せなかったんじゃないの?」

 以前、父親は賞金首ハンターを目指す人は二通りいると話した。金目当てと、復讐目当て。父親は金目当てとは思えないほど金に頓着しない。ならば復讐目当てかとも思うが、あの時の口振りからすれば復讐目当ての賞金首ハンターに対して否定的なようだった。

「こっちを向いて、僕のお姫様」

 口から酒臭い息が吐き出され、嫌だったが渋々エレノアは顔を上げた。
 父親からお姫様扱いされるのは、悪い気分ではない。可愛がられているのだと感じられるから。
 視線が合えば、父親はだらしなくにやけ崩れた。

「僕の娘は本当に可愛いなあ」
「ちょっと」

 そのままぎゅっと抱き締められて頬擦りを始めたのでそれは押し退ける。酒気が移ってしまうのではと危惧するほど、むわっとアルコールの匂いに包まれたからだ。
 エレノアは父親がかなりの量を飲んでいることを理解した。こんな様では望む答えは得られないかもしれない。失望したような気持ちになり、再び枕に顔を埋める。

「小さい頃僕はね、正義の味方になりたかったんだ。悪者をやっつけるヒーローさ」

 予想通り、父親の返答は突拍子のないものだった。決して真面目に答えているとは思えない。
 それでも、あまり聞いたことのない父親の小さい頃の話、という点に興味をひかれた。
 首を回す。耳を枕にくっ付けて、父親を視界に入れながら話の続きを待つ。
 父親は、過去を懐かしむようにほわんと笑っていた。

「悪者をやっつける仕事に憧れて、賞金首ハンターになったんだ。楽しかったな。中々捕まえられなくて悔しい思いをしたこともあったけど、捕まえられた時の達成感はまた頑張ろうって思わせてくれる。何度か賞金首を捕まえてくれて有難うって被害者の人から手紙をもらったこともあるんだよ」

 子供の頃の現実味のない夢が実際の動機だと知ってエレノアは驚いていた。しかし、話を聞くにつれ納得する。
 父親の書斎に飾ってある、額縁に入れた手紙。お礼の言葉が詰まったそれを見て、エレノアも父親のような賞金首ハンターになりたいと思ったのだ。賞金首への恨みも綴られたそれを見て、実際に被害を受けたわけでもないのに幼い少女は犯罪者への怒りを心に芽生えさせた。共感という尊い感情を抱いたのは、それが初めてだった。

「本当に、ヒーローにでもなった気分だった。幸い素質はあったようでね。何人も賞金首を捕まえる内にこれが天職だなんて思ったよ」

 陽気な語り口に、ほんの少しの後悔が混じり始める。エレノアはその先を聞いて良いものか、すぐには判断がつかなかった。
 聞きたいような、聞きたくないような、迷っている内に父親はとろんと愛しさのこもった眼差しでもってエレノアを見詰めた。

「君のお母さんに出会って、僕の人生は変わった」

 静かに息をのむ。父親が母親のことを語るのは、初めてだった。いくら聞いてもはぐらかされるので、自然にエレノアは尋ねることを止めたが、興味がなくなったわけではない。
 幸いエレノアが身構えたことに気付かなかったらしい。酒に酔った父親は、愛しい女をエレノアの内に見るように目をとろけさせる。

「彼女はそれまでの僕の認識を根底からひっくり返してみせた。苛烈な眼差しに麗しい笑みを浮かべながら容赦なく僕の目の前で全てを奪い尽くす。捕まえていくら痛め付けても信念を負けず、決して自分の非を認めようとしない。いつだって隙を窺い、するりと僕の手からすり抜けていってしまう。いつしか僕は愛を知ってしまった」

 うっとりと語られるその内容に、エレノアは唖然と口を開いたまま閉じられなくなった。
 "奪い尽くす"。"捕まえて"。時折挟まれる物騒な単語から、弾き出された答え。

「私の母さんって、賞金首なの?」

 ぴしりと父親の動きが固まった。

「うそ……」

 今の今まで謎に包まれていた母親の素性を、こんな形で知ることになるなんて思いもしなかった。

「いや、違うんだよ。エレノア。そうじゃない。君が賞金首ハンターになったら全てを話すつもりで」

 一気に酔いが吹っ飛んだらしい父親はあわあわと弁明を始めるが、頭が回っていないのか何が違うのかさっぱり伝わってこない。
 自分でも言葉を紡ぐ内に無理があると気付いたのか父親は一拍置いたあと、気を取り直すようにこほんと咳払いを挟んだ。

「つまりな、父さんは正義の味方に憧れていてだな。初めてサン君を見た時僕には彼が泣いているように見えたんだ。ほら、正義の味方は泣いている子供を放っておけないだろう? だから僕は、この子を助けることが僕にとって正しいことだと思ったんだよ」

 良いことを言っているはずなのに、取り繕うような笑みと焦りからか額に浮かんだ汗が全てを台無しにしていた。

 次の日の朝。居間で朝食をとっていたエレノアの前に姿を現した父親は、二日酔いのせいか頭を抱えながらよろよろと椅子に座った。

「おはよう、エレノア」
「おはよう、酔っ払い」

 娘の冷たい声に泣き出しそうになりながら、恐る恐る父親は様子を窺ってくる。

「あのお、エレノア。昨夜なんだけどね、僕何か変なこと言わなかったかい?」

 父親は酔った時の記憶が無くなるタイプだ。最後の方は大分正気に戻っていたようだが、やはり記憶は残っていないらしいとエレノアは判断する。

「さあ? 言ったかもね。ご馳走さま」

 素っ気なく言い放って立ち上がれば、父親はうわあと髪をかきむしった。必死に記憶を思い起こそうとしているのだろう。みっともない様を冷たい視線で眺め、小さく息を吐き出す。

「父さんが正義の味方になりたかったっていう話を聞いただけよ」
「えっ。僕そんなこと話したの?」
「そうよ」
「他には? 何か言ってなかった?」

 少しだけ間を空けて、エレノアは視線を外す。食器を持ち上げて父親に背を向けて、それから口を開いた。

「何にも言ってないから安心してよ。あと、お酒はほどほどにね」

 母親のことは言えなかった。今はまだそのことについてどんな感想を持って良いかさえ分からなかったから。
 いつか、近い将来賞金首ハンターになるまでに答えを見つけなくてはならない。
 来るその日まで、母親のことは尋ねまいとエレノアは決めていた。そして、答えを出す為に必要だと思ったから、一人分の食事を盆に乗せて父親に声をかける。

「サンのところ行って来る」

 悪人が身近にいるという事実を己が受け入れられるのか、確かめる為に。


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