少女の話 2



「はあ?」

 耳に届いた言葉が俄には信じられなくて、思わずアリスは聞き返した。案の定、相手は綺麗に整えられた眉を跳ね上げて不快を露にする。

「一回言ったら覚えなさいよ。次のターゲットは変態ロリコン野郎。コールガールに扮して近付けって言ったの」

 繰り返せなんて頼んでいないと心の中で憤る。
 ただ、内容が気色悪過ぎて受け入れられなかっただけだ。コールガールの意味は薄ぼんやりだが理解している。想像が追い付かないが、心は即座に拒絶を示した。

「嫌だ」
「通ると思ってんの?」

 教育係として関わることの多い女のことをアリスはよく知っていた。彼女の下す命令に逆らえば、きついお仕置きが待っていて、結局従わされる羽目になることを。ならば、無駄な苦痛は避けるべきだと理性が判断を下す。
 尚も嫌だと叫ぶ心の声を反映した仏頂面で、渋々アリスは頷いた。その後も拒絶を示すように俯いていたから、女がほんの一瞬泣きそうに顔を歪めながらも安堵の息を吐き出したことに、アリスは気付かなかった。

 仕事は最悪だった。べたべたと身体を触ってくる手は気持ち悪く、生理的に受け付けることができない。衝動的に殺してしまってから、アリスは久しぶりに洗面所に駆け込んで吐いた。

「お兄ちゃん」

 ひどく自分が汚れてしまった気がして、また兄の理想の妹から遠ざかっていく自分を自覚してしまった。
 それでも、アリスは願う。

「早く迎えに来てよ」

 ただそれだけを。
 その日の日記には何も書かなかった。本当の兄には伝わらないと理解していても、兄に類した存在に知られることが嫌だった。

 初めて女を武器とした仕事を与えられてから一ヶ月。相手を殺す直前まで愛想笑いを浮かべられるくらいにはその仕事に慣れてきた頃だった。
 兄の日記がおかしかった。

『独りになった』

 ページに綴られていたのはその一文のみ。
 恐る恐るアリスは自分の番の日記に書き込んでいく。

『何があったの? あいつは? まさか一人で逃げたとか? それともお兄ちゃんが逃げ出したの?』

 そうだと信じたかった。大嫌いな親代わり。彼がルーク一人を置いていくとは思えなかった。ルークだって彼の元を離れる素振りは今まで見せなかった。けれど、そうでないならば。

 次の日の日記には淡々とした調子で詳細が書かれていた。
 敵が襲撃してきたこと。敵の目的は親代わりだけだと判明し、彼が自ら死を選んだこと。

『アリスを探さなきゃ』

 ページ半分ほどの空行が続き、最後ぽつりとそんな言葉が書かれていた。
 手の届かないところにいる兄の代わりに、日記を胸にぎゅっと抱き締める。

「あいつ、死んじゃったんだ」

 不思議と、心が痛みを訴える。
 大嫌いな男。嘘つき。いっぱい無茶難題を突きつけてきた親代わり。
 悪態はいくらでも吐けるけれど、殺してやりたいと本気で思ったことだってあるけれど、本当に不思議だけれど、涙がぽろりと溢れた。

「死んじゃった」

 本当の父親だと思い、慕っていた頃の温かな記憶が悲しみを引き出してくる。

「迎えに来るって言ったのに。嘘つき」

 本当のところは違う。親代わりは兄が迎えに行くといって、アリスを送り出した。けれども、アリスの頭の中で描かれるその未来像には、確かに兄の横で仏頂面を保つ親代わりも存在したのだ。

「嘘つきなんか、大嫌い」

 死人に対して悪態を吐きながら、アリスは自嘲した。
 散々親代わりを嘘つきだと嫌っていたけれど、もうアリスは兄も嘘つきだったと知っている。そして自身も嘘つきだと。
 簡単に嘘をついて子供を騙した大人が許せなかった。けれども成長したアリスは知った。他人の為を思って嘘をつくこともあるのだと。

「ばっかみたい」

 今更アリスは思い知った。過去の自分の幼稚さ。そして兄が親代わりの嘘を許した理由。兄は親代わりの嘘が優しさに裏付けたされたものだと気付いていたのだ。だから、アリスが幼い心を傷付けられたと泣きわめいていた時にも、味方になってくれなかったのだ。
 子供達を守る役割を終えたと理解して自ら死んでしまった男だ。優しさなんか欠片もなかったけれど、本気で子供達を守ろうとしていたことだけは事実だったのだろう。

「有難う」

 届かないと理解していながら、口にせざるを得なかった。本人には決して伝わらない感謝の気持ち。
 涙と共に吐き出したことによって、アリスは自分の気持ちを消化することができた。
 だから、それを消化することのできなかった兄の異変に気付くのはそれからもう少し後のことになる。


″今日もアリスが見付からなかった″
″外れだった。皆殺しにした″
″もう嫌だ。本当にアリスはいたのかな? 全部俺の妄想? 目が覚めたら日本にいたりしないかな?″
″手掛かりなし。夢の中で母さんに会った。最近死んだらいつでも母さんに会えるって思う″

 一ヶ月、三ヶ月、半年、一年と時が経つにつれて兄の日記は陰を濃くしていく。

″大丈夫だよ。私はずっとお兄ちゃんを待ってるよ″
″きっと次は当たりだよ″
″妄想なんかじゃない。私はちゃんとここにいるから″
″そんなこと考えちゃ駄目。母さんとはいつか会えるけど、その前に私を見付けて″

 必死に励ますも、ルークには届かない。もどかしさに比例するように、兄の陰鬱とした思考は加速していく。
 そしてある日のことだった。

「きゃっ」

 日記を開いたアリスは、悲鳴をあげてそれを床に放り投げる。ばくばくと激しい鼓動を刻む心臓を押さえつけながら、そっと拾いあげた日記を開けば、やはり先程見た時のまま。
 ページにぎっしりと書かれていたのはアリスの名前だった。

「どうしよう。お兄ちゃんが壊れちゃった」

 涙目になりながら呟く。
 本格的に兄がおかしくなってしまったのだとアリスは考えた。孤独に妹を探す日々に疲れてしまったのだろうと。
 けれどもアリスはそれを見付けた。

「あれ?」

 アリスの文字で埋まっているページの下の方、たった一ヶ所だけ、乱暴に字が消されていた。
 ノートを持ち上げて顔を近付ける。よく目を凝らせば、かろうじて何と書いてあったか理解できた。

「何で?」

 思わずといったように呟く。
 不思議だった。その単語はとても慣れ親しんだ名前で、何故兄がそれを書いてわざわざ消したのか、理解出来なかった。
 生じた疑問を素直にアリスはノートへとぶつける。ノートの中の兄は決して嘘をつかず、いつだって正直な答えをくれるから。

″ヘンデスがどうしたの?″

 次の日、ノートを開ければぎっしりと文字で埋まっていた。
 あまりに小さくて細かい字の固まりに、一瞬気が遠くなる。そのまま閉じてしまいたくなる衝動に駆られたが、アリスはなんとか思い留まった。兄の本心を知りたかったし、前日のおかしな日記よりかは幾分ましだと自分に言い聞かせて。

″あんな男大嫌いだ″

 日記はその一文から始まり、悪事を強要したことやアリスを勝手に売ったことへの恨み言が連ねられる。その次には子供達を守る為には仕方なかったかのしれないと擁護が挟まり、葛藤する心が正直に綴られていた。
 そして、兄は続ける。

″死んで欲しくなかった″

 前日と同じようにその文は消されていた。でも、今回は大きく二重線で消されていただけだから、元の文章は簡単に読み取れた。
 続く文章も同じように消されていた。

″あの人が生きてたら、アリスだって簡単に見付かった。でも、アリスを売ったのもあいつだ。許せないのに。ごめん、アリス。アリスが大事なはずなのに、こんなことを思うのは間違ってるはずなのに″

 胸がつきんと痛む。

″どうして、アリスと同じようにあの男を恋しいと思うのか、分からない″

 そっと最後の一文を指でなぞる。

「お兄ちゃんのばか」

 吐き出すようにして出た声は涙で掠れていた。
 ただただ切なくてどうしようもない感情が膨れていく。
 変なところで融通のきかない兄だった。アリスを大事にしてくれていることくらい、充分伝わっている。だから、兄が親代わりを恋しいと言ったって、もう昔のように拗ねたりしない。怒ったあげく最低な言葉を日記に残して家出したりしない。

″大丈夫だよ。お兄ちゃんはヘンデスを大事に思っても良いんだよ。死んじゃったこと、悲しんで良いんだよ″

 ルークには届かないと分かっていながら、アリスは日記を書いた。
 翌朝、逸る気持ちを抑えきれなくて早起きしたアリスは一番に日記を開く。

″でも、あいつは自殺したんだ。満足そうな死に顔だったんだ。それがどうしても許せない。それに、あいつを慕っていたことを認めるのはアリスへの裏切りだ″

 思考を途切れさせることを示すような空行が続き、最後の一行。

″あいつのことはどうでもいい。早くアリスを探さなきゃ″

 それを読んで初めてアリスは理解した。

「そっか」

 あまりにも必死で、他に関心をもとうとしない、一見献身的な、妹への執着。その正体は。

「お兄ちゃんは、逃げたいんだ」

 一種の逃避行動。
 親代わりという大きな存在に目の前で自殺されたことの衝動を受け止めることができず、唯一はっきりとした役目である、妹を迎えに行くという約束に集中することでルークは逃げたのだ。

「お兄ちゃん、昔から臆病だったからな」

 考えるよりも前に行動してしまうアリスと比べて、ルークはよく考えてからでないと行動できない。だから、考える時間が与えられない突発的な事柄に弱かったり、考えがこんがらがると逃げて問題を棚上げしてしまう傾向がある。
 それは薄々分かっていたが、兄と離れた状況の元、ルークの嘘偽りのない思考を伝えてくれる日記の力を借りてアリスははっきりとルークの弱さを認めることができた。

「でも、良いよ」

 嘘つきだと知っている。精神的な弱さも壊れてしまいそうな脆さもすぐ逃げようとする臆病さも知っている。

「それでも、お兄ちゃんのこと、好きだよ」

 いつの日か、迎えに来てくれたなら、思いをこめて本人にそう伝えよう。

「だから、私の為にもう苦しまなくて良いんだよ」

 アリスに申し訳ないと親代わりへの思慕を認めようとしない兄に、もどかしさが募っていく。
 もちろん探し続けて欲しい。見付けて欲しい。早く迎えに来て欲しい。そんな思いはいつだって変わらず存在する。
 けれども、兄はあまりに追い詰められていて、日記を読むのも辛い。

「友達とか、できないのかな」

 生憎アリスも友達という存在は知識でしか知らないけれど、教育係のように定期的に接する人間はいる。嫌いな女だが、誰とも話さない兄がおかしくなっていく様を見ていれば、今のアリスにとって貴重な存在かもしれないとも思える。

「誰か、お兄ちゃんを助けてあげて」

 本当なら自分が助けてあげたいが、監視の目が厳しい上、逃亡に成功しても捕まる可能性は高い。裏にマフィアがついているからだ。そうしてあっさりと殺された人をアリスは数人知っている。苦しみながら死んでいく様を強制的に見させられたのだ。
 けれども、兄は強い。きっとアリスを見付けたならば追っ手もやっつけてくれるに違いない。そんな根拠もない夢みがちな思考でアリスは兄の迎えを待ち続けていた。

 兄の日記がおかしくなってから更に数年が経った頃だった。
 兄の陰鬱な空想に付き合いながら昔の思い出にお互い浸るようなやり取りに慣れた頃、日記に確かな変化が現れた。

″変な奴らと会った″

 嫌悪感を滲ませる書き方で兄は語る。
 ある盗賊団との出会い。同年代の少年少女で構成されたそれに無理矢理入らされたこと。アリスの情報を買う為にお金を稼ぐ必要が生まれたこと。
 兄がアリスへの手掛かりを掴んだことも勿論嬉しかった。再会の日が近付いたということだから。
 けれど、それ以上にアリスは安堵した。

「良かった」

 強制的にではあるが、人との繋がりができたことが何よりも嬉しかったのだ。

「これで独りぼっちじゃないね」

 兄が新たに居場所を得ることは正直少しだけ寂しい気もしたけれど、独りぼっちで狂ってしまうよりもずっと良いと、本心からそう思えた。


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