偶然だったとしか言いようがない。
その日アリスはいつも通り仕事を終えて組織のアジトへと帰ってきた。強いていえば、近場での仕事だった為いつもより少しだけ時間が早かったかもしれない。
昼下がりの午後、アジトから出て来た中年の男とすれ違った。
見慣れない男だった。組織に仕事を頼みに来たマフィア関係者かもしれない。そう思ってアリスは小さく頭を下げて横をすり抜ける。
その時少しだけ悪寒がした。すれ違い際に男がアリスに向けた視線が、仕事でよく浴びるものだったから。ねっとりとまとわりつくような、色欲を帯びたそれ。
気持ち悪さに眉をしかめたアリスは、そのまま振り返らずに足を早めた。
嫌だなと思いはしても、次の日には忘れてしまうような、そんな些細な出来事で終わるはずだったのだ。
「どういうことなの!」
その日の午後、教育係の女に呼び出されたアリスは部屋に入るなり怒声を浴びせられてうんざりした。そんな気持ちを素直に表した不機嫌面で渋々視線を上げ、気付く。
女の部屋にはもう一人、組織とマフィアの繋ぎ役の男がいたのだ。名前はキース。男を堂々と自室へ連れ込んで何をやっているんだと呆れかけ、しかし男の険しい表情を認めて気を引き締める。
仕事で何か失敗したのかもしれない。真っ先に思い付いた呼び出し理由がそれで、勝手な想像に身を固くした時だった。
女は顔を思いっきり歪めて吐き捨てた。
「今夜テラドの部屋にあんたを連れて行くようにって命令されたわ」
「テラド?」
失敗ではないようだと安堵するより、告げられた内容への疑問が先立つ。耳慣れない名前に聞き返せば、女はぐっと眉間の皺を深くした。
「さっき入り口ですれ違ったんでしょ? 人を駒としか思ってない豚野郎よ」
「ミア、口の利き方に気を付けろ」
「キースは黙ってて」
口を挟んだ男を切って捨てた女の口調はひどく怒気を含んでいた。しかしそれが自分に向けられたものではないらしいと知り、アリスが安堵に気を緩めかけた時だった。
「あんな豚野郎でもマフィアのお偉いさんだってんだから世の中終わってるわ。何で? 何でなのよ。リリイはちゃんと仕事こなしてるじゃない。何であんな野郎に」
悔しさと悲しさが入り交じった声音で女は呟く。
先ほどすれ違った男。マフィアの偉い人。部屋によばれている。女が発した情報が漸くアリスの中で組み立てられ、先ほど感じたいやらしい視線への嫌悪感が不意に蘇った。身体中を強張らせながら、アリスは恐る恐る口を開く。
「あいつに抱かれろってこと?」
空気に溶け込んでしまいそうな微かな音量だったのに、不思議とそれは響きわたり、目の前の男女は沈黙した。男は感情を綺麗に隠した無表情で。女は憤りの持って行き場をもて余すように唇を噛み締めて。
その沈黙は肯定を示すものだと、理解できないほどアリスは幼くなかった。
「なにそれ」
呆然と呟き、次の瞬間アリスは反射的に踵をかえしていた。扉の取っ手に手をかけたところで後ろから声がかかる。
「何処へ行く気だ?」
静かな声に咎めるという意図があるのか咄嗟に判断がつかない。もっとも男の立場を考えれば、ここでアリスを連れて行かなければならないことは明白だ。つまり、男は今この瞬間敵である。
慎重にならなければならない場面だった。けれどもアリスはまだそこまで知恵を回すことができず、昔と同じようにただ己の内にわく凶暴な感情の渦巻きをそのまま外へとぶつけることしか知らなかった。
「決まってるでしょ! 逃げるのよ! あんな男に抱かれるくらいなら死んだ方がましじゃない!」
反射的に怒鳴り、扉を開けようと力をこめたアリスは、けれどもそれ以上動くことが出来なかった。背中から浴びせられているのが、紛うことなき殺気だと気付いてしまったから。
「良い度胸だな。俺の前で堂々と逃亡宣言か」
男の音量は決して大きくはなかったが、威圧感に溢れていた。
身体中に冷や汗が流れる。取っ手を握り締めた手は正直な反応を示して震えていた。
「お願い、キース。見逃して」
振り絞るような声を出したのは女。ほんの少し殺気が揺らいだのをきっかけに、アリスはその場に座り込む。恐怖から力の入らない身体をそのままに、顔だけ振り返る。
女は涙を目にためて傍に立つ男を見上げていた。初めて見る弱々しい姿に、驚くより疑問を抱く。
何故彼女がアリスの味方をしようとするのか、分からなかった。
「ミア」
「ねえ、お願い! 私が責任を取るから!」
「軽々しくそんなことを口にするな!」
「軽々しくじゃないわよ! リリイ! さっさと逃げなさい!」
弱々しい様が嘘であったかのように、激しい口調で叫んだ女は、床にへたりこむアリスを認めて舌打ちした。
「立って! 走るの!」
叫ぶように指示を出しながら、流れるような動作で懐から銃を取り出す。女は確かな敵意をその瞳に乗せて銃口を男へ向けようとした。しかし、察していたのだろう。男の動きの方が早かった。元からの実力差か、それとも頭に血がのぼっている者と落ち着きを保つ者の差か、アリスには分からない。けれども男が無造作に、素早く拳を女の腹に埋め、女が倒れたことで、自らの味方がいなくなったことだけを悟った。
力の抜けた女の身体を近くのベッドに横たわらせた男は、大きく嘆息してからアリスに向き直る。
「今起きたことは内密に」
まだアリスは身体に力が入らなかった。だから床に座ったまま、か細い声で答える。
「そんなにその女が大事?」
男は、女がアリスの逃亡を助けようとしたことを揉み消すつもりらしい。そして、アリスを薄汚い豚野郎の元へ連れていくつもりだ。
腹が立った。憎くもあった。殺したいとも思った。
今夜アリスを求める豚野郎が一番悪いことは理解できた。が、男は命令に逆らうことなくアリスの逃亡を拒んだ時点で憎むべき対象だ。
けれどもアリスは腹に力を入れて立ち上がる。
「分かった。誰にも言わない」
だって、女に罪はない。先程は本気で男と敵対する覚悟をもって銃に手をかけた。アリスを守ろうとした。男への敵意が欺瞞には見えなかった。
ただ、理由は分からない。今まで女がアリスに親身になったことなんて一度もなかった。嫌なことをされた覚えしかない。
「それから、ちゃんとあんたについていく。だから、教えて。何でそいつ、ミアは私を庇ったの?」
ミア、と初めてその名を口で転がし、視線をやる。ぴくりとも動かない彼女が起きる気配は全くなかった。
そんな彼女の痩せた頬を愛し気に撫でた男は、起こさないように配慮したのか、元々の質なのか、静かに話し始める。
「ミアには、妹がいた」
そんな語り口で始まったある姉妹の話。
孤児だった二人は暗殺組織に拾われる。姉は才能を見出だされ、一流の暗殺者へ。妹は才能が無かったため、組織のバックについているマフィアに引き取られた。そのまま妹は粗悪な売春宿に売られそうになるが、既に実績を出していた姉が庇い、結局はマフィアの幹部の愛人の座におさまる。
「ミアは必死だったさ。自分がしくじればすぐに妹は売られて手の届かない場所に行ってしまう。妹の方も姉が自分の為に手を汚していることを知っていたから、月に一度の面会の時には弱音を吐かず笑顔を絶やさなかった」
アリスはただ黙って話を聞いていた。ミアを兄のルークに、妹を自分に重ね合わせながら。
男が一呼吸入れたタイミングで、そっと疑問を口にのせる。
「今、その妹さんは?」
ミアはその存在を今まで一度も匂わせたことがない。だから、答えは予想していた。
「三年前に死んだ」
知らず深く息を吐き出す。どんな反応を返して良いか悩んだ挙げ句黙りこんだアリスに向かい、男は静かに続けた。
「自殺だと言われたが、本当のところは分からない。死体すら見せてもらえなかった。それからミアは暗殺者を止めて教育係につくことになった。そこからはお前の知ってるミアだ」
男は過去の話を終わらせ、疑問を挟む余地を与えずに、アリスを正面から見据えて口を開いた。
「ミアが厳しい訓練を課すのは、暗殺者としてやっていけない者には酷い末路しか待っていないからだ。生きたまま臓器を取られたり売春宿に売られたり。どの道すぐに死んじまう。ミアはお前に妹を重ねていたからな。仕事の時死んだりヘマをしないよう余計に厳しく接してた」
「だから、あんなに怒ったんだ」
漸くアリスは先程の女の行動に納得がいった。それと同時に、目の前で女の髪を愛おしそうに撫でる男への嫌味が勝手に口をつく。
「そういうことなら、命令通り私をその豚野郎のところに連れていったら、絶対あんたミアに嫌われるよね」
良い気味だと嘲笑をこめて吐き捨てた。
しかし男は撫でる手を止めないまま、女に優しい眼差しを注ぎ、答える。
「嫌われても良いさ。こいつを守れるんなら、それで」
思わず言葉に詰まってしまった。自分の言動があまりに幼稚だったことに遅れて気付き、アリスはかあっと頬を赤らめる。それを隠すようにそっぽを向き、今度は心の中で吐き捨てる。
こいつ、大っ嫌い!
覚悟を決めて、アリスは男についていった。何をされるのか、分かっているつもりだった。
しかし、現実は予想よりもずっとずっと惨かった。
明け方、再び男に付き添われてアジトに帰る。
男は無言だった。アリスも一切口を開かず、俯きながらただ足を動かした。
そしてやっとのことで辿り着いたアリスの部屋。男が扉を開く。
「リリイ!」
床しか見ていなかったから、アリスは何が起きたか分からなかった。唐突に何か温かいものに包まれ、先程までの行為が脳裏に蘇る。
「やっ、離れて!」
弱々しく手で押し退けるのに、何かは覆い被さったまま。混乱が増して、散々泣きはらしてもう出ないと思っていた涙が目尻にたまる。
助けて、お兄ちゃん、心の中でそう叫んだ時、耳元で柔らかな声がした。
「もう大丈夫よ。辛かったわね。よく耐えた。偉いわ、リリイ。ああ、こんなに目腫らしちゃって。あの豚野郎、絶対いつか殺してやるから」
何故かその声は鮮明に耳に残り、アリスは暴れるのを止めた。きょとんと自分を抱き締める女性を見上げて、呆然と声を出す。
「ミア?」
何故彼女がここにいるのだろう、そんな疑問を抱きながら見詰めていれば、ミアは顔をくしゃっと歪めながらも笑みを作った。
「そうよ。本当に、よく耐えたわ。このアジトにいる間は私が絶対あんたを守るから。だから」
それ以上ミアの言葉は耳に入って来なかった。
大声を出しながら涙を出し続けたから。その後は目が痛くて、鼻水が止まらないから鼻も痛くて、叫ぶように泣きわめいたから喉も痛くて、少し前までの行為で下半身も痛くて、ただただ全身が痛かったことしか覚えていない。
これはあとから思ったことだが、アリスはこの時ミアの存在を認めたのだ。甘えても良い対象として。日記の向こうの兄は優しいけれど、触れ合えない。けれどもミアは違った。柔らかく包み込んでくれた。
それは、本当に久しぶりにアリスが味わった人の温もりだった。
いつの間にか眠りこんでいたアリスが目を覚ました時にも、ミアは傍にいてくれた。同じベッドに横になり、本を読んでいたミアはすぐに気付いた。
「起きた?」
腕が伸びてきて、前髪を払われる。広くなった視界には、此方を穏やかに微笑みながら見詰めるミアが映る。
急に羞恥がこみあげてきた。恥も外聞もなく、今までつんけんした態度しかとってこなかった相手に泣きついた記憶が蘇ったのだ。
自然と俯いたアリスの耳に、落ち着いた声が響く。
「どうしたの? 具合悪い?」
小さく首を振る。
「そう? でも、今日1日は安静にしてなさい。仕事も訓練も休みにしたから」
久しぶりに受けた優しい言葉に、どう応えれば良いのか。アリスはその方法を忘れてしまっていた。だから、ただ小さく頷くに留める。
ややして、ミアが微かに笑みのこもった吐息をもらした。次いで呟く。
「私が、怖い?」
跳ね上げた視線の先で、ミアは悲しげに、けれども穏やかに微笑を浮かべていた。
「今まで散々あんたのことしごいたもの。無理ないわ。私はもう行くから、安静にしてなさい」
そう言い残してベッドから出ようとしたミアの袖を、反射的にアリスは掴んでいた。
「リリイ?」
「アリス」
つっけんどんな態度で、それでもアリスは彼女にリリイと呼んで欲しくないと思ったから、言葉を続けた。
「私の名前はアリスよ。リリイじゃないわ」
吐息と共に、掴んだ袖が揺れた。ミアはベッドに座り、どこにも行かないと態度で示す。そうしてから、いつもの女性にしては低めの声を出した。
「そう。それがあんたの本当の名前なのね」
一拍おいてから、彼女はその名を口にする。
「アリス」
日記の中の兄は、いつだってその名を記してくれた。けれどもアリスと呼びかけてはくれない。
だから、その音の連なりを耳にするのは本当に久しぶりのことで、胸の奥にじんわりとした喜びが広がる。今この時、やっとアリスは自分が確かにここに存在しているのだと実感できた。
「そうよ。アリスよ。今度からリリイって呼んでも返事しないんだから」
甘えた台詞を吐きながら、アリスは束の間兄のことを思った。念能力のことはよく分からないが、変な女の子が兄の本名を暴いてくれて良かった、と。
本名で呼ばれることがこんなにも嬉しいのだと、アリスはこの日初めて知った。