少女の話 T



 男は戸惑っていた。

「今日からお世話になります」

 目の前で金の髪がふわりと宙を踊る。ぺこりと礼儀正しく一礼した少女は顔を上げると満面の笑みで、扉を開けた体勢で固まる男の横をすり抜け、部屋へ押し入った。

 事の発端はある意味男の幼少期まで遡る。
 ふとした瞬間、例えば母親の呼び掛けに振り返った時だとか、現実に映る風景とは違う絵面が頭に浮かぶことがあった。それが起こるのは頻繁にではなく本当にたまにで、更に口に出せば霊感があるだの家族から騒がれたことから、普段は意識することも口にすることもない。
 だから、それが前世の記憶だと言われるまで、男はそうだとは気付くことさえなかった。
 具体的な契機となったのは、一冊の本だった。何の気なしに手に取った本のはずだったのに、気付けば男は夢中になって読み込んでいた。本自体が面白いかは分からなかったが、男を惹き付けるものがあった。そして読み終わったあと、今までにない頻度で違和感が生じ始めた。
 暮らしたことのないはずの家の記憶。何処かも分からない地名。道を歩いている時、格闘家として戦う前の控え室で、家でご飯を食べている時、時も場所も選ばずそれらが頭に浮かぶ不可思議な現象に、男は暫く悩み、そして本の作者に連絡を取った。
 結果、精神科医を紹介された。体の良い厄介払いだろうと半ば諦めを抱きつつ訪れた診療所で、男は初めてそれが前世の記憶だと告げられた。
 いきなり前世だの言われても信じられるはずがない。詐欺の部類かとも疑ったが、それにしては男の勘が精神科医を信用しても良いと訴えてくる。
 男は今まで格闘家として生きてきた経験で培った自身の勘を信じていた。
 しかし、その後に続く展開は、流石に許容範囲を越えていた。

「お早う、お父ちゃん」
「そのお父ちゃんってのは」
「お父ちゃんはお父ちゃんだよ」

 ぽりぽりと頭を掻く男の視線の先では、一人の少女が上機嫌で鼻歌を歌いながら朝食を作っている。
 男は四十近いから、十二の娘がいても年齢的にはおかしくない。が、彼女は本当の娘ではない。女っ気が全くない人生なものだから、隠し子なわけでもない。
 曰く、前世での娘。
 信じられるわけがなかった。

「ほら、出来たから早く運んで」

 しかし、少女自身に敵意や嘘の気配は全く感じられない。その上こうして長らく縁のなかった家庭的な温かさを多少強引にだが与えてくれる。だから、男はうまく少女を拒絶できなかった。その隙を突くように少女はなにくれと世話をやいてくる。

「今日は何時頃帰って来るの?」
「さあ。八時過ぎかな」
「じゃあ夕飯用意して待ってるね。気を付けていってらっしゃい、お父ちゃん」

 にこやかに見送ってくる少女を娘だと認めたわけでは断じてない。そうではないのだが、温かいご飯と笑顔にほだされたのか、たかだか一ヶ月で他人との同居に慣れてしまったのは事実だった。

 ある日の夜のことだった。同居を始めて数ヶ月。少女の期待に添えず未だ前世の記憶とやらがよみがえることはなかったが、新しい関係を受け入れ少し経った頃、男は迷った末に切り出した。

「なあ、キャロル」
「何?」

 少女は己の名をキャロルでないと言い張る一方で、頑なに前世の名を教えようとはしなかった。だから、男は少女の機嫌が悪くなることを承知でそう呼び掛ける。

「明日、休みだから一緒に何処か行くか?」

 案の定少し険しくなっていた顔が、一気に驚きを露にする。当たり前だ。少女は勝手に押し掛けてきたのだから、男が予定を合わせて同じ時間を過ごす義理はないと今まで思っていた。けれども、少女はあまりに献身的だったのだ。お父ちゃんと呼んでくるのは止めて欲しいと今でも思っているが、ご飯を作り、掃除をして、温かい家で出迎えてくれる。
 受けた恩は返さないといけない。だから、望む形ではなくともせめて自分に努力できることはしようと思い立ったのだ。

「正直、まだ親子と言われてもピンとこないんだが。一緒に過ごしたことのある場所なんかに行ったら思い出す可能性もなくはないかもしれん」

 断言はできなかったので随分と語尾が曖昧になったが、少女は気にしなかったらしい。目を爛々と輝かせて腰を浮かせる。抱き着いてくるかと思わず退避の姿勢をとった男の様子に気付いたらしい。はっと自制するようにぎゅっと強く目を瞑り、しかし次に現れた瞳にはやはり喜色が色濃く残っていた。そうして控えめながら雄弁に嬉しいと語る視線を真っ直ぐ向けてくる。

「じゃあ、じゃあ、行きたいところがあるの」

 はにかみながら少女が告げた場所は、意外過ぎるところだった。

 休日ということで家族連れの多いショッピングモールの一角、男は居心地悪い思いをしながら楽しそうに商品棚を見上げる少女へと声をかけた。

「決まったか?」
「ううんと、この辺かな」

 少女が手に取ったのは一足のローファー。はにかみながら試し履きをした少女は納得したようで、それを満面の笑みでずいっと男へと突き出してくる。

「これ買って、お父ちゃん」

 何がそんなに楽しいのかさっぱり分からなかったが、男は素直にそれを受け取り、手短に会計を済ませた。

「有難う、お父ちゃん」

 歌うように軽やかに、笑顔でそう礼を告げられて、よくは分からなかったけれど、男は今日少女をここへ連れてきた自分の選択を正しいことだったと判断した。
 少女の言動の真の意味を知ることになるのは、その帰り道のこと。

 片手に袋を持ちながら、軽やかな足取りで隣を歩く少女の旋毛を見下ろす。

「他に何処か行きたい場所はないか?」

 自然と発せられた声は、己でも驚くほど優しい響きを持っていた。
 けれど同時に男は理解していた。少女の望みを出来るだけ叶えてやりたいと思っている自分がいることを。親子の絆などはいまだ信じることが出来ないが、歳の離れた友人にはなれるのではないか。そんな思いが沸々と湧き出で、少女に対する柔らかな態度となって表に出る。
 しかし、少女は予想と反して俯いた。数歩黙って進んだあと、歩みを止める。つられて立ち止まった男を見上げる瞳は強く何かを訴えていた。

「靴を、買いに行ったの」

 唐突とも言える台詞に、男は一瞬戸惑った。そして気付く。少女は過去形で語った。つまり、それは今ではない。

「前世での話か?」

 同居を始めた最初の頃、あまりに前世の父親がどうのこうのと少女が五月蝿かったので男は止めてくれと強く頼んだ。それ以来、少女は慎重に言葉を選ぶようになり、前世の話題を出すことはなくなった。
 少女は男の怒りを覚悟の上で切り出したのだろう。緊張をみなぎらせながらこくりと頷く。

「前世での最後の日、お父ちゃんと靴を買いに行った。あの頃、私お父ちゃんと一緒にいるのも嫌で、でもお母ちゃんが病気で、お父ちゃんがどうしても行きたそうにしてたから、仕方なく一緒に出掛けてあげたの。でも、靴を買ってくれたことに対してお礼も言えなかった」

 少女は一息に言い切り、無理やり笑みをつくった。

「でも、今日はちゃんとお礼が言えた。あとは、家に真っ直ぐ帰ろう? 今度は無事に帰らきゃ」

 前世では帰り道に死んでしまったから、と続くのだろう。そう思った時、不意に胸を込み上げた強い想いがあった。不思議と男はそれを迷いなく受け止めることができた。

「守ってやるさ」

 何があろうと、どんな敵が現れようと、少女を守りたい。

「前世のことは分からないが、今の俺は格闘家だからな。それなりに強いぞ。何がきても守ってやるから、心配するな」

 少女はぽかんと動きを止めて、それから吹き出した。腹を抱えて笑い、涙まで流す始末。
 真剣に告げた男は釈然としない気持ちで黙りこくる。しかし、少女が放った言葉ではっと息を呑んだ。

「笑ってごめんなさい。でも、なんか吹っ切れたかもしれない。最期ね、お父ちゃん同じこと言ってたの。『守ってやるから心配するな』って。運動なんて全然しないひょろい身体で、私を庇って、怪我だらけで、そんな酷い状態で笑ってそう言ったの。変だよね。今の貴方の方がよっぽど強いのに。記憶の中のお父ちゃんの方が頼もしく思えちゃった」

 くるりと身を半転させ、背中を見せる。
 小さな背中だった。同時に何かが頭に浮かんだ気がして、何故かそれがとても大切なもののように思えて、男はそれを求めるように衝動的に手を伸ばす。

「私のお父ちゃんは、もういないんだね」

 あまりにもその声音が寂しげで、伸ばした手で抱きしめてやりたくなった。
 けれども寸でのところで男は堪える。
 もし、少女が前世の父を追い求めることを止めたのならば歓迎すべきことで、その感傷を此方が助長するべきではない。友人としてなら付き合えるが、少女が男自身を欲しているとは思えない。
 これからの自分の存在を、少女の中でどんな位置付けにしたいのか、男は分からなかった。

「今まで有難う」

 身を翻した少女は、綺麗に笑ってそう言った。

「でもこのまま一人にするとまたろくでもない生活するんだろうしな。しょうがないから私があとちょっとだけ一緒にいてあげる」

 まるで男の感じた寂寥を拾い上げたかのような物言いに、すぐには返事が出来なかった。
 ややして男は言葉の意味を噛み締め、苦く笑う。離れるのを惜しいと思ってしまうほど、少女の存在を認めている自分がどこかおかしかった。

「好きなだけいて、好きな時出て行け」

 結局男は、少女の存在を拒まないと、ただそれだけを伝えた。
 きっと少女はもっと広い世界を知り、瞬く間に大人になるのだろう。今は前世の父への思慕を男へと重ねているが、この様子ならば近い将来"お父ちゃん"の役目は必要なくなるに違いない。
 まだ年若い少女を可愛いと思う。親を求めてさ迷う様を哀れだと思う。与えてくれる家庭の温かさを有難いと思う。
 しかし、全ては一時のこと。そう男は理解していたし、納得していた。

 それから二週間。お互いに終わりを意識しているせいか、どこかぎこちなく、けれども今までよりも親密なやり取りを繰り返し、その日は男の格闘家としての試合を少女が見に来ていた。

「頑張ってね!」

 幾度か観戦に来ている少女を今日は控え室まで招き入れていた。
 基本的に男は試合前、一人で集中する。そこに誰かがいることは初めてで、けれども熱を帯びた様子で激励を受ければ悪い気はしなかった。

「ああ、勝つさ」

 気負いなく、男は返す。
 今日の相手はプロではなくアマチュア。誰でも参加できるバトルロイヤルを勝ち抜いた者が、男と勝負する権利を得る。
 だからというわけではなく、男はどんな相手がきても勝つ自分しか想像できなかった。時折こういうことがある。神経が研ぎ澄まされ、奥底から際限なく力が湧き出ているのが感覚で理解できる。
 自力でいつでもその状態にもっていくことができるのが一流の格闘家であると考えており、修行を積み重ねその段階まで到達することが今の男の目標だった。
 男の集中を妨げないようにか沈黙を保ち此方を注視する少女を見やる。不思議そうに首を傾げる少女に、男は薄く笑いながらその大きな掌を頭に乗せて撫でた。

「なっ、何?」

 唐突な触れ合いに動揺する少女が、愛しいと思う。

「勝つさ、絶対に」

 視線を合わせてにかっと笑えば、少女はもじもじとしながら小さく呟いた。

「う、うん。ちゃんと見てるから」

 この時男は心底過去の自分を呪った。
 修行の邪魔になるからといって色恋沙汰を遠ざけていた過去の自分。愚かに過ぎる。まさか娘という存在がこんなに力を与えてくれるだなんて!
 本当の娘ではないと分かっていながら、こんな気持ちになるならば、もし本当の子供がいればどんな心地となるのか。全くの未知の世界だが、それはひどく甘美な感情のように男には思えた。
 その時だ。甘やかな空気を断ち切るように、扉が開かれる。息を弾ませながら飛び込んできたのは、この闘技場の支配人だった。

「今日の試合は中止だ! 金は余分に払う! だからすぐに来てあいつを止めてくれ!」

 血相を変えた支配人が叫んだ台詞に、一気に緊張が走った。
 何が起こったのか、支配人を問い詰めたいと逸る心をおさえて男はまず少女に向き直る。不安そうな表情を見て、意識して笑みを浮かべた。

「問題があるようだから、俺は行ってくる。キャロルはここで待ってろ」
「私も行く」
「すぐに戻るから」

 駄々をこねる少女の瞳が訴えてくる不安を取り除けるよう、力強く声を発する。

「大丈夫だ。俺は強いと言っただろう? 父さんを信じろ」

 冗談めかして自分を父と呼称してみせれば、効果はあったらしい。少女は目を瞬いたあと言葉の意味を理解したようで、わざとらしくしかめっ面を作る。

「子供扱いしないでよ」

 我が儘を宥める為の冗談を非難する一方、顔には照れ笑いのようなものが浮かんでいる。そんなキャロルに向けて男は最後力強い笑みを浮かべ、背を向けた。
 今なら本当に、どんなことでも成し遂げられるような、そんな晴れ晴れとした心地だった。


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