それからアリスは、ミアに全てを話した。家族四人で暮らしていたこと。父と思っていた男が父ではなく、傷ついて家出をしたこと。兄と男が迎えに来てくれたが、母は来なかったこと。それから各地を転々とし、ある時弱いから守りきれないと言われて売られたこと。変な日記のおかげで兄の動向は知っていて、男はもう生きておらず、兄は最近小さな盗賊団に入りながらアリスを探していること。
ミアは黙って耳を傾けてくれた。そして全てを話し終わって様子を伺ったアリスに対し、手を伸ばす。
「まあ、事情があることは知ってたわ。髪の色も染めてるでしょ? お洒落にしては頻繁に手入れしてるし。それに初めの方は名前を呼んでも反応が鈍かったから、偽名なんだろうとも思ってた」
アリスは目を丸くする。ミアの観察眼が鋭いのか、自分が迂闊だったのか、分からなかった。そんなアリスを、ミアは優しく宥める。
「気にしないで。ここにいる奴は皆何かしら事情があるし、他人に興味なんかないから。ただ、ここに来た時のあんたはちょうど妹がここに来た時と同い年だったから、最初から気になってたの」
初めて知る事実に驚愕する他ない。
アリスにとってミアは出会った時から高圧的な態度をとられた嫌な女という印象しかなかった。その裏に隠された感情など、察しようともしなかった。
「全然知らなかった」
自然と零れ落ちた言葉に、ミアは軽く首を傾げる。
「私、ミアのことずっと嫌いだった。だって訓練はきついし、脅してくるし」
正直に胸の内を明かせば、ミアは苦笑をもらす。
「それが一番良いと思ったのよ。早く一人前の暗殺者になって欲しかったし、下手な情をもってもお互いの為に良くないと思ってた。でも、今回のことは許せない。キースだって結局言いなりになって。だから男は信用できないのよ」
ぐっと拳を握り締め、眉間に皺を寄せるミアの姿が、懐かしい人の記憶を思い起こした。
ルークは、アリスが怪我を負ったり憔悴していると、いつもまるで自身が傷付けられたかのように悲しんでくれた。時にそれは親代わりへの怒りに変わっていたことも、アリスは知っている。
「ミア。あいつ、キースは悪くない」
はっとしたように顔を上げたミアに、アリスは無理矢理笑みを作った。
「確かにすっごい嫌なことだったのは否定しないけど、あの赤毛のデブは大っ嫌いだけど、キースは命令されただけだから。ミアはキースと恋人同士なんでしょ?今まで通り仲良しでいてね」
「でも……」
「ミア。お願い」
アリスの頭の中には、壊れた兄の日記が浮かんでいた。親代わりへの思慕を無理矢理押し込めたせいで歪んでしまった兄。ミアには兄のように苦しんで欲しくはなかった。
だから、アリスは優しくしてくれたミアに優しさを返したいと思って、キースへの嫌悪を押し込めた。
「あ、でもあいつに私の名前とかお兄ちゃんのこととか教えたら駄目よ」
「私とアリスだけの秘密?」
「そう。二人だけの秘密。破ったら許さないんだから」
茶化してみせることに必死のアリスは、だから気付かない。その笑顔が強張っていることに。下手くそな強情がミアの罪悪感を刺激し、より偽りの仮面を被ることに長けたミアの微笑の裏に苦悩が渦巻いていたことに。
一週間後のことだった。
「リリイ」
アリスの部屋を訪れたキースが無表情でその名を口にした時、アリスは奇妙なほど落ち着いて続く言葉を待つことができた。
「テラドさんがお呼びだ」
あの一度きりでないと予想できたからなのか。ミアという味方ができたからなのか。今回はアリスは逃げる素振りも見せず、従順に頷く。文句が出ることを覚悟をしていたのか、予想外に静けさを保つアリスに、男は一瞬訝しげな顔をしてみせた。男の意表を突けたことに満足し、アリスは口を開く。
「多分ミアは悲しむから、傍にいてあげて」
兄に対しては出来なかった思いやりを、アリスはこの時学んだ。その優しさが導く結果を知らずに、ただ気丈に少女は笑ってみせた。
アリスにミアという味方ができた頃、兄の日常にも変化が生まれていた。
″今日もマリアと会って話をした″
盗賊団の一員として向かった場所で知り合った、普通の女の子。友達になったのだというマリアとの触れ合いは、ルークから歳相応の反応を引き出しているように思う。会いたいと思ったり、共にいる時間を楽しんだり、別れを惜しんだり。盗賊団の人達とはいまだ距離がある中、ルークにとって初めての友達の存在感は大きいようだ。
兄がアリスの知らないところで他人との絆を深めていることは、やはり少しだけ寂しい。それでも、アリスは知っていた。ミアという頼れる存在がいることで己がどれだけ助かっているのか。だから、兄に同様の存在ができたことは、寂しいと共に嬉しくもあるのだ。少し前までの孤独な兄を思えば、嬉しさの方が遥かに勝る。
「お義姉さんができたりするのかなあ」
日記によると、女友達というよりもっと親しげなやり取りも交わしているらしい。
「普通の子と結婚して、普通の生活ができたら、それがお兄ちゃんの幸せだよね」
今は盗賊をしているけれど、アリスを迎えに来てくれたらその後はきっと過去を捨てて普通の生活ができるに違いない。その時ルークの隣にマリアという少女がいても、アリスは快く許してやろう。
「だから、早く私を見付けて」
いつか来るのだと固く信じている幸福な未来を夢想して、アリスは強く念じた。
その念が通じたのか、それから少し時が経った頃のこと。漸くルークが情報屋の少年に提示された額の金を用意できた。
″明日、念能力者のところへ行ってくる″
その日記を読んだアリスは一目散にミアの部屋へと駆け込んだ。
「ミア、聞いて! お兄ちゃんが私を見つけてくれるかもしれない!」
「本当に!?」
「本当! 日記に書いてあったもの! ねんのーりょくしゃのところへ行くって。そういえば、ミア。ねんのーりょくしゃって何? 」
こてんと首を傾げれば、ミアは呆然としたあと恐る恐るといったように尋ねてくる。
「あんた、念を知らないの?」
「お兄ちゃんが昔オーラを感じとれとか言ってたけど、よく分かんなかった」
あっけらかんと言い放ったアリスは、深い溜め息を返され、少しだけむっとした。けれども念のこと、そして兄との日記も念能力なのだと分かりやすく説明されてしまえばその反応には納得するしかない。
「本当に知らなかったのね」
「悪い?」
「悪くはないけど。念能力のこと知らない振りしてるだけだと思ってたわ」
「何の為によ」
「組織に悪用されない為に」
真剣な台詞に、ふてくされていたアリスは息を呑んだ。
「あんたのお兄さんとしか日記を繋げないなら問題ないわ。でも、その念能力改良したら多分すごい武器になる。相手の情報を誰にも知られずに入手できるんだもの」
ぽんとその思い付きはわいてきた。
交換日記を交わす文字は日本語。アリスとルークしか知らない、秘密の言葉。だから、恐らく日本語を知っている兄としかこの交換日記は使えない。
ほんの少し迷って、アリスはこの秘密を胸の内にしまっておくことにした。前世の記憶をミアが信じるか分からない、という疑念からではない。ミアは大事な存在で今まで何でも話してきたつもりだが、一つだけ兄とだけの秘密をとっておこうという子供っぽい独占欲があったからだ。
「改良とかしないから、私には関係ないよ。お兄ちゃんが私のこと見付けてくれたらこの組織ともさよならだし」
強引に話を戻して、漸く気付く。兄が迎えに来てくれたら、ミアとは離れ離れになってしまうことに。
想像しただけで悲しくなってきたアリスは、ミアの両手を勢いよく掴む。
「そうだ! お兄ちゃんが迎えに来てくれたらさ、ミアも一緒に行こうよ! キースも、本当は嫌だけど、連れて行って良いよ」
それはとても素晴らしい考えに思えた。
兄とミアという大事な人と過ごす日常。マリアは勿論兄の大事な人らしいから一緒に暮らすことに異論はないし、あの男のことは心底嫌いだが、ミアの為に少しくらい目を瞑っても良い。
一気に華やいだ未来像を思い浮かべ、アリスは満面の笑みを浮かべる。
「私も?」
「そうだよ! ミアも! 大丈夫。お兄ちゃんはすっごく強いんだから。念能力だって使えるし。皆連れて逃げてくれるよ」
「そっか」
「うん!」
「そうだね」
力強く頷けば、浮かない表情だったミアが漸く微笑を向けてくれる。アリスは嬉しくなった。同じ未来を共有できると思えたことが、ただただ嬉しかった。
次の日の日記で、アリスはそれを知る。
″駄目だった″
念能力でもアリスは見付けられなかったのだという。
期待した分だけ気持ちは深く沈みこんだ。何もする気が起きなくて、訓練をさぼり部屋に閉じ籠る。
ミアが様子を見に来たのは昼になってからだった。
「アリス? ご飯食べる?」
布団にくるまったアリスの傍らに座ったミアは、兄のことを何も尋ねない。その柔らかな心遣いにまた泣きたい気持ちになりながら、のそのそと顔を出す。
「ミア。私、もう一生お兄ちゃんに会えないかもしれない」
疑問も慰めも口にせず、頭を撫でてくれたその手が暖かくて、ぽたりと涙が溢れ落ちた。
「手掛かりの交換日記から私を辿れなかったの。私のもの、もうお兄ちゃんのところには何にも残ってないのに。ねえ、ミア。何で? ずーっとお兄ちゃんと交換日記してたのよ? 私とお兄ちゃんの思い出がいっぱい詰まって」
しゃくりあげると共に、また涙の粒が頬を伝う。とんとんと優しく背を叩かれるのに促されるようにして、暫しアリスはすすり泣いた。
それほど長い時間ではない。しかしアリスの涙が止まり頭に冷静さが戻った頃、ミアがそれを察したのかぽつりと言葉をもらした。
「アリスにはもう日記があるから、残した日記はあんたのお兄さんの物になっちゃったのかもね」
はっと顔をあげれば、ミアは慰めるように続ける。
「本当の要因なんて誰にも分からない。特に念能力の制約は念能力者の考え方によって基準が大きく変わるから。念能力で作った交換日記は確実にあんたを支える力になってた。だから、作ったことを後悔しちゃ駄目だよ」
「うん」
ミアの言葉には素直に納得できた。一瞬だけわいた愛の交換日記への悪意は、ミアによって綺麗に取り払われた。
頷いたアリスを見て、ミアは穏やかに笑う。
「大丈夫。絶対にあんたはお兄さんに会える。会って、一緒に幸せな生活を送るんだ」
綺麗な笑みと共に紡がれた言葉は確信に満ちていて、けれどもアリスは落ち着かない気分になった。
「ミアも、一緒だよ?」
不安を解消する為に問えば、ミアは即座に頷いてみせる。
「もちろん。お兄さんが許してくれればね」
「絶対許してくれるよ。お兄ちゃんは優しいんだから」
ミアと共に笑い合いながら、けれども何故だかその時感じた不安は胸のはしっこに居座り続けた。
ミアに慰められたことで前向きな気持ちになれたアリスは、夜には日記を前にペンを取った。
"大丈夫だよ。お兄ちゃん。きっといつか会えるから"
自らの気持ちが落ち着けば、次に気に掛かるのは兄のこと。ルークには届かないと理解していても、慰めずにはいられなかった。
"うん。そうだね。俺が諦めちゃいけない。アリスが待っててくれるんだから"
返事は予想より明るいもの。やはり仲間がいることは随分とルークの助けになっているのだろう。
そういえば、とアリスは思い出す。前の日記にはヘンデスからもらった武器を壊されたことも書いてあったが、それに関してはさらりと流していた。むしろその後記憶読みの少女が壊れた武器を持ってきたことの方がルークにとって重要だったようである。
兄は、着実に強すぎる家族への執着を薄め、新たな仲間に馴染みつつある。
「仕方ない、よね」
どうしようもなく一抹の寂しさがこみあげる。声に出して自らに言い聞かせることで、アリスはそれを誤魔化した。
それからのアリスの日々は変化の少ない淡々としたものだった。暗殺の仕事をこなし、訓練に励み、時折男に呼び出され、人目を忍んでミアと語り合う。
一方の兄はといえば、盗賊団で盗みをしたり、人を殺したり、こちらも今まで通りの生活をしている。ただ、一つだけ兄の心を動かす出来事があった。
一人の少女。面白い能力をもつというその女の子は、前世の記憶をもっていた。そして、兄のいる盗賊団のメンバーを知っていた。顔見知りというわけでなく、前世で読んだ漫画の登場人物として。
兄の日記を読み、初めてアリスは前世と今世の繋がりを意識した。それでも、漫画の中の世界と言われても、兄の感じた憤りは感じない。前世の記憶はいまだに薄く、今の世界がアリスにとって生きる場所だ。それを誰よりも自分が強く実感しているから、よく知りもしない少女から否定されても何も感じなかった。
ただ、思う。
"俺はきっと、アリスに執着し過ぎている。漫画の世界に固執し過ぎた彼女みたいに"
「ばっかみたい」
どこまでも自虐に走る兄が、愚かで仕方ない。
執着されている本人からすれば、何の問題もなかった。もちろん多々美化された妹像にうんざりすることはある。が、うだうだ悩んでいる時間があるのなら、さっさと迎えに来て欲しい。直接会えればルークの執着も薄まるのだろうし。
「文句があったら直接言うから。だから、早く会いたいよ」
いくら思慕を募らせてもルークには届かない。
そんな日常に不満を感じていた頃、劇的な変化は思いもよらぬところから訪れた。