支配人の説明によると、素人のバトルロイヤルの参加者に厄介な人物が紛れこんでいたらしい。
問答無用で他の参加者を殺す殺人狂。そういう類の戦いを好む観客がいないとは言わないが、今日の試合は趣が異なる。折角集めた観客も逃げ出し、商売にならない状態である上、元凶の殺人狂が居座って帰らないのだという。
男に命じられたのは、元凶の排除。殺して死体になってでもお帰り頂くとのこと。
特に気負いなく支配人の説明を聞いていた男は、会場に近付くにつれて色濃くなっていく不穏な空気に眉をひそめた。常より過敏になっていた神経は、正しく危険を感知する。
会場と扉一枚隔てられた場所で、男は立ち止まった。その向こうにいるであろう強者の気配に、武者震いが止まらない。
格闘家にとって、強者と戦うことは喜びだ。その至福の時が目前に迫っていることに、そして偶然今までになく力が高まっている幸運に、男は心中で神に感謝を捧げる。
「俺が出て来るまで誰も入れないでくれ」
そう支配人に言い捨て、男は扉を開けた。
常ならば歓声渦巻く広い空間、中央に設置されたリングの上に立っているのは青年一人だけだった。他の客は既に避難したのだろう。残っているのは返り血を浴びた青年と地に倒れ伏したバトルロイヤルの参加者達。呻き声が上がっていることから生きている者もいるはずだが、血溜まりに倒れ伏す者の多いこと。かなりの数が絶命していることが容易に知れた。
予想よりも酷い惨状に男が眉をひそめた時だ。ただ一人、無傷の青年がにんまりと笑う。
「君が今日の主役? 待ちくたびれちゃったよ。まあ良いや。全員倒したから僕が挑戦者ってことで良いんだよね? さあ、やろう」
厄介な相手だとすぐに分かった。余裕のある佇まいは一見強者の驕りのようだが、確固たる自信の上に成り立っているのだと男の勘が告げている。
早く手合わせ願いたい。そんな気持ちを抑え、まずは話を持ちかける。
「今日の試合は中止になった。よって俺とお前が戦う理由はない。帰ってくれないか?」
相手が頷くと思っていたわけではない。そして予想通り、青年は優雅に首を振った。
「戦う理由ならあるさ。僕が君と戦いたい。君も僕と戦いたがっている。何か問題が?」
断られるという可能性を欠片も考慮していない、自信に満ちた声音だった。
「その前に負傷者を運び出したい」
男は静かに足を進め、リングへ上る。リング上に散らばる死体を丁寧に床へと下ろし、かろうじて息のある男達を試合場の外、支配人に預ける間、青年は大人しく欠伸をかみ殺しながら待っていた。
全ての作業を終えた男が再びリングに上がれば、青年は手慰みに弄っていたらしいトランプを掌の内に収めて獰猛な視線を寄せてくる。
「さあ。始めようか」
それが合図となった。
鋭い凶器のように飛んできたトランプを交わしながら、男は間合いを詰める。数枚交わしきれず、頬や腕に血の線が走ったが、気にすることはない。視線を青年に向けたまま、距離を詰めた男は素早く両手を床について逆立ちし、下から両足を青年の顎目掛けて鋭く放った。
突然の予期せぬ方向からの攻撃に、青年は一瞬目を瞬かせた。すぐに余裕の笑みを浮かべて後ろに下がることで回避する。追うように男は床につけていた片手を青年の方へと移動させて、その勢いのまま回転させた両足で追撃した。
再び回避の為に下がるかと思われた青年は、今度は右腕を一振り、迎撃の体勢に入る。その一瞬、右手の指に挟まれたトランプが男の視界に入った。
途端、頭に鳴り響いた警告音に、男は即座に両手へと力をこめ、青年の間合いから遠ざかるように飛び退き両足を地につける。着地の反動を緩和するため此方も床につけた両手をゆっくりと離し、立ち上がる。
その間もずっと青年から視線を離さなかった男の目は、先程の青年の右腕の動きもしっかりと捉えていた。だからこそ確信する。もし今避けきれていなければ、左足はもっていかれていたはずだと。青年の操るトランプはただの紙のはずだが、何故か男はそのトランプによって膝から下が綺麗に切断される様が鮮明にイメージできたのだ。それは恐怖による過大妄想などではないと、勘が告げていた。
「"蹴りの格闘家"の異名は伊達じゃないみたいだね」
どこか嬉しげに声を弾ませながら青年が賛辞を送ってくる。
青年の台詞の通り、男の戦い方は、足で攻めるものだ。鉄板が仕込まれた靴で繰り出される蹴りは重く、そして早い。蹴り一辺倒でありながら多彩な攻撃の種類をもつ男の戦いは見た目にも華やかで、多くのファンもいる。
男には特にパフォーマンスだという意識はない。ただ、何か一つを極めることで自信をつけたいと若い頃思い立ち、たまたまそれが蹴りだっただけのこと。今では蹴り一本でどこまで高みに上れるのか、ひたすら追求する毎日だ。
すっと息を吸い、呼吸を整えた男は身震いする身体を宥めつける。
己が不利であることは重々理解していた。男の武器はその両足。攻撃の為には接近せねばならず、どうしても青年の間合いに入る必要がある。何か種や仕掛けがあるのだろうが、鋭い切れ味をもっているトランプを避けながら、攻撃しなければならない。
けれど、男には今までもナイフや剣、様々な武器を操る格闘家と戦い、勝った経験がある。必ずやれると強いイメージを頭の中で固めて、男は地を蹴りつけた。
青年は予想通り手強かった。次々と襲い来るトランプでの攻撃を紙一重で交わし、横から、下から、時に飛び上がり空中から蹴りを入れる。大振りの技は隙を生むとみて、男は素早さを重視して攻撃を加えた。
蹴りを入れて離脱。当たりは軽いが、着実に青年へとダメージを与えている手応えがある。それを繰り返していく内に、いつもならば疲れが出ている頃なのに、不思議と全く疲労を感じていない己に、ふと男は気付いた。
より速く、男が追い付けないほど速く。念じれば念じるほど身体が意思を反映したように軽くなっていく感覚がする。
「良いねえ、君」
まだ余裕のある青年が悠々嘯いた時だった。
扉の開く音。次いで入ってきた誰かが息をのむ音。神経が昂っていた男はそれらを聞きつけ、青年から注意を離さないまま間合いを取るように遠ざかった。充分な距離をとってから、闖入者を横目で確かめる。
その瞬間、考えるより先に怒声が口から飛び出した。
「向こうに行ってろ!」
「お父ちゃん!」
入り口で呆然と、何故か青年を凝視していた少女は、男の声で我に返ったようだった。そして何を思ったか、一目散に男目掛けて走り寄る。
「来るな!」
「でもっ、だってヒソカ」
制止の声に反応し立ち止まった少女は、もどかしそうに口を動かす。発せられた言葉の意味は、男には理解できないものだった。けれど、決して言わせてはいけなかったのだと、次の瞬間悟る。
「へえ。君、僕のこと知ってるの?」
少女の台詞は、青年の興味を惹いてしまった。その事実を理解すると共に、男は反射的に青年と少女の間に割って入る。ねっとりとした視線が少女に注がれていることが許せなかった。
「下がっていろ、キャロル」
「へえ、キャロルっていうんだ」
その名をお前が呼ぶなと口を開こうとした時だ。男は目に映ったことが信じられず、瞬きを繰り返す。
男は確かに青年を注視していた。だというのに、彼は一瞬でその姿を消した。全く動きを追えなかった。
「僕、君に会ったことあるかな?」
突如背後から聞こえた声。はっとして振り返れば、青年は少女の目の前で腰に手を当てて首を傾げている。
男は愕然とした。気付いてしまったのだ。青年が今までの戦いで手を抜いていたことに。覆しようがない力の差に。
しかし、次の瞬間我に返る。
「キャロルから離れろ!」
敵わないことなど理解していた。しかし、それほどに危険な男が少女の目前にいる、その状況に男は強く憤りを覚えたのだ。
身体が勝手に動く。技巧を凝らすことなど一切考えず、一直線に青年へと駆け出し、男は右足を振り上げた。
当たる、そう思った瞬間、青年は左腕を無造作に凪ぎ払った。先程までの比ではない素早さ。正確に男の胸部を狙ったそれは、男を壁際まで吹っ飛ばす。
「お父ちゃん!」
悲痛な叫びが耳に残る。全身に痛みが走る。壁に激突してぐわんと揺れる頭に、何かが浮かんだ。前世の記憶だという、男と関係ないはずの何か。
「お父ちゃんに手を出したら許さない!」
「うんうん。麗しい親子愛だねえ」
少女の望みを叶えたいならば、脳裏に浮かびそうなイメージを掴む為に必死になるべきなのだろう。しかし、今は実体のない過去の記憶より現実の方が遥かに重要だった。
かろうじて開いた眼に映るのは、青年に対して攻撃を加える少女の姿。素人の域を越えてはいないが、中々戦いぶりは様になっている。そんな今まで知らなかった少女の一面に関心する余裕もない。
「逃げろ」
少女が青年に敵うはずがない。今のところ青年は楽しそうに攻撃を交わすだけだが、いつ少女が怪我を負うか、不安で堪らない。なのに、微かな声は二人に届かない。
懸命に男は念じた。身体に向かって動けと。少女を守れと。
「俺は何の為に格闘家を目指したんだ」
強さへの憧れで男は格闘家を目指した。けれど、今胸の内にある思いは違う。
きっと、今この時少女を守る為に、自分は強さを求めたのだ。
結果論ではあるけれど、その答えこそが真理であるかのように男には思えた。
「動け」
己を叱咤する。全身にありったけの力をこめて、男は立ち上がった。
「お父ちゃん!?」
壁の破片が散らばる音に気付いたのか、少女が此方を振り向いた。明らかな隙を見せた彼女を守ろうと男は地を力強く蹴り、駆ける。
その時だ。青年は迫りくる男の姿を見て一瞬思案するような素振りをし、その後にたりと楽しそうに笑った。
「キャロル! 避けろ!」
頭の中で警鐘が鳴り響く。衝動のまま叫んだ声に反応して我に返った少女が青年へと振り向いた時には、全てが遅かった。
青年の拳は少女の腹に突き刺さり、その小柄な身体は男の反対側まで吹き飛ばされる。
「貴様!」
まるで視界が真っ赤に染まってしまったかのようだった。身を焼き尽くすような激しい怒りを感じた男は駆けていた勢いのまま青年向けて飛びかかる。
最後地を蹴った瞬間、ふわりと身体が浮いた気がした。身体の中心から力が溢れ出ているようで、その力を全て右足にのせた。
歪んだ笑みを浮かべる青年の頬目掛けて男は渾身の蹴りを放った。
不思議なことに青年は避ける素振り一つ見せず、蹴りをまともに食らう。衝撃を受けて吹っ飛んだ青年はどこか嬉しげで、男は背筋に冷や汗が走るのを感じた。
けれども青年に構っている暇はない。息を荒げたまま、無我夢中の時は感じなかった腹の痛みを抱えたまま、すぐさま倒れた少女の元へと走る。
「大丈夫か!?」
仰向けで倒れていた少女の腹は抉れており、血が噴き出していた。一目見ただけで致命傷だと理解できるそれに、男はきつく唇を噛み締める。
自分が諦めてはならない。早く医者を呼ばなくては。
扉の奥にいるだろう支配人に向けて助けを求めようとした時だった。前と後ろから、同時に声が上がる。
「大丈夫だから。お父ちゃん」
「うん。良い蹴りだ」
はっとして振り返れば、青年は多少頬を腫らしただけで、他に目立ったダメージはない。今にも攻撃に移れそうな体勢に、男は覚悟を決めて青年へと向き合った。
「頼む。俺のことはどうしてくれても構わない。殺しても良い。戦いたいというならば、どこまでも付き合おう。ただ、この娘だけは見逃してくれ。戦い慣れていない、本当にただの娘なんだ。早く医者に見せてやらなければ」
額に汗が滲む。頭がおかしいとしか思えない青年の情に訴えて答えがあるのか、確証はもてない。それでも今は、いくら惨めであっても、命乞いをするしか方法は見付からなかった。
青年は静かに笑みを深める。
「良いよって言ってあげたいところなんだけどね」
この強敵を倒さなければ少女を救えないのかと悲痛な思いで男が構えた時、青年はゆっくりとその指を持ち上げる。指した方向は男、ではなくその後ろ。
「大丈夫だから。お父ちゃん」
再度かかった声にはっと振り向いた男の視線の先、少女の腹から噴き出していた血が止まっていた。それどころか少女の顔色までも回復しているように見えて、男は戸惑いに眉根を寄せる。
「どういうことだ?」
「それが君の念能力? 治癒力だけを爆発的に高めたのか」
男の声に被せるように青年が放った台詞は、まるで理解出来なかった。
「ねんのうりょく?」
「知らないの?」
目に映った現象が信じられない男の様子に、何を思ったか、青年は高笑いを響かせた。
「知らずに使っていたのか! 君達親子は本当に面白い!」
「そう思うならここは見逃してくれない? 私もお父ちゃんもまだまだこれから強くなるよ」
苦しいだろうに手をつき自力で上体を持ち上げた少女の背を咄嗟に支える。
男は混乱していた。短期間に癒えた傷にも、少女が何がしらの確証をもって青年に交渉を持ちかけていることにも。初め名前を呼んだことといい、少女が青年を知っていることは確実だった。
隠しごと、男に告げていない情報があることは構わない。今まで少女と一定の距離を置こうと努力していたのは男の方だ。
けれども今この瞬間、死の危険が間近に迫っているとき、男の知らない何かが重要な意味を持っていることが混乱を深める。
しかし、男は賢明だった。歳若い少女に自分の命を預けることに対する羞恥と不安を押し込めて、いつでも応戦できるよう注意をはらいながら、青年と少女のやり取りをじっと見守る。
「どうしようかな」
「私、念能力使えるけど基礎はまだまだ未熟だって分かってるから、これからこの人に習うよ。そしたら絶対もっともっと強くなる。それにこの人だって念なんか使えないのにさっき無意識に精孔開きかけてた。貴方もそれが分かったからさっき蹴りを避けなかった。そうでしょう?」
男には理解できないが、少女の命乞いを受けて青年は唇で弧を描いた。機嫌良さげに口を開く。
「確かにそっちのお父さん、これからどんどん伸びそうなんだよね。でも君はそうでもないかな。念能力は面白いけど、弱い人間が際限なく復活したって面倒なだけ」
はっと身体が強張る。反射的に少女を庇うように構えた。挑むように見据えた先、青年は此方を安心させるように微笑んでみせる。
「早とちりしないでよ、お父さん。僕、そっちの子が"何を知っているか"、ちゃあんと興味あるから」
「じゃあ!」
期待を滲ませた少女の声が後ろから上がったその時だった。男は確かに青年の右手が動くのを見た。
決して油断していたわけではない。男はいつでも応戦できるよう気を張りつめていた。だが、先ほど精孔を開きかけ、傷だらけの身体を無理に動かしたために体力を消耗し過ぎていた。敗因は、あまりに気が昂っていたせいで己の身体の状態を把握できなかったこと。
青年の右手から放たれるカードが迫りくる。防御のため突き出した腕は間に合わない。避けようとした瞬間、男の頭に少女の存在が浮かんだ。たとえ傷が癒えていようと、少女は咄嗟にこれを避けることはできない。
この娘を守らなければ。
一直線に心臓目掛けてカードが突き刺さることが分かったが、男は動くことを止めた。ただじっと死の瞬間を待つ。
一秒にも満たないその間、男の頭をよぎったのは黒髪の小さな女の子の姿だった。
「二人とも生かしても良かったんだけどねえ。君、僕が君達親子を助けるって確信してたでしょう? 駄目駄目。僕、そういう弱くてあざとい人間は好きじゃないんだ。ねえ、聞いてる?」
「お父ちゃん!」
少女の悲鳴のような呼び掛けだけが耳に残る。
胸から血を飛び散らせながら男は最期の力を振り絞って目をこじ開けた。少女が泣いている。頬を伝う涙を拭ってやりたいのに、手はもう動いてくれない。
代わりに男は口を開いた。
「美佳は無事か?」
少女の目が真ん丸に見開かれた。次いでぼろぼろと涙の勢いが増す。
「お父ちゃん」
美佳。一瞬だけよぎった名前。少女の名前だと、何故か思ったそれは正しかったらしい。自分の勘が当たったことに安堵して、男は瞼を閉じる。
前世の記憶は最期まで戻らなかった。少女を守りきれたかも自信がない。後悔はつきないけれど、今傍にいる少女の望む答えを出せた気がした。
きっとこの瞬間、少女の心を守ることができた。
そんな充足感に満たされながら、男は眠りについた。