少女の話 6




 彼女は身動きが取れなかった。身体の上に重い何かが乗しかかっている。今にも押し潰してきそうなそれに、彼女は必死に耐えていた。腕の中に守った小さな命のために。

「助けて下さい。お願い。助けて」

 何が起こったのかまるで理解できなかった。対処の方法も分からない。自分は死ぬかもしれない。そんな状況で彼女の頭の中にあったのはただ一つのことだった。

「お願い、この子を助けて」

 生まれて一年にも満たない幼子は元気に泣いていた。まだ生きていることは明らかで、どうにかして子供だけは生かしてやりたかった。たとえ自分の命と引き換えにしても、助けたかった。

 そう、助けたかったのだ。

 まただ、と思いながらアリスは目を覚ました。涙に濡れた目を片腕で拭い、夢の内容、否、前世の記憶を思い返す。奇妙な確信をもって前世の最期と断定したその記憶の中、彼女は無力だった。赤子の泣き声を聞きながら、何も出来ず彼女は死んだ。すぐに救助が来れば赤子だけは助かったと思いたいが、中々死ねなかったという男、兄の最期の記憶が確かなら、望みは薄いだろう。

「誰も助けてくれない。だから、強くなりたい、か。その通りだね、お兄ちゃん」

 昔、親代わりと逃亡生活を送っていた頃だ。兄は時々そんなことを言っていた。否定する気はなかったが、自分はその意味を理解していなかったのだ。きちんと理解していれば、もっと学べる環境にあった。兄がヒソカに勝ったように、アリスだって真面目に念を覚えようとしていれば、結果は違ったかもしれない。ミアを、救えたかもしれない。

「なんで、全部終わったあとに気付くんだろう」

 兄のように昔から前世の記憶を取り戻していれば、何かが変わったのではないか。他力本願でただただ助けを待つことを愚かな行為だと気付けたのでは。
 だが、その自覚があまりにも遅かったことにもうアリスは気付いていた。
 ミアは、きっと既に死んでいる。
 涙が止め処なく溢れた。それがミアを悼むものなのか、前世の己の子を悼むものなのか、分からないままただただアリスは暫く茫然と泣き続けた。

 医者だという男が現れたのはアリスが目覚めてから半日ほど経った頃だった。彼によると一週間ほど眠り続けていたらしい。無駄と思いながら組織のことを聞けば、黙殺された。関わり合いになりたくないとばかりに早口で身体の状態を告げられる。

「肋骨は折れていないが、暫く安静にした方が良いだろう。背中が痛むようなら痛み止めを飲め。但し、あまり量は飲まないことだ。折角助かった子の命に障る。ああ、あと部屋の中は好きに使って良いが外には出るなとキースが言っていたな。食べ物は買ってきた分を玄関に置いてある」
「有難うございます」

 手持ちはないが、キースがお金を払ってくれているのだろうか、と考えながらアリスは反射的に礼を告げていた。医者の男が痛み止めであろう薬を出すのをベッドの上から眺め、そのまま彼が帰るのを見送ろうと立ち上がりかけた時、漸く頭が彼の言葉を認識した。

「子供?」

 この状況と結びつかない単語は未知の言葉のように耳を素通りしていたのだ。だが、聞き逃がせるはずがない。驚きと不安を胸に、医者を縋るように見詰める。
 彼は億劫そうに振り返り、ぶっきらぼうな口調で告げた。

「三か月。堕胎が希望なら早めに連絡しな」

 衝撃だった。足早に立ち去った医者を引き留め、詳しく話を聞こうという気も起きない。一人きりになった部屋の中、アリスは時間をかけてその言葉を頭の中で咀嚼した。ややして平なお腹にそっと掌を添えてみる。

「赤ちゃん?」

 答えを期待してのものではない。自分に問いかけるように口にして、じわりと湧き出る実感を噛みしめる。
 それは前世の時とあまりに違った。共に喜びを分かち合う夫や親、友人さえおらず、望んで出来た子でもない。意に沿わない行為の結果である子を、一人で育てることができるのか。
 小さく吐息をもらし、アリスは丁寧に腹を撫でた。
 考えるより前に、覚悟は決まっていた。


 キースが姿を現したのはそれから二週間が経ってからのこと。その間買い物などの手間を請け負っていた医者がそのことに何回か不平不満を零しつつ訪れており、本日キースが来ることも聞いていた。無言で部屋に入ってきたキースを一つしかない椅子に勧め、自身はベッドに座る。
 何から尋ねようか悩んでいたアリスは、結局まずはゆっくりと頭を下げることから始めることにした。

「私を助けてくれて有難う」

 ミアの頼みで協力してくれたことは容易に知れた。けれども彼に多大な犠牲を払わせたこともまた事実。そして責められてもいない内から謝るのは余りに自分勝手な行為だと判断したアリスは、謝罪ではなく素直な感謝を示す。
 一拍間を置き反応を窺うが、キースは黙したまま目線を合わせようともしなかった。少々戸惑いつつ、静かに疑問を投げかける。

「ミアがどうなったのか、聞いても良い?」
「俺があの建物に辿り着いた時には全てが燃えていた。だから何があったか答えられないが、ミアらしき遺体は見つかっている」

 久しぶりに聞いたキースの声は明らかに憔悴の色が濃かった。疲れているのだろう。そして、ミアの生存を諦めてもいるのだろう。
 アリスにも重苦しい空気はどっしりとのしかかってきた。ミアの死を、きっと誰よりその生を欲していたこの男から聞くのは辛かった。予想はしていても、心の準備はしたつもりでも、しつこく根付いた希望の欠片が壊れた衝撃は余りに大きかった。
 そっと胸を押さえる。意識して息を吐き出し、呼吸を整える。必死に波打つ感情を堪え、アリスは口を開いた。

「そう」

 素っ気ない一言を何とか吐き出し、抑揚のない口調で次の質問に移る。

「ヒソカは?」
「逃亡中だ。懸賞金がかけられたが、今のところ捕まったという話は聞かないし、恐らく全て返り討ちにしているだろう。あいつの口からお前の生存が漏れる可能性は低いとみて良い」

 すぐにはキースの台詞の意味を捉えられず、アリスは小首を傾げた。その様子を受けてキースは補足を加える。

「お前の身代わりを置いてきた。死体の損傷も激しいし、今はまだ混乱が収まってないから詳しく調べられることもないだろう。おめでとう。これでお前は晴れて自由の身だ」

 淡々とした口調で告げられ、アリスは押し黙った。実感が湧かなかったし、単純に喜ぶには犠牲が大き過ぎたのだ。そして生まれた沈黙を、キースは別の意味に取った。

「子供が負担なら堕ろせば良い。そこまでと新しい戸籍の面倒まではみてやる」

 ふるふると首を横に振る。そうしてから、キースが医者から子供のことを聞いたのだと気付いた。だからずっと沈鬱な表情なのだろうか。医者にも子供のことは聞かれなかったから産むとはまだ言っていない。
 アリスは小さく口元に微笑を浮かべる。それは、今日初めて彼女が見せる柔らかなものだったが、視線を落としていたキースは気付かなかった。

「有難う、キースさん。何から何まで本当に有難う。でも、もう大丈夫。戸籍まではお世話になります。その後のことは心配しないで。私、ちゃんとやっていくから」

 この子と二人で、そう胸の内で続けながらまだ目立たない腹を撫でる。心底愛し気にそこにいる存在へと穏やかな眼差しを注いでいたアリスは、返事がないことを疑問に思い視線をあげた。そこで初めてキースがまじまじと理解できないものを見るような目で此方を凝視していることに気付く。

「どうしたの? キースさん」
「そのキースさんというのは何だ? いや、そうじゃない。そうじゃなくて、お前まさか産む気なのか? 」

 混乱を露にするキースを目にするのは初めてのことだった。いつも無表情で淡々と物事をこなす印象の強いこの男には珍しいその姿に、笑みをこぼす。

「ええ、産むわ」
「理解に苦しむ」

 額に手を当て大きな溜め息をもらしたキースは、今度こそはっきりとした疑念をぶつけてきた。

「お前、本当にリリイか?」

 答えを口にはせず、アリスはただ微笑む。
 母と親代わりの男が受け入れてくれた前世の話をする気はなかった。念能力が存在するこの世界なら案外彼ら以外の人も信じてくれるかもしれないが、今後アリスはキースとの関わりを断つつもりだからだ。これ以上彼の優しさに浸ることはできない。もう充分過ぎるものを与えてもらっている。

「そうだ、キースさん。あと最後に一つだけお願いしたいことがあるの。断ってもらっても構わないんだけれど」

 無理矢理話を打ち切って駄目元で頼み込んだ願い事は、あっさりと受け入れられた。


 そこは懐かしい場所だった。アリスがまだ家族四人で平和に暮らしていると信じていた頃、時々遊びにきた公園。そしてヘンデスの正体を知り、癇癪を起こして家を出た日に逃げ込んだ場所。
 迎えに来たのはヘンデスと兄の二人だけで、母は来なかった。交換日記に家族を否定する文句を書き込んでしまったことは今も辛い思い出だ。兄は読んだだろうが、母には伝わっていなければ良い。
 そんな後悔があるからこそ、今から訪れる別れの時に兄へ伝えるべき事柄を慎重に思い返しながらアリスは公園へと足を踏み入れる。

「本当にこれで良いのか?」

 協力を頼んだキースが横から聞いてきた。遠目に兄ともう一人、女性が待っているのを確認し、微笑みながら頷く。
 今更だった。そして、もう覚悟は決めていた。

 アリスは療養中、愛の交換日記で兄の動向や胸の内を掴んでいる。そこで知ったのはあまりに兄らしく、馬鹿らしい葛藤だった。
 初めての友人、仄かな恋心を抱いていた少女の関係者らしき人物の家を兄は襲撃した。そこで初めて兄は自覚したのだ。自分の手が血に濡れていることを。より正確に言うならば、血に濡れていることを当然だと受け入れていることを。そして恐れた。兄の中で綺麗な幻想となっている妹との清らかな生活を送ることが不可能だと思い知ることを。
 現実にはアリスの手だって汚れている。人だって数え切れないほど殺してきた。だから兄の不安は杞憂だった。
 しかし、これからは違う。腹に子がいる。前世の記憶もある程度戻った。今ならば、母が悪事とは関わりのない穏やかな暮らしを望んだ理由がよく理解できる。たとえ将来自らは報いを受ける日が来ようと、せめて子供だけは平和に暮らしてもらいたい。その選択肢を用意することが母親としての義務なのだと強く思う。
 アリスは完全に裏の世界から足抜けするつもりでいた。そこに兄を付き合わせることはできない。頼めば内心の不安を隠して了承してくれるだろうが、既に彼が裏の世界にどっぷりと浸かりきっていることを知っている。その世界でできた新たな絆、蜘蛛の盗賊団に愛着を抱いていることも。
 ヘンデスよりアリスを優先することを決めて兄は充分苦しんだ。だから、今度は決して蜘蛛の盗賊団を捨てさせて妹を選ばせるようなことだけはするまい。

「茶番に付き合ってくれて有難う、キースさん。さあ、行きましょう」

 演じなくてはならない。兄の事情など何も知らず、無邪気に他の人の手を取って幸せになる妹を。
 伝えなくてはならない。たとえどんな道を選んでも、そのままの兄を愛していることを。


 全てはアリスの思惑通り進んだ。兄と共にいた記憶読みの女の存在が唯一の不安要素だったが、期待通り口を噤んでくれたことが幸いした。どんな意図かは分からないが、ルークにアリスを選んで欲しくない、これからも蜘蛛の盗賊団にいて欲しいという願望がそこにあれば良いと思う。

「終わったな」
「ええ」

 兄との別れは済ませた。これからはアリスは腹の子の為に生きていく。今後は愛の交換日記を使うこともないだろう。お互いの道が交差することは決してないのだから。

「変なの。自分で決めたことなのに、寂しいわ」

 ゆっくりと歩きながら、緩む涙腺を自覚する。小さく鼻をすすってから涙の気配を誤魔化しきれないと判断したアリスは、自らそう口にした。

「気にしないでね、キースさん。私、後悔だけはしていないから」

 空気を読むとか慰めるとかいう行為がこの男に可能なのか分からないが、牽制はしておく。

「そういえば」

 効果はあったのか、キースはいつも通りの平淡な口調で語りかけてきた。

「今後、お前のことは何と呼べば良い?」
「え?」

 突然の話題に反応できず、思わず足を止めた。一歩先を行っていたキースは気付いて振り返る。

「新しい戸籍の名はマリアだ。呼び慣れた名はリリイ。そして本当の名はアリスだろう?」

 瞬きをしながら見詰めた先のキースは真顔だった。アリスの困惑を意に介す様子もなく、発言を撤回することもない。仕方なくアリスは自ら尋ねた。

「今後、貴方が私を呼ぶことはないわよね?」

 ここまでの付き合いのはずだ。兄と同様に、彼もアリスとは別の世界を生きていくはずだ。
 しかし、予想に反してキースはむっとしたように眉をひそめた。

「様子を見に行くことくらいはあるかもしれないだろう。お前が子供を産むなど、子供が子供を産むようなものだ。多少道理が分かってきてはいるようだが、子供は産めば勝手に育つものではない」

 言い聞かせるような口調で窘められ、アリスは今までの行いを心から反省した。この裏社会で生きる薄情そうな男に真っ当な心配をさせるほど、今までの自分は幼かったのだと。

「大丈夫よ、って言っても今は信じてもらえなさそうね」

 己が未熟なばかりに余計な心配をかけることを申し訳なく思う。けれどこればかりは此処で問答してどうにかなる問題ではない。

「出来ればリリイって呼んで欲しいわ。それなりに愛着もあるし、もうその名で呼んでくれる人は貴方しかしいないから」

 アリスは兄の為の名、そしてマリアはこれから産まれてくる子の為の名である。ならばリリイは子供の自分の象徴にしようとアリスは思った。この男にリリイと呼ばれる度に、自らを戒められるように。そして、いつかリリイと呼ばれることがなくなると良い。そう確かに思っていたのだ。
 その為、キースが何かと理由を付けてアリスの元を訪れるのは、まだまだ己が未熟だからなのだとずっと信じこんでいた。愛情をこめて子育てに専念するアリスの母性に惹かれるものがあったとは思いも寄らず、彼の真意に気付くには随分と年月を必要とすることになる。


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