アリスの話 1



 アリスにとって家族とは、母親と兄だ。父親だと信じ慕っていた男もいたが、慕う気持ちがあったからこそ一度の裏切りがどうしても許せなかった。
 母親が死んでからは、アリスの家族は兄一人だけになった。
 "迎えに行く"
 兄と交わしたその約束だけを信じて、アリスは苦痛の時間を堪え忍ぶ。


「だから!」

 目の前で喚く女の金切り声を聞き流し、アリスは視線を飛ばす。
 窓もない薄汚れた部屋は、アリスが売られた組織の一室だ。此処でアリスは毎日痕跡を残さず速やかに人を殺す方法を教わっている。

「聞いてんの!? リリイ!」
「リリイじゃないもん」
「あん? 言いたいことあったらはっきり言いなさい!」

 ぽつりと溢した声は幸い女には届かなかったらしい。代わりに怒声が響いたが、アリスは無言を貫き通す。
 アリスは此処ではリリイと呼ばれていた。父親だと信じていた男が勝手に名前を付けたのだ。
 アリスも自分達が何かから逃げていること、自分の存在がその何かに知られては兄の危険にも繋がってしまうことには気付いているため、偽名を使うことには反対しなかった。ただ、どうしても嫌いな相手に付けられた名前は好きになれず、リリイと呼ばれる度に不愉快になってしまう。

「あんたはね、売り物なの。分かる? あんたに付けられた値段の分くらいは働きな! じゃなきゃ他のところに売られるよ!」
「ミア」

 がみがみと五月蝿い声を聞き流していれば、唐突に男の声が割りいる。
 アリスが視線を上げれば、入り口にスーツを着た男が穏やかな笑みを湛えて佇んでいた。

「ミア、そのくらいにしておけ。リリイは仕事のノルマはこなしてるだろう?」
「キース! こっちに来てたなら教えてよ」

 駆け寄る女を抱き留めた男は、ちらりと視線をアリスにやり顎をしゃくる。

「行け」

 有難いとばかりにアリスは静かにその場をあとにした。
 今頃あの場で何が行われているか、アリスは知らない。ただあの二人が恋仲なのだろうということくらいは分かる。
 アリスのいる組織は暗殺専門の戦闘集団で、男が所属するマフィアと繋がりがあるらしい。男はマフィアと組織の繋ぎ役。媚を売っておくよう他の者に言われたが、教育係の女が充分媚を売っているのだから、アリスは自分には関係ないと無愛想を貫いている。
 アリスは自分の部屋に戻った。ベッド一台が辛うじておさまる部屋は、ひどく狭い。窓もない空間は息苦しいが、アリスはそこが好きだった。

「お兄ちゃん」

 ベッドに俯せになり、枕に声を吸い込ませる。安っぽい枕は毎晩恨み言と涙を吸って、今やいつも湿っていてぼろぼろだ。
 それでも大好きな兄のことだけを思う存分考えられるこの空間が、アリスは好きだった。

 仕事と訓練に明け暮れる日が半年ほど続いた頃、それは突然アリスの手元に出現した。
 その日はいつものように人を殺して報告を終えシャワーを浴びて、アリスは部屋に帰って来てすぐにベッドに飛び込んだ。
 アリスにとって仕事自体はそれ程辛くはない。初めは一晩中身体の震えが止まらなかったし、暫く殺した人の夢に魘されもした。が、それよりも仕事で躊躇した時課せられる教育係からの罰の方が恐ろしかった。
 そんな日々を過ごし、アリスは人を殺すという行為に慣れつつあった。けれど、仕事の後はどうしても憂鬱になる。

「お兄ちゃんは、私が良い子じゃないから迎えに来てくれないのかな」

 涙を流しながら、ぽつりと呟く。
 アリスは気付いていた。兄は妹に庇護すべき者でいて欲しいのだ。可愛らしく、守られ、汚いものを知らない存在であって欲しいのだ。特に一緒に暮らしていた時はアリスが悪事を目撃することをひどく嫌った。
 自分が人殺しになったから迎えに来てくれないのかもしれない。そんな不安から逃れるようぎゅっと目を閉じ、アリスが瞼を上げた時には、それは目前にあったのだ。

「何これ」

 顔を押し付けていた枕の脇にある物に、アリスは恐る恐る手を伸ばす。

「愛の交換日記?」

 それはノートだった。表に書かれた文字を読みあげてから、気付く。

「日本語?」

 それは兄との秘密の暗号で書かれていた。
 アリスと兄には秘密がある。前世、死ぬ前の記憶があるのだ。前世で使っていた文字で、二人は交換日記をしていた。
 慌ててアリスはノートを開く。

「なんだ」

 開いたページはどれも白紙だった。落胆と共にノートを壁に投げつけ、再び枕に顔を押し付ける。

「そうだよ。全部置いてきたじゃん。しかも愛の交換日記なんて書いてなかったし」

 期待してしまったのだ。兄との大切な思い出が詰まった宝物かもしれない、と。
 一頻りいじけてから、アリスはのろのろと起き出す。そして床に落ちていたノートを拾いあげた。

「書くだけなら、自由だよね?」

 自分に確認するように問いかけてから、ペンを取る。
 アリスは気付いていなかった。ノートがオーラで出来ていることにも、書いている間オーラを纏っていたことにも。


「うそ」

 次の日、起きてノートがあることを確認し、何の気なしに開いたアリスは驚愕の声をあげる。
 返事が書いてあったのだ。しかも、アリスがよく覚えている兄の筆跡で。
 一度閉じてから再度開くという意味のない動作を挟んでも、やはりそれは消えずに残っている。

"アリスへ。元気そうで良かった。俺はまだヘンデスさんと一緒にいて"

 懐かしい兄の字に、涙が込み上げる。三度読み返してからアリスは大事そうにノートを胸に抱き締めた。
 "それ"が何であるかなどどうでも良かった。ただ、兄と繋がっていられる。その安心感が得られれば、それだけで良かった。

 もちろんノートは万能ではなかった。使っている内にアリスはノートの法則に気付いていく。
 まず、交換日記を交わす相手は兄でありながら兄ではないということ。アリスが泣き言を書けば慰めてくれるし、優しい言葉をかけてくる。今どんな生活をしているのか尋ねれば答えてくれる。
 けれどアリスのお願いを聞いてくれることはない。
 アリスが居場所を教えて迎えに来て欲しいと書けば、"ルーク"はそれを知らないから無理だと返された。相手の情報を知ることができても、此方の情報を知らせることは出来ない。
 そしてもう一つの問題点。兄の情報を知ることは出来るが、それは"ルーク"の知覚できる範囲に留まる。
 例えば今どこにいるのかアリスが尋ねると、スラムの一角で青い屋根の家の二階、などと返ってくる。どこの都市の近くなのか尋ねれば、"ルーク"は分からないと返ってくる。
 おかげでアリスは自分の兄が随分と物知らずであることを理解してしまった。組織の仕事に関係する地理や一般常識を教えこまれているので、今はアリスの方が知識量は上であろう。再会する日がくれば一言物申したいと常々感じている。そんな訳で知り得た情報はひどく個人的なものに限定されていた。
 しかし、収穫もある。例えばアリスは自分達の生活の糧がどのように得られていたのか、薄々気付いていたが、はっきり事実として知った。
 悪事が行われた日の日記は、心なしか兄の字も元気がない。淡々と盗んだ物が羅列されて終わる。
 一度、アリスは日記で尋ねたことがある。盗みを働くことをどう思っているのかと。変なところで常識的なところがある兄はアリスには理解できない潔癖さを持っていたから。その潔癖さは主にアリスに関して発揮されていたが、根本的には兄はひどく優しくて、悪事を働くことが辛くはないのか気になったのだ。
 次の日、返事が書き込まれていた。

″悪いことだと思う。けれど、慣れてしまったから、今はしてはいけないことだとは思えない。生きてアリスに会う為には必要で、仕方ない″

 一読したアリスは、思わず胸を押さえた。表情が奇妙に歪む。
 兄の行動原理にはいつもアリスが中心にあるという事実に、喜んで良いのか悲しんで良いのか分からなかった。二つの感情が複雑に絡み合い、思わず渇いた笑いが口から飛び出た。

「お兄ちゃん、私のこと好き過ぎるよ」

 いつか、兄には兄自身の幸せを掴んでもらいたい。けれども今は、その愛を頼りに生きている今は、優しさを甘受していたかった。

 訓練の時間は徐々に減り、代わりに仕事が増えて行った。
 アリスの腕っぷしは組織の中では中の下といったところ。それなりに親代わりから鍛えられたと思っていたが、所詮は一年弱の付け焼き刃。物心ついた頃から荒れた生活の中にいた者達には敵わない。
 代わりにアリスは己の容姿を武器にしていた。無害そうな、弱々しい子供の姿。
 その日もアリスは一人の男を殺して帰ってきた。マフィアを裏切った人物の血縁者らしい。その男自身は何も後ろめたい事柄に関わっていない。それを裏付けるように、男は迷子の振りをして近付いたアリスに対して何の警戒もしていなかった。
 ナイフをめり込ませた身体が地に横たわるのを見て、アリスはもし兄だったら罪悪感を抱く場面なのだろうな、とぼんやり考えた。それから、少しだけ泣きたくなった。
 本当に今更だけれど、思ってしまったのだ。自分は汚いと。兄の思うような可愛くて素直な良い妹はこの世に存在しない。兄の方がよっぽど人間らしい感情を持っている。
 だって、まじまじと死体を見下ろしてみても、どんな感情もわいてこなかった。
 マフィアを裏切った男への見せしめなのだから、もっと派手に、苦しませてからの方が良かったかもしれない。そんな反省しか浮かんでこない自分が、人間として兄より劣っている気がした。
 そんな不安を、アリスは素直に兄へとぶつける。ルークではない、けれどルークと違ってその本音を妹に包み隠さず教えてくれる兄へと。

″お兄ちゃんは、人を殺すことをどう思う?″

 次の日、アリスはどきどきしながらノートを開き、そして全てを読み終え、緩んだ顔で安堵の息を吐き出した。

「なあんだ」

 初めてアリスは知った。アリスが売られた次の日には既に兄が人を殺していたことを。
 親代わりに命令され、犯罪者を殺したのだという兄。ひどく戸惑ったこと。緊張したこと。嫌だと拒否する心と反対に、最終的に対峙した男をあっさり殺してしまったこと。平然と悪事を犯し、悪事を犯すよう命令する親代わりが憎いことに変わりはないが、人を殺すことについてどう思って良いのか、今は分からないと締めくくられていた。

「これで私と同じだね、お兄ちゃん」

 兄が自分と同じ場所まで堕ちてきてくれたことを、心からアリスは歓迎した。だから、念能力でできた交換日記を抱き締めながら、アリスは蕩けるような甘い声でそう呟いた。


| |  

 

 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system