少女の話 5




 月に一度あるテラドからの呼び出しを受けて、アリスはいつも通り心の中で悪態を吐きながらベッドに転がっていた。
 こんこん、と扉が叩かれる音を聞き流す。

「うるさい。後にしろ」

 ぞんざいに返事をする豚を冷めた目で見ながらアリスはミアのことを考えていた。

 キースが迎えに来る直前まで一緒にいてくれたミアは、アリスをぎゅうっと一際強く抱き締めた。そして名残惜しそうに離れ、アリスの額にキスを送る。

「ミア?」
「あんたはよく頑張った」

 首を傾げても、ミアはアリスの疑問には答えない。常にない行動の理由を告げず、晴れやかに微笑む。

「こんな世界にいると、生きててもろくなことがないって思う。でもさ、なんか一つくらい救いがあっても良いと思うんだ。ハッピーエンドを夢見たいってね。私も女だからかな。囚われのお姫様が助けてくれた王子様と幸せと暮らしました、みたいなハッピーエンドがあったら良いなって思う」
「ミアには似合わないよ」

 突然の独り言に、思わずアリスは笑った。
 酷いことを言ったとは思わない。むしろそれはアリスにとってミアへの賛辞だったから。ミアは強く、美しい。王子様の助けを待つ前に一人で敵を蹴散らしてしまいそうな逞しさをもっている。

「うん。知ってる」

 けれども静かに肯定したミアに、笑いをおさめた。悪いことを言ってしまっただろうか、そんな不安に駆られて謝罪しようとする寸前、ミアが先に口を開く。

「あんたの王子様は絶対現れるから。もうちょっとの辛抱だよ」

 何かを口にする前に、背を押されてキースへと差し出されてしまった。
 これから悪夢のような一夜を過ごすことになるアリスへの励ましの言葉だったのだろうか。確信がもてず、キースに手を引かれながら部屋を出る間際、アリスは振り返った。

「ねえ、ミア」
「行きな、リリイ」

 キースの前だから偽名を使う。律儀に約束を守っているミアは、手を振りながら綺麗に微笑んだ。

 いつもと違う見送りに、胸のざわめきはおさまらない。キースに追及しても、答えは得られなかった。それからアリスの頭はミアのことで一杯だ。
 だからアリスはその時も思考を散らしていて、上手く現実を掴みきれなかった。

「え?」

 それは一瞬のことだった。
 自分に覆い被さっていた男の首から鮮血が飛び散り、力を失った身体が落ちてくる。重すぎる身体を押し退けて、唯一の出入口である扉に視線を向けた。

「やあ。こんばんは」

 にこやかな笑みを浮かべて挨拶した少年は手を振ってみせる。その指に挟まるのはトランプのカード。先程視界を掠めたものと同じ。
 一体いつその男が部屋へと入ってきたのかも分からなかった。アリスが僅かな殺気を感じ取って身体が危機へと対処する前に、豚は殺された。
 男がその気になれば、何の術もなく、きっと死の実感すらも得られないまま、自分は殺される。
 それは初めて感じた生命の危機だった。
 親代わりやミアの訓練は厳しかったけれど、殺されそうになったことはない。未熟なアリスに任された仕事のターゲットはいずれも一般人か念も知らない破落戸。本気の殺し合いなど、したことがない。

「君がリリイで合ってるかな?」

 逃げなければ、そう頭は判断を下すのに、恐怖で強張った身体は思うように動いてくれない。
 何も答えずにいるアリスに向かって、男はこてんと首を傾げた。

「リリイじゃないのかい?」

 肯定でも否定でも殺される気がした。過度の恐怖は判断力を著しく鈍らせる。暗殺者としてその恐怖を与える側であったアリスは、知識としてではなく初めてそれを自身で味わった。

「誰なの?」

 裸体を隠すことなく、武器になりそうな物を探すでもなく、一先ず問答に付き合い相手の出方を窺うでもなく、アリスは愚直に疑問を口にした。暗殺する対象が恐怖に駆られて頻繁に口にするその台詞を。
 アリスはそれに答えることなく、速やかに任務を遂行していた。だから、一拍遅れて自身の発した言葉の選択が誤っていたことに気付き、一層身を固くする。
 しかし、予想していた衝撃は訪れなかった。

「僕? 僕は囚われのお姫様を助けに来た王子様だよ」

 演技がかった声音でのんびりと発言した男に、殺意は窺えなかった。まだ何をしてくるか分からない為緊張はとけない。だが、アリスは少しだけ恐怖が薄れていくのを感じていた。

「貴方、ミアの知り合い?」

 ミアが別れ際かけてきた言葉が重なったのだ。
 恐る恐る尋ねれば、男は笑みを深くする。

「うん。ミアに頼まれたんだよ。とっても可哀想な女の子を助けて欲しいって。で、君がそのリリイで良いのかな?」

 素直にこくりと頷きはしたが、いまだ何が起こっているか把握しきれていない。
 本当にミアが彼にアリスを助けるよう頼んだのだろうか。けれどもその方法はあまりに杜撰だ。肉塊と果てた豚はマフィアの幹部。殺してしまっては、復讐は避けられない。

「良かった。合ってて」

 にっこりと笑うその姿は、己のしでかしたことの重大さを欠片も理解していないように見えた。こんな頭の足りない子を、本当にミアは頼ったのだろうか。しっくりこず、アリスは気丈に問いを投げかける。

「殺しちゃって良かったの?」
「もちろん」

 何がこの場を切り抜ける策があるのかと安堵しかけたアリスは、次の瞬間ぶるりと全身を震わせた。
 くふふ、と含み笑いをこぼした少年から殺気が迸る。ずっと笑みを崩さなかったけれど、明らかに今の笑いは異質だった。子供のように無邪気でいて、子供には絶対に出せない歪みを併せ持つ。

「だって、偉い人を殺さなきゃ強い人が出て来てくれないだろう? ふふふ。どんな能力者かな。ねえ、君はどんな人がいるか知ってる?」

 ふるふると震えまじりに首を振る。そう、と素っ気なく返した男に気を害した様子はない。アリスになど興味はないと態度全てで示している。
 それが幸運なことだとアリスは既に気付いていた。頭が足りないのではない。彼は只の狂人だ。命のやり取りを心の底から望んでいる。今こうして彼に怯えているアリスとは、明らかに異質な存在だった。
 ミアは今何処にいるのだろう。彼が敵ではないことは理解できたけれど、味方ではないことも察することができた。ミアも彼もお互いを利用しているだけなのだろう。ミアは彼のもたらす嵐に紛れてアリスを逃がす。彼は強い者と戦う。ただそれだけの関係だと推測できるから、二人きりのこの状況に安心できない。
 そしてアリスの予感は的中してしまった。

「あれ? 君、何処かで会ったことない?」

 ふと視線を寄越した男が無遠慮に近付いてくる。咄嗟にシーツを手繰り寄せて身体を隠したけれど、男の興味はそんなところにはないようだった。ひたと焦点が当てられていたのは、アリスの顔。軽やかな足取りでベッドの横まで来たかと思えば、至近距離で覗きこまれる。

「うーん。見覚えがある気がするんだけどな」

 言葉と共に吐かれた息が肌に当たる。そこからぞわりと走る悪寒。叫び出しそうになるのを必死で堪えた。

「なーんか引っ掛かるんだよねえ。姉妹とか?」

 兄弟とか、そう囁き声で続けた時だった。相手は何かに思い至ったように瞳孔を開く。捕食者の顔へと一気に変化した男がにたりと気味の悪い笑みを浮かべたところで、アリスも気付いてしまった。その心底怖じ気が走る笑みを以前見たことがあることに。

「ルークの妹!」
「ヒソカ!」

 叫んだのは同時だった。ヒソカは喜色を全面に押し出して。アリスは敵意をのせて噛みつくように。
 色褪せていた記憶が一気に甦ってくる。
 あれはまだアリスが兄と親代わりと共にいた時のことだ。いきなり街中で喧嘩を吹っ掛けてきた少年がいた。恐ろしく強く、かろうじて逃げることしか出来なかったことは屈辱の記憶として忌々しく刻まれている。
 一方のヒソカはとても嬉しそうだった。ルークは仕返しに行って倒したと言っていたが、事の真相をアリスは知らない。

「ルークは何処だい? ああ、早く会いたいなあ」

 恋する人物特有のうっとりとした口調だが、凶悪な笑みがそれを台無しにしている。

「僕の初めてを奪っていったんだから。そろそろ責任をとってもらわないと」

 命の危機とは違う意味の恐怖で背筋に悪寒が走った。

「気色悪いこと言わないで!」
「ん? 初めて僕に敗北という言葉を教えてくれたって意味だけど?」
「あんたねえ」

 飄々と答えてのける様に、脱力する。勘違いさせると理解した上で敢えて変な言い方をしたに違いない。
 そういえば、とアリスは思い出した。昔もこうして相手のペースに巻き込まれ、此方の事情をぺらぺらと話してしまい、最終的にはそれをネタに挑発されてやられたのだった。

「それにしても」

 今度はその手に乗るかと警戒しながらヒソカの声に耳を傾ける。
 アリスは気付いていなかった。この時点で既にヒソカの術中に嵌まっていたことに。

「今君が此処にこうしているって、お兄ちゃんは知らないのかな? それとも知ってて放っているとか?」
「そんな訳ないじゃない! お兄ちゃんは今も私を一生懸命探してくれているわ!」
「ふうん」

 意味あり気な相槌。さあっと血の気が引いていくのが分かった。まずい、と頭が警鐘を鳴らす。
 咄嗟に否定してしまったが、それは相手に情報を与えてしまったことと同意。この危険な相手はルークと戦いたがっている。如何に兄が強く、過去彼を負かしたとはいっても、今の彼に敵うかは分からない。

「つまり、君を餌にすれば、僕はルークと戦える?」

 その独り言は確信に満ちていた。今この場にいないルークだが、アリスを使って誘き寄せることは確かに可能だ。ルークの仲間には情報屋がいる為、餌を巻けば寄ってくるだろう。今までは組織の目があるので行動に移せなかっただけだ。

「お兄ちゃんを殺すの?」

 新たに浮上した懸念を、ゆっくりとアリスは口にした。此処から無事に逃げられるか否か、そんな心配は既に頭の中から消え去っている。

「もう熟れ時だったらね」

 さらりと放たれた意味の分からない言葉をアリスは肯定と取った。その瞬間、自分でも驚く程簡単に覚悟が決まった。
 恐怖は簡単には消えない。実力差だって理解してしまっている。勝てないことを、現実として認めてしまっている。
 それでも許せなかった。ルークを殺すかもしれない目の前の存在が、どうしても許せなかった。
 アリスはゾルディックの少年とは会ったことがない上、母親の死も見ていない。だから、そのどちらをも経験した兄が何故あんなにも強くなろうと必死になっていたのか、漸く今になって理解できた。

「お兄ちゃんに近付かないでくれる? この変態」

 大事な人を守る為ならば、何でもできる。武器も何もない状態で、闘志だけは際限なくわいてくる。
 そんなアリスに、ヒソカは片手で顔を覆い楽しそうに笑った。

「くははっ。止めてくれよ、そんなに怖い顔して」

 ずらした指の隙間から覗いた彼の目がにんまりと細まる。

「殺したくなっちゃうだろう?」

 それは捕食者の目だった。アリスは己を食らおうとするその視線を初めて受ける。否、受け止めきれなかった身体は動いてくれない。怯むな、戦え、そう闘志だけを維持することができたのは一重に意思の力だろう。それが更にヒソカを煽るとは知らずに、アリスは視線を反らさず捕食者を睨み続けた。
 お互いが隙を窺いながら睨み合っていたのはそう長い間ではない。けれども扉が開き、ヒソカの注意がそちらに向いた時には、アリスは膨大な量の汗をかいていた。

「アリス!」

 耳慣れた声が天の助けのように思える。

「やあ、ミア。そっちは終わったのかい?」
「終わったけど。あんたアリスに何したの?」

 部屋に入ってきたミアはそこで足を止め、ヒソカの次の行動を警戒するように睨み付ける。
 そんなミアを嘲笑うように、ヒソカは何もない空間からトランプを数枚取り出した。指に挟んだそれに、意味ありげに口付ける。

「怖いなあ。別に。まだ何にもしてないよ」

 そこでアリスは軽く背を押された気がした。というのも、警戒を解いてはいなかったのに、ヒソカの動きに全く気付けなかったのだ。気が付いた時には既に前屈みになっていて、その細い首にトランプが突き付けられていた。
 ぞわりと産毛が逆立つ。恐怖に抗う意思は消えてないのに、どう反抗して良いか判断できない。圧倒的に経験値に足りないアリスに取れる選択肢は限られていて、だからアリスは懇願するように救世主であるミアを涙目で見詰めてしまった。

「ちょうどこれから何かするところだったんだけど、どうしようかな」

 憤怒をその瞳に映したミアを挑発するように、ヒソカは愉しげにそう続ける。
 苦しげに眉をひそめたミアは一つ、大きな息を吐き出した。次いで意図して取り戻した落ち着きのある声を響かせる。

「リリイを無事に逃がす。そういう契約のはずよ」
「"リリイ"をね。確かにそうだけど」

 アリスの視界に影が入り込む。次いで耳に直接息を吹き込まれ、鳥肌が立った。

「この子は"アリス"だ。この部屋に入ってきた時、君がそう言った」

 ミアははっきりと表情を変えた。失態を悔やむように唇を噛み締める。

「″リリイ”でもあるわ」
「詭弁だね」
「どっちがよ」

 じりじりと肌を焦がすような緊張感を挟みながら二人は見詰め合っていた。ミアは忌々しそうに、そしてヒソカは余裕をみせて。一瞬の沈黙を破ったのはミアの方。彼女は何かを諦めたように深く息を吐き捨てる。

「アリス、あんたこいつと知り合いだったの?」

 疲労を滲ませながらもどこか吹っ切れたような笑みを向けられ、アリスは戸惑いつつ正直に答えた。

「昔、ちょっと。こいつはお兄ちゃんと戦いんだって」

 何故ヒソカに興味をもたれたのか、何故ヒソカに敵意を抱いているか、簡潔に説明する。

「そういうこと。あんたのお兄さん、疫病神なんじゃないの?」
「そんなんじゃない! お兄ちゃんを悪く言わないでよ!」

 思わず言い返してから、アリスは気付いた。ミアの様子がおかしいことに。
 背後にはまだヒソカがいる。突き付けられたトランプもそのまま。危機的状況は継続しているのに、ミアには余裕がある。だが、アリスは知っていた。ミアは強いけれど、きっと後ろの男には敵わない。ならば、何か策があるのだろうか。この状況を根底から覆すような、奇跡のような術が。
 希望を胸に、アリスはミアを見上げた。彼女を信じていた。自分以外の誰かが助けてくれるのだと、アリスは信じていた。

「まあでも、ヒソカの興味を惹くような男なら、それなりには強いって期待して良いわよね」
「少なくとも僕は期待してるよ」
「あんたには聞いてないわ」

 ばさりとヒソカの言葉を切って捨て、ミアは短い髪をかくように後頭部へと手を伸ばす。一瞬その視線が扉の向こうに消えたが、すぐにアリスへと向き直った。

「後のことは全てキースに任せなさい」

 儚げに微笑む姿に、アリスは漸く悟る。
 奇跡は起きない。ミアに策などない。彼女はただ覚悟を決めただけだ。先程アリスがしたのと同じ、それは自身を犠牲にして他者を生かす覚悟だ。

「待っ」

 不自然に言葉が途切れた。首筋に鋭い痛みが走る。赤毛の男が流した血に、アリスの血が混じり合う。

「良いこと思いついちゃった」

 場にそぐわないのんびりとした声を響かせたヒソカは、アリスの思いもミアの思いも理解した上で一つの思い付きを愉しげに語り始めた。

「今ここでアリスを殺したら、君ともルークとも楽しく遊べるんじゃないかな。ルークの居場所は分からないけど、きっといつか会えるよね。うん。わざわざ君を生かして誘き寄せるのも面倒だし」

 僕って頭良いなあ、と背後から呟くヒソカに殺気はなかった。殺す意思が感じられないのは、彼にその気がないから。遊ぶのではなく、ただ殺すだけの行為に殺気は要らない。道を歩いていて、邪魔な物があれば踏んづけるのと同じ。
 邪気のない殺す宣言に、アリスの身体は勝手に震え出す。声が出ない。ただで殺される気はさらさらないのに、身体が動かない。
 唯一視界に入るミアは、焦ったように再び扉の向こうを見やった。それから口を開く。

「キース!」

 ミアが叫ぶようにその場にはいないはずの男の名を呼び、しなやかな手つきで背から取り出した数本のナイフを此方目掛けて投げつける。アリスが視覚で認識できたのはそこまでだった。
 背後のヒソカに蹴りを入れられ、顔から血まみれのシーツに突っ伏す。呼吸が止まった気がした次の瞬間、思いっきり咳き込んだ。息をするので精一杯だったアリスは一拍遅れて気付く。視界が、否、身体全体が柔らかな布で包まれていることに。

「それで裏をかいたつもり?」
「なんとでも言いなさいよ。アリスはもう渡さないわ」

 遠くから聞こえる声の応酬に疑問がわきあがる。けれど自身を包む人物がキースだと予想できたから、アリスは動かず沈黙を保った。
 新たな人物の登場に、またしても期待した。助けてくれるのだと、期待した。


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