「ただいま」
服を血で染めながら戻ってきた少年の口調は、行きと同じく大層軽いものだった。
人を殺すことに慣れているのだろう。それ自体はどうでも良い。蜘蛛の盗賊団である俺だって、仲間と冗談を交わし合い笑いながら人を殺している。
それでも、先程目にした少年の殺しの映像が頭の中で何度も何度も繰り返されて、目眩がした。
生命のしぶとさを体現するかのように新鮮な心臓は力強い脈動を見せつける。それを掌に乗せた人物は未成熟な子供。少年は子供がお気に入りの玩具で遊ぶ時のような無邪気で美しい笑みを浮かべて。
ほんの少し、彼が力を入れただけで、赤黒い物体は弾け飛んだ。
「おい、ルーク」
肩を叩かれ、びくりと小刻みに全身が揺れる。自らの反応に動揺したせいか、鼓動の高鳴りは止まる様子を全くみせない。こみあげる激情を無理矢理押さえつけるように左の胸元をきつく握り絞め、深く深く息を吐き出した。それから頭をふって、自分自身に言い聞かせる。
キルアはあの黒髪の少年ではない。キルアが殺したのは俺の母親ではない。俺はもう、あの時の無力な餓鬼ではない。
警戒するのは良い。だが、必要以上にゾルディックを怖れるな。
「何だ?」
額に浮いた汗を拭いながらかろうじて出した声は、ひどく低く、掠れていた。
「いや、早く行かないか?」
びくびくしながら応えたトンパの声に視線を上げる。漸く意識が現実へと戻っていく。
舞台上に放置された遺体。その傍らに黒髪の暗殺者の少年が佇んでいるように見えるのはただの幻像だと言い聞かせて意識から切り離し、強引に視線をずらす。いつの間にか舞台の向こう側の通路まで進んでいた餓鬼達三人が足を止め、ぴくりとも動かない俺を不思議そうに見詰めていた。
「ルーク?」
首を傾げて名を呼んでくるゴンの傍ら、キルアと視線が絡む。
それは、突発的な行動だった。
内なる衝動に突き動かされるように出現した如意棒を左手に握り絞め、一瞬にしてキルアとの距離を詰める。振りかぶった腕を降ろした先に、目を大きく見開いた銀髪の少年がいる。ほんの刹那、視線が交わる。驚愕を露にしたその表情に、急速に殺意が萎んでいくのを悟った。
キルアは俺の動きに反応できていない。このままいけば殺れる。ゾルディックを、俺が殺せる。
そんな優越感と共に、違いをはっきりと理解したのだ。あの黒髪の少年は、人形のような眼をしていた。何の感情も宿さない、殺戮人形。彼とキルアは違う。キルアは、感情を持っている。驚いたり、笑ったり、自分の意思でゾルディックを出たり。
"ゾルディックには手を出すな"
冷静さを取り戻した頭に団長の低い声が響く。あれは命令だ。団長が命令したのだから、従わなければならない。破れば蜘蛛の刺青が俺を食い殺す。ゾルディックに殺された団員、アーティーの呪いはまだ生きている。
「っなんだよ一体!」
一拍遅れてクルルが声を上げたときにはすっかり興が冷めていた。ぎりぎりのところで静止していた如意棒を静かに下ろす。その先にキルアはいない。俺からすれば致命的なまでに反応が遅かったが、一応は避けようとその場を飛びのき、少し離れた位置で此方を威嚇するように睨み付けている。クルルの横でゴンが恐れのない真っ直ぐな視線を寄越してくるのには気づいていたが、全てを無視してくるりと振り返った。未だに何が起きたか理解できていない様子のトンパに向かって右手を上げる。
「何突っ立ってるんだ。早く来いよ。置いていくぞ」
「いやあんたが言うな! ってか何でいきなりキルアに攻撃してるわけ? 意味わかんねえ!」
喚く赤毛の餓鬼を見下ろし、適当な理由を口にしてみた。
「ああと、そうだ。殺気にあてられたんだ」
「やっぱりヒソカと同類じゃねえか!」
即座に切り返された言葉に、眉間に皺が寄る。
「ルーク」
そこに澄んだ声がかかった。
「それ、何処から出したの?」
純粋な興味しか見出だせないゴンの視線の先にあるのは、先程出した如意棒。
「気にすんのはそこかよ! ゴン! お前ももっとキルアの心配したり、って確かに。さっきそれ捨ててたよな」
舌打ちしたくなるのを何とか堪えた。何より先にその違和感に気付くゴンの洞察力が恐ろしい。
あっさりと如意棒に興味を移したクルルの視線を痛いくらいに感じながら頬を掻く。
「ああと、出したんだ」
「何処から?」
「どうやって?」
餓鬼二人の声が重なる。念能力だと言えれば楽だが、自分の能力をさらしたくはない。仕方なく、本当に仕方なく、納得し易い答えを用意してやる。
「もっと強くなれば分かるようになる。ほら、ヒソカも何もないとこからトランプ出したりするだろう?」
「そっか」
「やっぱあいつと同類か」
新たな強さの可能性に瞳を輝かせるゴンと、ぽつりと呟くクルル。ヒソカのあれは念能力ではないが、納得したなら良いだろう。とりあえず赤毛の方の頭を軽く叩いてやってから、いまだ壁にへばりついて此方を警戒するキルアに向かって声をかけておく。
「そういう訳だ。今後は無闇に殺そうとしないよう気を付けるから、お前も殺されないよう気を付けろ」
「どういう訳だよ」
先程の理由では納得できていない様子のキルアに、爽やかに笑いかけてやった。
「お前と同じように俺も退屈してるっていう訳だ。良い刺激になっただろう?」
「刺激、ね」
ぎこちない笑みが返ってくるが、その目は笑っていない。当たり前だ。さっき、俺が途中で止めなきゃこいつは死んでいた。敵とみなしてくるくらいでちょうど良い。
「よし、行くか」
トンパが遅れてやって来たので漸く歩き出す。キルアの殺気をこそばゆく背中に感じながら。
押し黙ってしまったキルアにつられて空気が重くなりながらも、通路をひたすら進んでいく。先程同様ちんけな罠が無数に仕掛けられており、ある個室に辿り着いた時には無駄に時間が過ぎていた。
「試練の間、か」
告げられた試練は単純なもの。○の長くて困難な道は5人で行けるがゴールに45時間以上かかる。短く簡単な道は三人しか行けないが3分でゴール。どちらかの道を選べば良い。
「残り48時間」
低い声を出したトンパに視線が集まる。
「俺は三人の道を選ぶぜ? 五人の道を選んだところで45時間でゴールできる保証はない」
トンパの言葉通り、五人の道を選んだところで最短ルートを進まなければ時間切れの可能性は高い。なんともいやらしい試練だ。試験官は相当性格が悪い。
「俺も三人! 新人潰しと変態はここで脱落しといた方が世のためになるだろ?」
元気良くトンパに同意したのはクルルだ。ちょうど良いので俺も意思を示しておく。
「俺は最初に宣言した通り、○しか押さない。だが、×の道になったところで鎖に繋がれる趣味はない」
×の道を選んだ場合、二人が鎖に繋がれれば扉が開く。暗に脱落者になる気はないと告げれば、ずっと沈黙を保っていたキルアが口を開いた。
「俺は……」
迷うように言葉を途切らせ、視線を床に固定するゾルディックの少年の内心を予想する。
三人の道を選べば、クルルの宣言通り餓鬼三人が俺とトンパと対峙する形になるだろう。その時俺と戦うことを考えて、今キルアは躊躇している。俺には決して敵わないと理解しているからこその、迷い。敗北が決定されている道を、選ばざるを得ない苦悩。
全ては予想だが、ぎゅっと拳を握る様を見れば、そう外れているとも思えない。
言葉を途切れさせたキルアに皆の注目が集まっていると思ったその時、元気の良い声が響きわたった。
「俺もルークと一緒で○!」
突然の大声を出した少年、ゴンは周りの反応など全く気にかけず、腕を組んで首をひねる。
「でもさ、どうやったら最短ルートで五人がゴールできるんだろうね?」
「ってもう俺と新人潰しのおっさんの二人が×を選んでるんだし変態のおっさんだって戦う気満々なんだからここは三人の道で決定だろ!? キルアと一緒に駄目人間をぶっ潰そうぜ!」
勢い良く突っ込みを入れたクルルを、ゴンは澄んだ眼で見詰めた。そして当然のことのように言い放つ。
「でも、俺はせっかくだから五人で合格したいよ。クルルも良い方法考えて」
三人だと自分が不合格になるかもしれないから、ではない。ただ純粋に五人全員が良いのだと訴える。
「っふ」
吐息だけで笑いを溢したのはキルアだった。さっきまでのどんよりとした雰囲気は一掃され、ついには腹に手を当てて笑い始める。
「なんだよ、それ。三人の道選んでるクルルに、五人全員で合格する方法考えろって?」
「うん! キルアも一緒に考えよ!」
殺伐とした空気が一気にゆるんだ。
上手いとしか言い様がない。三人の道を選んだクルルまで巻き込んで五人の道を選び且つ合格する方法を考えさせる。幸いまだ時間は三時間も残されていた。その間に四十五時間という最短ルートで行く方法を皆に考えさせる。考える内に、五人の道を選ぼうという気になるかもしれない。
「んなもんねえよ!」
明るくなった場に横槍をいれてきたのはトンパだった。ゴンに掴みかかる勢いで文句を連ねていく。
「分かってんだろ? さっきまでだって何度も同じところをぐるぐるさせられたんだ。お前らの選択に従った結果でな! このままじゃ最短時間で下に行ける訳ねえだろ!」
トンパの言葉は至極正しい。餓鬼共三人の意見が優先された結果、ここに来るまでの間何度も同じ場所を通り、随分な時間を消費した。トンパの意思を優先すれば時間が短縮されたのかといえばもちろんそんな保証はないが、実際に優先されたのは餓鬼共三人の意見だ。責任は全て彼らに押し付けることができる。
「うん。だからさ、今度は最短ルートを通れるよう皆で考えようよ」
卑怯でいて一理ある批判に、ゴンは全く動じなかった。それどころかにかっと笑いかけ、此方にも誘いをかけてくる。
「ルークも!」
あまりにも明るいその声に、つい苦笑がもれた。
「そうだな」
考えるだけなら考えてやっても良いかもしれない。そんな気分にさせられる。
「二択に拘る必要はない、か」
ふと思い出したのは、先程ゴンが女と対戦した時のことだ。女の二択に対し、ゴンは第三の道を見つけ出した。同じように、と考えながら二つ並んだ扉を見詰める。まじまじと上から下まで眺めたあと、目に止まったのは床だった。少し考えてから声をあげる。
「床をぶち破れば良いんじゃないか」
ひたすらぶち破り続ければ、いつか一階まで辿り着くだろう。それこそ最短距離でゴールできる。
蜘蛛の盗賊団の中では馬鹿だと思われているらしいが、意外と自分は頭が良いんじゃないかと少しだけ悦に入った時だ。
「試練の部屋に入った時点で○か×かどちらかを選ばなければ不合格だ」
機械を通して試験官による注意事項が述べられる。
ひっそりほくそ笑んでしまった自分が恥ずかしくなるから、そういうことは先に提示しておいて欲しかった。気まずさを誤魔化すように頬をかき、そっぽを向く。
「ずるは駄目だってさ、おっさん」
すっかり元気を取り戻したらしいキルアに憎まれ口を叩かれたのを無視して腕を組み直した時、大きな声が響いた。
「そっか!」
全員の視線が声の主、ゴンに集まる。
「壁を壊せば良いんだ!」
「あのな、ゴン。さっき試験官が駄目だって言ったばっかだろ?」
呆れたようにたしなめるクルルに対し、ゴンは得意気な笑みを返す。
「試験官は破壊行為は駄目だって言わなかったよ。○か×かを選べばこの部屋から出られるって言っただけで」
「そういうことか」
すぐに納得したらしいキルアの視線の先を見て、やっと俺もゴンの主張の意味を理解できた。隣合った二つの扉。その扉を開けてすぐの空間は壁一つに隔てられているだけでそれをぶち破れば繋がるはずだ。
ルールに則りながらいとも簡単に抜け道を探してみせたゴンを改めてまじまじと見やる。素直で純情そうな見た目に騙されそうになるが、随分と性格がひん曲がった餓鬼だ。女性経験が豊富で屁理屈も得意なことといい、中々侮れない。
「どういうことだ?」
隣で首を捻るトンパに丁寧な説明をしてやるゴンを見る目に少しだけ混じった警戒の色。それを敏感に感じ取ったのだろう。キルアがすっと視線を遮るように進み出る。
「何だ?」
「別に」
言葉とは裏腹に、切れ長の眼にははっきりとした敵意が浮き出ている。
「安心しろ。今は殺さないさ」
ゴンも、キルアも。蜘蛛の未来を知る鍵は既に手に入れた。イレギュラーの男に詳細を聞くまでは何ともいえないが、今の段階ではゾルディックに手を出すなという団長の命令が優先される。先程はつい頭に血が上ってしまったが、キルアを見る限り殺そうと思えばいつでも殺せるのだ。それはゴンも同様。人を惹き付ける不思議な魅力を持っていることや悪知恵が働くことはよく理解できたが、所詮は念能力も知らない餓鬼。念能力以外の体力や経験値でも俺の方が勝っていることは明らかだ。
近い未来、敵に回るかもしれない。だが、この餓鬼共にウボォーギンやパクノダを殺せるとは到底思えない。それは慢心ではなく、単なる事実。
「今のお前らは殺す価値もない」
ウボォーギンやパクノダを殺す、敵となる奴は他にいる。ゾルディックがそうだと予想しているが、それはキルアではない。この少年はそこまで強くない。
「よく言うよ。さっき本気で殺すつもりだったくせに」
痛いところを突かれ、言葉を詰まらせる。本気で少し前の自分を殴って正気に戻してやりたい。いまだにゾルディックの影に怯える少年の頃の思いが自分の中に残っているだなんて知りたくなかったし、誰にも知られたくない。ゾルディックが今後敵に回るならば、尚更に。
「だから言っただろう? 退屈だったんだ」
「キルア、ルーク! 早く行こう!」
見れば扉の前にゴン達三人が揃っていた。追求するようなキルアの視線から逃れるようにそちらに向かって歩き出す。
「そういうことにしておいてあげるよ」
早足で俺より先にゴンの元に合流したキルアが追い越し際放った言葉は、まるで恩をきせるよう。
本当に、生意気な餓鬼だ。