知らない話 エレノア



 エレノアは震える身体を制御しきれないでいた。
 実力を過信していたわけではない。実際彼女はサンと組んでB級賞金首を相手にする実力はあるし、A級賞金首を捕らえた経験もある。賞金稼ぎとして名も売れてきた。だから今度も知恵と死力を尽くせば何とかなると、そう希望を抱いていた。
 そして実際に幻影旅団と対峙した後、その希望は粉々に砕け散った。

 闇競売が行われると情報の入った建物の一室で、サンとエレノアは朝早くから待ち構えていた。果たして本当に幻影旅団は来るのだろうか。半信半疑で、けれどいつ何が起こっても良いように気を張りながら待っていた二人の耳が異変を捉えたのは午後を少し過ぎたあたりのこと。
 建物の何処かで銃声が鳴った。重なるように悲鳴のような雄叫びのような、男の声が木霊する。何かが始まったのだと二人して部屋を飛び出した時には銃声がいたる所から響いていた。四方からの争いの気配に、サンの足が止まる。その目が縋るようにエレノアを見詰め、それを受けたエレノアは一つ頷くと瞼を閉じた。視界を閉ざし、神経を聴覚に集中させる。
 サンは五感があまり鋭くない。体力もないので、その念能力の凶暴性を除けば一般人と比べても遥かに弱いといえる。けれど一人でも多くの人を救いたいという意思は世界一だろうとエレノアは信じていた。その多くの人を多くの罪人、つまり加害者に置き換えても大差ないと理解していながら、彼女はサンの手助けをしたいと願う。彼が罪人に改心して欲しいと行動することで救われる命が実際に多くあったのだから。
 故にエレノアは神経を研ぎ澄ませる。幸いに彼女は強化系の能力者で、サンの弱点を充分に補えた。今もはっきりと一番近い距離から届く銃声を識別する。

「こっちよ」

 一声かけて先導する。音の発信源までもう少しというところで銃声が止んだ。足を止め、すっと片手を上げてサンも留める。すぐ先の部屋が目的地だった。まだ辺りから喧騒は聞こえるのに、まるでこの空間だけが切り離されてしまったかのように部屋からは物音一つ聞こえない。けれどもオーラが感じられた。隠すつもりもないのか、強烈にアピールしてくるそれは二つ。果たしてこのまま部屋に入っても良いのか。何か罠が仕掛けられているのでは。慎重になって足を硬直させたエレノアの耳に落ち着いた声が響く。

「逃げて良いよ、エレノア。あとは全部僕に任せて」

 弾かれたように勢いよくサンを見る。彼は緊張していた。声だって震えていたし、顔も強張っている。恐怖から滲む汗がぽろりとその頬に垂れた。けれども発言を撤回する様子はない。
 ふっと息を小さく零す。いつもサンはこうだった。弱い彼にとって大抵の賞金首は絶対に敵わない強者であるという認識がある。それでも決して志を曲げようとはせず、敵から逃げるまいと踏ん張るのだ。だからエレノアも頑張れる。お姉さんぶろうと意地を張れるのだ。

「何言ってるのよ。貴方はいつも通りに私の後ろにいれば良いの。守ってあげるから」

 にっこり笑えばサンは情けなく眉尻を垂れ下げる。けれども反論が返ってこないのは、実際に今まで守られているからだ。今回もいつも通り守ってあげれば良い。
 サンのおかげで平常心を取り戻したエレノアは、深呼吸してから行動を開始する。懐に忍ばせていた鞭をそっと両手に取り、気合いを漲らせて扉を足で蹴り開けた。
 部屋に突入してすぐ何かが飛んでくるのを鞭で跳ね返し、エレノアは視線を走らせる。
 錆び付いた血の匂いの発信源は部屋の中央に倒れていた二人の男だろう。出血量からしてもう生きてはなさそうだった。救助を諦めたエレノアは注意を侵入者に定める。
 女が二人。エレノアと同じか少し若いくらいの彼女達は平然とした様子を崩さない。眼鏡をかけた一人は部屋の壁に背を預け、此方に大きな目を向けている。戦いに加わる気配はない。もう一人、手にワイヤーのようなものを持っている美少女が相手になるのだろう。
 どんな能力者なのだろうと警戒を強めて出方を伺っていたエレノアの背中にそっと指が走った。サンが声なく伝えたのは、短い文字。マチ、とシズク。それだけでエレノアには伝わった。
 予め幻影旅団のメンバーの名前と能力はサンから聞いていた。その情報からマチとシズクに関するものを思い出す。マチは変化系の能力者でワイヤーのようなものは糸。糸の強度は身体に近いほど強く、身体能力も優れている。シズクは具現化系の能力者で、物体を何でも吸い込む掃除機が武器。戦闘能力はマチより低いとみて良いだろう。つまり、マチを捕らえることができれば此方の勝ちだとエレノアは判断する。

「有難う、サン」

 そっと告げた礼の言葉に、マチの方が僅かに眉をしかめた。この数秒の間に行われた情報の伝達には流石に気付かなかったようだが、何かがあったことには勘付いたのだろう。考える時間を与えてはいけない。優位性を保ったまま事を進める為、エレノアは鞭を軽くしならせ、マチ目掛けて攻撃をしかける。

「はっ」

 短い気合いの篭った声と共に放った鞭の先は軽やかに身を翻したマチを追って跳ねた。しかし、壁にぶつかって勢いが止まってしまう。この狭い室内では鞭の特性が生かせないことは理解していた。どうにかして屋外まで誘導できないものか、と窓に目をやったエレノアは小さく舌打ちをもらす。いつの間にかシズクが窓の手前に移動していたのだ。
 そうして注意をシズクに向けたのは一瞬のはずだった。エレノアとて場慣れしていないわけではない。対峙する相手と周囲の状況、どちらにどの程度意識を振り分けるべきか、身体にしっかりと身に付いている。一つ、過ちがあったとすれば、その身体に染み付いた習性が格下か同等の能力を持った相手に対するものだったということだ。

「エレノア!」

 サンの呼びかけに身体が回避行動を取る。しかし、その時には全てが遅かった。床を蹴ったはずの足が動かない。足を拘束されたと気付き鞭をしならせようとした両手にもいつの間にか糸が巻き付いていた。光に反射してその存在を主張する細い糸は見かけに反してぎゅっと肌に食い込む。じんわりと血が滲み出る。

「サン! 逃げて!」

 囚われたことを悟ったエレノアの頭に瞬時に浮かんだのはサンのこと。盾であるエレノアが身動きできない状態で、彼に何かができるとは思えなかった。
 振り返ることすらできない為、気配を探り、エレノアは息を呑む。慣れ親しんだ気配はすぐそこにあった。先程敵の情報を教えてくれたように背中に掌が当てられる。そして発動された念能力のオーラに、安堵の息を吐き出す。

「もう大丈夫」

 穏やかな声と共に背中から体温が離れていく。
 サンは見事念能力でマチの糸を消滅させてみせた。いつ見ても鮮やかな技に感嘆するも、すぐに気を引き締める。

「あんた、今何やった?」

 訝しげに尋ねる様に、ルークからサンの能力が漏れているわけではないと分かっても、到底安心は出来なかった。
 エレノアは既に理解していた。頭ではなく、実際に一度囚われた身体が判断していた。目の前の敵と自分の間には遥かな実力差があり、サンの能力を加味してもそれは絶対に覆らないことを。
 故にエレノアはマチの問いかけを無視し、サンへと言葉を投げる。

「サン、作戦Eよ」

 それは撤退を意味する言葉。後ろで悔しげに歯を食いしばる様が頭に浮かび、胸が痛むが前言は撤回しない。
 目前の敵を取り逃がすのはエレノアも惜しいが、今は命を懸けるべき場面ではない。そう理性が判断する。

「駄目だよ、エレノア。それだとこれから出る犠牲を放っておくことになる」

 サンも理解しているとそう思ったからこそ、反対の言葉が上がり、エレノアは息を呑んだ。
 ぐっと鞭を掴む拳を握り締めて、勢い良く振り返る。ここで悠長に問答する余裕などない。頑固者の説得を瞬時に諦めたエレノアが取ったのは、サンを鞭で縛り上げての逃走だった。
 最善の行動だった。多少抵抗されるが、サンのそれなど子供のじゃれつき程の力もない。あとはエレノアがありったけの力を足にこめるだけ。
 部屋を出て三歩。大股で跳ねるようにサンを抱えながら駆けたエレノアは、頬に風を感じた。次の瞬間、横っ腹に衝撃が走る。荒い呼吸を繰り返していた口から小さく呻き声が上がる。身体が宙を飛び、廊下の壁に投げ出される。己の身体が思うように動かない中、かろうじてサンの小柄な身体だけは胸の内に庇った。サンの安全を優先した結果、無防備に背中から壁に突っ込む。

「っは」

 止まっていた息を吐き出した瞬間、痛みが全身に走る。特に無防備に蹴りを食らった脇腹と壁に打ち付けた背はびりびりと電流が走っているかのように熱かった。
 薄目を開けてサンの様子を確認すれば、大人しく気絶している。衝撃はエレノアが吸収したので、無意識に念能力を発動するという最悪の事態だけは免れたようだ。ただ、もう一つの脅威が去っていないこともエレノアは理解していた。
 こつりと靴底が床を叩く音が響く。観念してサンから視線を上げれば、予想通り二人の女が此方を見下ろしている。

「止め刺さないの? マチ」

 黒髪の方、シズクが気だるげにマチへと問いかける。
 子供のようだと思った。邪気なく、悪気なく、善悪の判断がつかない子供のように、何でもないような顔をして悪事を犯す。エレノアはサンのように、彼らに改心する可能性があるとは考えない。善悪の判断がつくとは思えない。彼らは既に悪を是としてしまっているのだから。

「なんか嫌な予感がするんだよね」

 だから、エレノアはその後のマチの行動に善意の欠片を見出すことはしなかった。
 マチはエレノアの武器である鞭を使い、サンとエレノアを縛り上げ、シズクを連れて去って行った。
 エレノアの予想通り、マチは善意から二人を見逃したのではない。勘の良さから攻撃を受けた時自動的に発動するサンの能力を脅威と認識しての行為。
 しかし、生かされたことは事実だった。この場にサンがいなければ、エレノアだけだったならば、きっと己は虫けらのように殺されていた。そう確信できるからこそ、生かされて安堵を抱いてしまった。

「知らなかったよ、サン」

 まだ目覚めないサンに向かってエレノアは語りかける。

「弱いのって。ううん。私ってこんなに恥ずかしい人間だったんだね」

 敵に見逃されて安堵した己がたまらなく恥ずかしかった。見逃した敵に再び賞金首ハンターとして対峙しようと思えない己が泣きそうなくらい恥ずかしかった。そして、賞金首に恐れをなして逃げ出したくなっている理由を弱さだと一瞬でも断じた己が、許せなかった。
 隣で気絶しているサンは弱い。本当に弱い。それでも、目覚めたならばきっと幻影旅団と対峙する為に走り出すのだろう。一分走っただけで息切れするくせに、この頑固者が絶対に意思を曲げないことはよく知っている。

「ごめん、サン。私、一緒に行けない」

 ぽつりと涙が零れ出る。痛みより羞恥故に流したそれは、ぽたりとサンの頬に落ちた。


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