仲間を募り始めてから少し経った頃だった。
新たにジョージの診療所を訪れた男はぼんやりとしか前世の記憶を持っていなくて、けれどもその限られた記憶についてジョージが聞き取ったレポートを読んだキャロルは、ふるふると身体を震わせた。
「エリ……」
何事か訴えるように名前を呼び、その後に続く言葉が出てこないのか、感極まった様子で嗚咽をもらす。
エリはすぐに察することができた。声なく泣き出したキャロルを椅子に座らせ、その肩をさすりながらそっと口を開く。
「貴方のお父さん?」
胸元でレポートをくしゃくしゃに抱き締めながらキャロルはこくこくと頷いた。
「良かったわね。本当に、良かった」
ずっとずっと彼女が追い求めていた人物が、手に届くところにいる。その事実に、エリは純粋に喜びを感じることができた。ジョージをとられることは嫌だけれど、キャロル本人に対しては愛着を感じていたから。
「頼もしそうな人だったわ。来週また来てくれるそうだから、その時いっぱい話をすれば良い」
診察室に茶を運びに行った時、エリはキャロルの"父親"を実際に目にしている。現在の職業が格闘家という事実に納得できる、逞しい身体の男だった。
エリの言葉にひたすら頷き泣き続けるキャロルが可愛く思えて、強く抱き締める。本当に、心から、この時エリはキャロルが彼女の"父親"と良い関係を築ければ良いと思っていた。
しかし次の週、実際に診療所に訪れた男とキャロルが出会ってすぐに、現実は甘くないという事実を知ることになる。
男はキャロルのことを全く覚えていなかった。
前世で住んでいた場所の地名や家の様子はぼんやりと覚えている。その二つと誕生日が一致したことからキャロルはその男が前世での"父親"だと確信したが、男は前世での家族構成はおろか、己の名さえ思い出してはいない状態。
当然、前世の親子の再会は酷いものとなった。
「何で!? 何でお父ちゃんは私のこと覚えてないの?」
突然現れた"娘"の存在に困惑した男の対応はエリの目から見てそこまで冷淡ではなかったが、キャロルの予想を遥かに下回っていたらしい。
ろくに話も出来ないまま帰っていった男を見送ったあと、キャロルは荒れた。
「会いたかったの。ずっとずっと、いつか会えるって信じてて。やっと会えたのに」
泣いて物に当たって、疲れたようにぽつりと漏らしたキャロルが、エリには可哀想でならなかった。
「大丈夫よ。覚えていないのなら、また始めれば良い。初めましてから始めて、いつか新しい関係を築ければ良い。それに、もしかしたらキャロルといる内に記憶が戻ってくるかもしれないわ」
決して気休めではなかった。事実、仲間で集まるようになってからあまり記憶を持ってない人達の中には少しずつ前世の情報を思い出し始めている人もいる。
「そうだよね。お父ちゃんだっていつかは思い出してくれるよね」
いまだ涙の跡が色濃く残る顔をあげたキャロルの瞳には、再び小さな希望の光が宿っていた。
それからのキャロルの行動は早かった。エリ達と暮らした家を出て行き、男の元に転がりこんだ。幸い男は気軽な一人身。年頃というには若干若い女の子との仲を誤解されるような人はいなかったようで、驚き戸惑いながらも付きまとうキャロルを受け入れた。
定期に入る連絡でのキャロルは楽しそうな様子だった。もちろん中々記憶が戻らない男に焦れて泣き言ももらすが、男との生活の中で見え隠れする前世の"父親"の影を嬉々として報告されれば、送り出して良かったと安心してしまう。
男にとっては心当たりのない"娘"の存在は迷惑かもしれないが、エリにとって一番大事なのはキャロルの笑顔だ。だから、二人が衝突しながらも少しずつ距離を縮めていく様子を聞いて、本当に良かったと、エリは心から思っていた。
キャロルが一本の電話を入れてくるその日まで。
キャロルが家を出て男と暮らすようになって数か月が経とうとする頃だった。
定期連絡を入れてくる時期ではないのにかかってきた電話。キャロルの第一声はひどく暗かった。
「お父ちゃんが、殺された」
電話をとったエリは、思わず息を呑んだ。あまりに突然の訃報に、頭がついていかなかった。
相手の反応に頓着する余裕がないのか、キャロルは淡々とした様子で言葉を続ける。
「殺したのは、ヒソカ。絶対に仇をとるってお父ちゃんに約束したから。私はこれからあいつと行動する」
「待って、一度戻ってきて。お願い、キャロル」
声が硬くて、泣くのを必死に堪える様が簡単に想像できてしまった。独りぼっちで悲しみに堪えているキャロルに何かをしてあげたくて、そうエリは声をかけた。
しかし、そんなエリの想いはキャロルには届かない。
「そんな時間ない。早く、早く計画を練らなきゃ。あいつを殺さなきゃ」
「キャロル!」
「何?」
今にも電話を切られてしまいそうで、慌てて声をあげた。返ってきた言葉はひどく投げやりで、焦りが募っていく。
「何か、私に出来ることはない? お願い、キャロル。私も貴方の為に何かがしたいの」
ぎゅっと受話器を握り締めながら必死に申し出た。ここで電話を切られたら、彼女との繋がりまで途切れてしまう気がしたのだ。
キャロルを失いたくない。彼女の"父親"である男とはろくに話したこともない為その死に思うところは少なかったが、キャロル本人とは過ごした時間がある。間に嘘も秘密もあったけれど、妹のように大切に思う気持ちに嘘はない。
「キャロル。一度帰ってきて。貴方の家に」
エリは優しさのつもりでそう告げた。キャロルの帰る家は此処にもあるのだと示すことが思いやりになると思ったのだ。
「私に帰る家なんてない!」
だから、キャロルが激昂した様子で声を荒げた時、何を間違ったかすぐには分からなかった。
「そこはエリとジョージ先生の家で、私が帰るのはお父ちゃんがいる家よ! お父ちゃんのところに帰りたいっ!」
つきんと痛みを訴えた胸を、咄嗟に押さえつけた。
これは辛い、とエリは思う。そこにあると信じていた繋がりを否定されるのが、これほど辛いとは思っていなかった。
現実逃避気味に、エリは悟る。何故キャロルがこの世界の親から見捨てられたのか。こんな言葉をぶつけられれば、耐えられるはずがない。大切に思っていればそれだけ堪えるものが大きい。
それでも、痛みに耐えてエリは言葉を絞り出した。
「キャロル。それでも良いの。疲れたら、いつでも戻ってきて。私は貴方の味方よ」
責任を感じたのだ。キャロルが今独りぼっちなのは彼女の言動が原因かもしれないけれど、その言動を引き出した環境はジョージの念能力がもたらしたかもしれない。前世の記憶を保持してしまったが故に、こんなに彼女は苦しんでいる。
エリが勝手に抱く罪悪感を知らないキャロルは、少しの沈黙のあと静かに泣き出した。鼻をすする音に、胸が締め付けられる。
「エリ」
「何?」
いつものキャロルの声だった。感情豊かな、寂しくて辛くて堪らないのが伝わってくる声。
その声を聞けたことで少し安心したエリは、優しく促す。
「お父ちゃんね、私のせいで、私を守ってくれようとして死んじゃったの。お父ちゃんじゃなくて私が死ねば良かったのに」
嗚咽と共に吐き出された台詞があまりに哀れで、エリは喉元までせりあがってきた言葉を何とか押し留めた。
死んだのがキャロルじゃなくて彼女の"父親"で良かった。
元の性格が冷淡だという自覚のあるエリは、そんな胸の内を綺麗な言葉で取り繕う。
「お父さんが守った命を大事にして、キャロル」
「私の身体なんてどうでもいい」
「キャロル。そんな悲しいこと言わないで」
近くにいないからこそ優しい言葉で包み込んであげたいのに、キャロルはそれをはね除ける。
悔しくて寂しくて仕方のない想いの持って行き場を探していたエリの耳に、ぽつりとキャロルの溢した声が届いた。
「本当に、良かったの。だって、私は簡単には死なない身体だもん」
「どういう意味?」
一瞬の逡巡のあと、キャロルは思い切ったように告白した。
「誰にも言ってなかったけど、私念能力使えるの。強化系。自己修復能力に特化してるから、並の怪我じゃ死なないよ。だから、生き残っちゃった」
念能力のことをずっと秘密にされていたという事実に傷つきそうな己を、エリは必死に宥める。エリだってキャロルに言えない秘密を持っているのだし、それを明かす気がない分更に酷い。
今もまだ、ジョージと二人きりの秘密は守られていた。
そんなことを知る由もないキャロルは思いの丈をぶちまけるように続ける。
「だって、前世の最期、死にたくないって思ったの。あんなことで動けなくなる身体がすごく嫌で。でも、こんな能力にするんじゃなかった。どうせなら人を助ける能力とかだったら良かったのに。そしたらお父ちゃんを助けられた。そうじゃなくても、お父ちゃんの受けた傷を私が引き受けられたら。そしたら二人共生き残ったかもしれないのにっ」
憤りを己に向ける少女が哀れで哀れで、きゅっと瞼を閉じて共感するようにわきあがる哀しみを堪えようとして、ふとエリは違和感に気付いた。
受話器を握り締める左手とは反対の右手、拳を作っていたはずのそこに何かがあるのを。
そっと右手を開けば、くしゃりと皺になった人型の紙が出てきた。それを目にした途端、脳は正体を認識する。不思議なことに、その現象をエリは疑問を抱くことなくすんなりと受け入れることができた。
「遅いのに」
「何?」
「ううん。何でもない」
涙の気配が色濃い声に、独り言が口からもれていたことに気付いた。
エリが右手から出した人型の紙、それは形代だった。可哀想なキャロルの願いを叶えたい、そんな思いが形となったもの。それを付けた対象の痛みを、キャロルは引き受けることができる。
けれども、たとえそんな物を造っても、今のキャロルの望みは叶わない。もう彼女の"父親"はこの世にいない。
ならば、この能力をどうすれば生かせるのか。
「キャロル。私、貴方のこと助けられるかもしれない」
「どういうこと?」
「願って。貴方の欲しいものを、私はあげる」
彼女の"父親"を生き返らせることはできないけれど。ジョージとの秘密は明かせないけれど。他のものならば。
本当にキャロルの幸せを願うならば、きっと前世の記憶を奪うべきなのだろう。
薄々感じていたけれど、同じように前世の記憶に固執するエリの口からは、能力を使えば実現可能なその提案を告げることはついになかった。
エリが念能力を使えるようになってから、一つ新たに分かったことがある。
エリの念能力は対象の願いを叶えること。けれどもその根源が罪悪感であるせいか、願いを叶える対象は限られていた。その対象は、前世の記憶をもつ仲間達。ジョージの嘘に騙されている人達に限るのだろうと初めは考えた。しかし、そうではないことが直に判明する。ジョージの願いも、エリは叶えることができたのだ。次に思い付いたのは、対象はジョージの念能力を使われた人であるという仮定。試しにエリ自身が強く望んでみれば、それは形になった。飲ませた相手の心を奪う惚れ薬。形になったそれを使おうとは思わなかったから効果は不明だが、仮定は実証された。
つまり、日本で過ごした前世の記憶を持つ人達が生まれ変わったのは、ジョージの念能力のせいだというかとが確実になったのだ。
ジョージはそれを聞いて無邪気に喜んだ。計画実行の日を前世の命日と定め、仲間集めの際にはエリの念能力を用いて悪事を働いたことのある人間を容赦なく弾いていく。既に今いる仲間で計画は実行できるのだから、あとは他の仲間に怪しまれない程度に人を増やせば良い。
ジョージの行動の目的は念能力を行使し、自分達の転生を実行することのみに定められた。計画実行の危険分子と判断した男から身を守る為にハンター協会へとキャロル達から仕入れていた漫画の知識を横流し、裏社会の人間から情報を遮断してもらう。そんな裏工作を弄す反面、仲間、特に有益な念能力を持つ二人の子供と協力して日本への扉を開く方法を探る。
忙しなく時は過ぎていった。時折エリの念能力を頼りに訪れるキャロルは、基本的に仇であるヒソカと行動を共にしており、嘘をつく必要がないことだけが有り難かった。
そして、前世の命日に合わせてジョージと二人の子供が、日本と地理的に重なるジャポンへと旅立つ日がやってきた。
「じゃあ行って来るね」
ジョージの大きな掌が頭に乗る。温もりにすがってしまいそうな己を必死に戒めて、エリは笑みを作った。
「行ってらっしゃい。後のことは全部任せて」
満足そうに頷いたジョージは、最後にぎゅっとエリの身体を抱き締めてくる。その瞬間、ふるりと全身に震えが走った。
この温もりが失われていくことが怖かった。そしてそれ以上に、愛しい人の抱擁を最後に受けるのが自分だということが、涙が出そうなくらい嬉しかった。
歪みきった愛情を胸の内に隠したエリは綺麗に笑みを浮かべる。そしてそっと愛しい男の身体を抱き締め返した。
キャロルがエリの元を訪れたのは、命日から数日経った日のことだった。
「久しぶり」
彼女の"父親"が殺されてから張り付けるようになった仏頂面での挨拶に、エリは悟る。
彼女は何も知らない。
「あれ? ジョージ先生は? 出掛けてるの?」
それを裏付けるような問い掛けに、静かに首を横に振った。
「もう、いないわ。どこにも」
ジョージと二人の子供は彼らの前世での命日にジャポンで死んだ。きっと念能力は行使され、彼の野望は果たされたのだろう。そうエリは考えているし、結果に納得もしていた。
「二日前に、死んだの」
「うそ」
「元の世界へ戻る為に念能力を使って、死んだの」
嘘を織り混ぜた説明を受け、キャロルの目が大きく見開かれる。驚きを示したあと、彼女は予想とは違う行動に出た。
「信じらんない! あいつら自分だけ元の世界に帰ったの!?」
憤りを露にされ、エリは戸惑った。ジョージは仲間を騙していた、そんな先入観があるからこそ、キャロルの思考がすぐには理解できない。
「キャロル? 帰ってないわ。彼らは失敗したの。だから、皆死んだの」
ジョージの目的は日本に帰ることではなく、前世の己をこの世界に生まれ変わらせることだ。だから、彼は命と引き換えに念能力を行使し、死んだのだ。
「何で失敗したって分かるの?」
「何でって」
きっと鋭い眼差しが向けられる。
「分かんないじゃん。成功したかもしれないじゃん。私達皆向こうで死んで生まれ変わったんだよ? 同じようにこっちで死んで、向こうで生まれ変わってないって誰が言えるの!?」
でも、だって、エリは心の中で繰り返す。
でも、ジョージは日本に未練などない。だって、ジョージにとって大事なのはこの世界での過去だ。
そう、エリは信じていた。だから、キャロルが次に放った一言で凍りついた。
「ジョージ、日本に残してきた家族が心配だって言ってたし」
初耳だった。ジョージがエリの前で自分の前世の話をすることはなかったから。
「でも、そんなの他の皆だって同じじゃん。自分達だけ、ずるい!」
キャロルの喚く声が耳を素通りしていく。今まで信じていたものが音を立てて崩壊していく気がした。
もしかしたら、今頃日本で彼は新たな生を受けているかもしれない。エリのいない世界で。
想像しただけで血の気が引いていき、目眩がする。嫌だと叫び出したい自分がいる。それをしなかったのは、僅かな理性が残っていたから。キャロルの前で取り乱したくなかったから。
しかし、なけなしの虚勢はすぐに崩されることになった。
「エリも何でそんな平気な顔してるの! ジョージはエリを置いて行っちゃったんだよ!」
違う! そんな心の内の叫びは声にならず、ただ力なく首を横に振ったエリに、キャロルはそれ以上詰め寄ることはしなかった。
キャロルは本来の用事を済ましたあとすぐに出て行った。それからどれくらいの時間が経ったのか、気付けばエリはぼんやりと診察室の床に座りこんでいた。
辺りを見渡せばひどく物が散乱していて、前世の時の癖が出てしまったことに気付く。元々のエリはひどい癇癪もちだ。嫉妬深く、性格も意地も悪い。生まれ変わってからはおさまっていたのだが、かつてない程頭が混乱したせいで、物に当たってしまったのだろう。
一頻り衝動を吐き出したせいか、エリの頭は徐々に冷静さを取り戻していた。
「ジョージは、私に嘘をついていないわ」
ぽつりと、言い聞かせるように結論を口にする。
エリの念能力がその証拠だ。日本で過ごした前世の記憶を持つ人達にはジョージの念能力が使われている。だから、実際にジョージは前世での命日に念能力を使ったのだ。
それ以上のこと、例えば他の二人の子供の念能力によってジョージは日本に帰ったのか、そんなことはエリには知りようのないことだ。だから、考えるのは止めにした。
信じたいことを信じれば、それで良い。
けれども、同時にエリは途方に暮れていた。ジョージを失った今、何をすれば良いのか分からなかったのだ。何をしたいのかも。
そんな時だった。ルークという要注意人物が現れたのは。
彼は悪人だった。エリの念能力でその事実を見抜いてからは警戒していたが、ジョージの目的が達成された今はその必要もない。
そして、彼はエリの念能力を必要とした。
要請に是と答え、帰って行った彼を見送ったエリはあることを悟った。
エリは、"母親"に望まれて生まれた人格の一つだ。そして、"母親"とジョージに望まれて第二の生を与えられた。ならば、その二人のいない今、エリの存在を望む人は果たしているのだろうか。
ルークの望みを叶えるまでは生きていなくてはならない。ならばその後は。
生きている意味など、ないではないか。
死を望んだエリが最期に思ったのはキャロルのこと。
エリはキャロルに望まれなかったけれど、キャロルのことを本当に大切に思っていた。だから、最期に願った。
キャロルの望みが叶いますように。